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高校時代と密度。

一昨日は、勤務校の卒業式。
卒業する生徒との思い出を思い出し、感無量。

卒業する姿を見ていると、自分の高校時代を思い返してきた。

gakoo

高校時代は、短い3年間。
大学は4年だし、仕事はずっと続く。

人生の中において、高校時代はすごく短い。

けれど。
授業と部活動、
アルバイト、遊び、そして恋愛などなど。

短い間に、まあ大量の「やりたいこと」が入ってくる。

私は高校時代は寮生活をしていた。

寮というのは、ただいるだけで「やること」が増えるところである。
洗濯・掃除を自分でやる他、先輩-後輩との関わり、同級生との関わり等、「やること」「やりたいこと」が多くある。

私自身は寮生活も入るが、高校時代というのはたくさん「やりたいこと」がある。
そして、現実に「やりたいこと」をどんどんやっていくことができている。

しかも、自分の将来に努力次第で近づくことができる。

そんな時期は、高校時代を於いて他にない。
だからこそ、高校時代は密度が高い。

社会人になってからこそ、思う。
人は高校時代ほど、深く生きれないのではないか。
密度高く、生き方を考えられらないのではないか、と。

教員の「仕事」論

日曜日。
「部活動」を持っていない教員にとっては
休日である。

休日になると、「教員」の仕事とは何か、
ふと思うことがある。

教員の仕事は何をすることか?

それに対する答えは次の通り。

我々教員は「場」を作り、
「友達」どうしの「つながり」を強化し、
一人ひとりが必要な支援を受けられるよう「環境整備」し、
生徒の「自己学習力」と「コミュニケーション能力」を醸成することが
仕事である。

こう書くと、教員の仕事なんて
「環境整備」くらいしかないことに気づく。

結局は生徒自身が「気づき」、
「学ぶ」ことが教育の本義である。

これは学校のみに逗まらないだろう。
「学校」を超え、セミナーや勉強会でも
この原則は必ず当てはまるはずである。

「同世代」に思うこと。

高木心平さんといい、イケダハヤトさんといい、
最近Web界隈でお話を聞く方は「ほぼ同世代」。

ちなみに私も「ほぼ同世代」(88年2月生まれ)。

なおかつ自分も「早稲田」出身。

…私がほそぼそと講演会企画サークルで「活躍」していたとき、
同じキャンパス内にこういった「すごい」人たちはいた。

考えると面白いことだ。

こういう「偶然」性も、
大学にいくことの「楽しさ」の1つだと思う。

エドワード・レルフ『場所の現象学−−没場所性を越えて』ちくま学芸文庫, 1999。

修士論文の1つの章で「居場所」論を検討をした私にとって、
人間における「場所」の意味合いは興味の対象である。

フリースクールでは「居場所」が多く語られる。

その人物が、ホッと一息できる場所。
自分に戻れる場所。
あるいは自分を回復できる場所。

そのため、フリースクール校には
居場所空間を意味することばを名前に持つ物が多くある。

たとえば「ハッピービバーク」や
「たまリバー」などなど。
(研究している人はいないけど)。

落ち着ける場所の大切さを、フリースクールや通信制高校の名前として
使っているわけである。

人間は空間から多くのメッセージを受け取る。
広大な空間では雄大さや孤独さを、
狭い部屋では落ち着きと鬱屈さを、
それぞれ無意識のうちに受け取っている。

そういった空間や「場所」の持つ意味合いを、
レルフはハイデガーの理論を批判的に参照しつつ、
説明していく。

「明らかに私たちのだれにも、黙想するために引きこもることのできるプライベートな場所がある。とくに子供にとっては、そうした場所は自己を発見するための根拠地となるし、洞窟、樹木、あるいは家のなかの片隅さえもが「ぼくの場所」として主張されることもあろう」(49)

私にとっての「ぼくの場所」とはどこだろう、と
ふと思う。

シェアハウスという公共空間に住むものとして、
シェアハウスは間違いなく「ぼくの場所」だ。

自室も「ぼくの場所」である。

では、職場はどうか?
職場は職場としての「メッセージ」を持つ。
けれど職場に生徒と接する側にいる時、
「ぼく」というよりも「教員」の役割を
わたしは演じることになる。

そのことに気安さを感じる反面、
「役割」を演じていることを実感することも多い。

「役割」を気にしなくてもいい空間。
それが「居場所」なのであろう。

ヒロベンのすすめ

不登校のお子さんや通信制高校で学ぶ生徒さんの場合、自由な時間がたくさんあります。子どもである時間は、意外に短いものです。その時間の中で自分の「好き」を極めてほしいな、と思います。
自分が興味のあることは、なんでもやってみる。そうすると色々な物が見えるようになってきます。好きなものをやるということは「広い意味での勉強」、つまり「ヒロベン」です。

「ヒロベン」は奥地圭子さんの『不登校という生き方』で提案された生き方です。大学生の頃の私の学習観を大きく変えてくれた発想です。

学問をやってわかることは、すべてのもの・こと・知識はつながり合っている、という事実。遊びの中で見つけたものと、本の中で知った知識とがつながると面白いですね!

私は先日、北大植物園にいきました。「こんなにいろんな種類の植物があるのだな」という気づきを得ました。植物の世界の深さについて知ったわけです。これも「ヒロベン」ですね。

『不登校という生き方』