education

第1回BUIE映画祭

本日、BUIE学園前(札幌市豊平区)のリビングをお借りして、

「第1回BUIE映画祭」

を実施しました。

観た映画は

いのちの食べ方

おいしいコーヒーの真実

の2本です。

私達が日常的に食べている食事やコーヒーが

どのように生産されているか。

それを私達は結構知っていないんですね。

牛を電気ショックで殺し、

足をチェーンでつないで吊るし、

内蔵をかきだすシーン(『いのちの食べ方』)。

コーヒー1杯のうち数円分しか生産者にお金が回らず、

なおかつ世界の4社がコーヒー市場を独占しているという事実(『おいしいコーヒーの真実』)。

何度見てもショックです。

知ったからといって何か出来るわけではありませんが、

世界の見方が変わってきます。

そこからどう行動を変えていくかはそのひと次第です。

ドキュメンタリー映画を観るということは、

世界の見方を直接的に変えることになります。

だからこそ、皆で議論しながらドキュメンタリー映画を観る機会を

大切にしたいと思います。

皆で観ると、より映画の理解も深まります。

観て眠ってしまうことも減ります(ドキュメンタリーってけっこう単調で寝てしまいやすいです)。

みなで話しながら観るという映画経験は、

映画館では出来ません。

こういう気軽に映画を見る機会を積極的に行なって行きたいですね。

参加して下さった7名の皆さま、

ありがとうございました。

次回の第2回BUIE映画祭は、参加者の要望により、

『フード・インク』

『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』

『闇の子供たち』

…のどれかにする予定です。

お楽しみに!

教育名言集①

教育の大きな目的は知識ではなく行動だ。

ハーバート・スペンサー

夢と、思いと、今の自分と。

私は学生時代から「フリースクールで働きたい」という

思いがあった。

いま私の本業はそれに近い

通信制高校の教員。

結果的に、学生時代の思いが叶っているわけである。

しかし、職場の「バタバタさ」に適応していると、

自分の夢が叶っていることに気づけなくなる。




学生時代、私は

「どこでもいいから遠くで働きたい」思いから

高校教員の試験を受けまくった。

 

(それは大学の研究者の道の険しさへの挫折でもある)

 

 

結果的にそれが叶い、札幌にいる。

 

ただ、「贅沢」なことに、その進路に若干の

不満を持っていることも事実だ。

「なぜ自分は東京でなく札幌にいるのか」

「なぜ遅くまで働くのか」

ときどき、わからなくなる。

 

でも。

いまの状況は自分が願って勝ち取った進路であることを

思い返さなければならない。

どんな状況にいる人も、

その職場・環境を選択したのは「自分」であることを

思い返すべきだ。

 

 

いまの自分は過去の自分の「思い」が現れた姿である。

 

案外、自分の目標・思い・夢は知らない間にかなってしまっている。

でも、多くの場合、バタバタしすぎて気づかないだけだ。

 

いまの自分の状況は、過去の自分の「思い」の結果。

そう思うと、どんな状況も乗り切れそうな気がする。

 

こちらもオススメ!!

  1. 学校現場における「スティグマ」と「ラベリング」 (2)
  2. 山本ケイイチ『仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか』幻冬舎新書 2008 (2)
  3. 「定義」すること (2)
  4. 苫野一徳, 2014, 『「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学』② (2)

佐谷恭・中谷健一・藤木穣『つながりの仕事術 「コワーキング」を始めよう』(2012年・洋泉社)

仕事に就く前、私は大学院の学業よりも集中して、
ネコワーキングというコワーキングスペースで
インターンシップを行なっておりました。

挨拶の仕方・
敬語の使い方を始め、
基礎の基礎から教えていただいた場となりました。

(「了解しました」が敬語でないことを
インターンシップではじめて学びました)

いまから思うと、
その空間の中で学んだ「コワーキング」観が、
いまの私の仕事観の原点となっているように思います。

日常的にフリーランスで働いている人と会っており、
フリーランスの醍醐味と大変さを日常的に学ばせていただきました。

また、仕事を自分の会社だけで完結させるのではなく、
いろんな人の知見を元に行なっていくべきであるということを学びました。

参加する人たちが当り前のようにFacebookもTwitterもやっていることが
驚きでした。

なによりも「こんなにモチベーション高く、
社会をよくするために働いている人がいるんだ」という
ことを学ぶ機会となりました。

(ネコワーキングは地域活性化に取り組むNPOの人、
学生・企業が集まります。それが面白い点でした)

仕事をするにあたり、
目の前の仕事を超え、
もっと広い立場から物事を考えてくことの大事さを学ぶ場となりました。

ただ、残念ながらコワーキングスペースでのインターンシップで
学んだことを実践できていない点も多いです。

新人ゆえ、質問の意図を理解できなかったり、
適切な対応をできていなかったりしています。

学んできたことを活かすためにも、
今後ますます職場で努力していきたい、と思います。

全然書評になりませんでしたが、
読んでいてネコワーキングインターンシップ時代を思い起こす
本でした。

41tqvkoIstL._SX308_BO1,204,203,200_

 

こちらもオススメ!!

私がネコワーキングで学んだこと。

育てるコワーキング札幌(土曜日の札幌カフェ)に、十勝トテッポ工房「ナチュラルチーズケーキ」登場!

【お知らせ】札幌カフェ土曜イベントをみんなで考えよう!

掃除をする意味

掃除をすることの意味について、ここでは考えてみたいと思います。

私はけっこう掃除が好きです。それは掃除はすごく簡単に「達成感」を得られるためです。
「やる」と決め、決められたスペースの掃除に全力をかける。そうするとあっという間に終了します。
掃除は面倒ではありますが、自分が掃除した場所は紛れもなく自分が「仕事」をした場所です。自分の「仕事」が世の中の役立っていることに気づけます。
掃除をすると、自分が気持ちよくなります。居心地がよくなります。自分が気持ちよくなると、周りの人にも気持ちよさが広まります。
掃除をすることで、気づけることも多くあります。

大事なのは漫然と掃除をしないことです。「イヤイヤ」やるよりも、「楽しそうに」掃除をすると、本当に楽しくなってきます。

ちなみに、学校教育の中で「掃除」を行なっているのは、
旧共産圏と仏教文化圏のみだそうです。日本は後者の枠組みに入ります。
掃除における 「修行」を重視するのは、仏教文化が生きているからなのですね。

【数学コラム】「記憶」のはなし。

みなさんはこれまで、いろんなことを覚えたり、学んだりしてこられたことと思います。この「ものを覚える」ことについて、近年研究がかなり進むようになってきました。

一つ、私が「面白いなあ」と思うものに、次のものがありました。人間の頭の中にある知識には、「宣言的(せんげんてき)知識(ちしき)」と「手続(てつづ)き的知識(ちしき)」の2つがある、ということです。

質問なのですが、自転車の乗り方を人にどうやったらうまく伝えられるでしょうか? おそらく「サドルに乗って、足を動かして…」くらいしか言えないはずです。はじめて自転車に乗る人は、この説明だけでは運転できません。自転車に乗れるのだから、人に乗り方を説明できるかというとそうではないのです。でも、きちんとした説明をできなかったとしても、現実には自転車に乗れてしまっているのです。

このように「なぜか知らないけど出来る」ような知識の事を「手続き的知識」といいます。流れの中で体が勝手に動くような知識の事です。一方、「1192年に鎌倉幕府ができた」などと説明できてしまう知識の事を「宣言的知識」といいます。「これは~~です!」と宣言できる知識の事なのですね。

今日やったのは、数学の計算に関する公式です。今日の段階だと「この公式をこう使うと…」という「宣言的知識」の段階です。ですが、公式を使った計算を何度となくやっていると、やがて何も考えなくても解けるようになります。「手続き的知識」に変わったわけです。

数学の勉強をしていると、「パッとみただけで解き方がわかる」ようになるときがよくあります。地道に何度も同じ計算を続けると、自分が何も考えなくてもできるようになる、という喜びに出会えるようになるのです。大切なのは反復練習です。野球の素振りと同じことです。

日々の地味な反復練習こそ、自分を成長させるきっかけとなります。これが数学で学べることの一つなのではないでしょうか? 自分でやることこそ、いちばん力になります。

非日常性による教育論。

もしノマド・エジュケーションを一言で表すとするならば、

 

教育の中に「非日常」を入れること

 

と表現できる。

 

教育が「日常」になると、すべてはつまらなくなる。

毎日行く学校、代わり映えのしないクラスメイト、

イラつく教員。

 

学校が「重荷」になるほぼ全ては、

教育的関係が「日常」となることにある。

 

しかし、よく考えれば、

誰かが教員となり、

誰かが生徒となり、

誰かとクラスメイトとして巡りあう事自体、

「奇跡的」なことである。

 

人と人との出会いは奇跡なのだ。

偶然性以外の何ものでもない。

 

これは「よい」人間関係のみならず、

「つらい」人間関係でも、

「しんどい」人間関係でも当てはまる。

 

誰かと「教員」「生徒」として巡りあうのは、

偶然性なのだ。

 

だからこそ、この偶然性を

「幸運」として感じられるようにしたい。

 

日常化しない教育は、

つねに「奇跡」「偶然」の色合いを帯びる。

 

偶然の出会いが一生を変えることがある。

 

例えば私も、たまたま見学に行ったフリースクールや、

見学に行ったベンチャー企業でスタッフやインターンとして

働く経験があった。

 

それがあるからこそ、いま通信制高校で教員をやっている。

 

このきっかけとなった「出会い」へ、

感謝を常に思っていたい。

 

教育的関係は自明ではない。

意図せざる結果もたらされる、

偶然の産物なのである。

 

だからこそ私は、

教育的関係を「日常」に堕せず、

常に「非日常」の中で築いていきたいと考えている。

 

学ぶのは一人でもできる。

一人のほうが学びやすい。

しかし、人生を変える「出会い」は

一人では起きることは絶対にない。

 

私は「一人」での学びを重視する。

だからこそ、人生を変える「出会い」を

積極的に作って行く。

これこそ私の使命であり、

ノマド・エジュケーションの狙いでもあるのだ。

好きを仕事にすること批判。

さいきん、職業柄、高校生と話すことが多いです。

「趣味を職業にする」ということを目指す人が多いことに、

自分自身「あこがれ」を感じています。

ですが同時に「あやうさ」も感じています。

私も高校生の頃は好きな事を仕事にしよう、と思っていました。

実際、この夢は半分叶い、半分は違うような気がします。

なぜなら、高校時代の自分って、いまの自分とは全然違うからです。

人は自分が思うほどの人ではないです。

それはプラスの面でもマイナス面でもそうです。

高校時代の「私って、こんな人」

「私はこれが好き」というのは

あんまりあてになりません。

だって、人は日々変わり続けているのですから。

「好きを仕事にする」というのは、たしかに重要なことです。

でも、「いま好きなこと」は本当に「将来も好きなこと」かはわかりません。

大事なのはいつも何かにチャレンジし続ける姿勢です。

それは別に好きな事でも、好きじゃないことでもいいです。

「自分はこれが好きだから、ほかはやらない」ということほど、もったいないことはないのです。

ヒロベンのすすめ

不登校のお子さんや通信制高校で学ぶ生徒さんの場合、自由な時間がたくさんあります。子どもである時間は、意外に短いものです。その時間の中で自分の「好き」を極めてほしいな、と思います。
自分が興味のあることは、なんでもやってみる。そうすると色々な物が見えるようになってきます。好きなものをやるということは「広い意味での勉強」、つまり「ヒロベン」です。

「ヒロベン」は奥地圭子さんの『不登校という生き方』で提案された生き方です。大学生の頃の私の学習観を大きく変えてくれた発想です。

学問をやってわかることは、すべてのもの・こと・知識はつながり合っている、という事実。遊びの中で見つけたものと、本の中で知った知識とがつながると面白いですね!

私は先日、北大植物園にいきました。「こんなにいろんな種類の植物があるのだな」という気づきを得ました。植物の世界の深さについて知ったわけです。これも「ヒロベン」ですね。

『不登校という生き方』

 

教員がやりがちな10のあやまち

自戒の意味も込めて、教員がやりがちなあやまちについて、

まとめたいと思います。

(画像はhttps://sozaidas.com/122illust05.htmlより)

1,自分のことを「先生は…」と自称する

2,一人ひとりを見ず、やたら「みんな」とか「一緒に」という言葉を使いたがる

3,「忙しい」を口ぐせにして、生徒の方を見ない

4,教育について熱弁するわりに、実践に活かされない

5,税金で食わせてもらっている自覚がない

6,5のわりに、ありえないほど悪い紙質の紙で「お知らせ」を出す

7,教える内容に飽きている

8,教員免許をとったくらいでその分野の「専門家」を自称する

9,自作プリントには必ず誤字脱字がある

10,勉強しない

ちなみに一番問題なのは10です。