さきほどの書き込みですが、「橋下」の間違いでした。お詫び申し上げます。
2009年 1月 の投稿一覧
谷町四丁目のアナウンス
「次は−、谷町四丁目、谷町四丁目。
橋本にご注意下さい」
※谷町四丁目は大阪府庁の最寄駅である。
やっと気付いたか。
「学校が息子になんでも教えてくれるわけじゃない」
やっと気付いたか。
一点豪華主義
新しい革靴を買った。
5980円。
オリンピックにて。
古い革靴よ さようなら(『青い山脈』)。
寺山は評論『書を捨てよ町へ出よう』で「一点豪華主義」について言及している。
[ぼくはかねがね一点豪華主義論者である。アブラ虫の這いまわる三畳半のアパートぐらしをしているくせに食事だけはレストランでヒレ肉のステーキを食うとか、着るべきスーツは薄汚れた中古の背広一着なのに、スポーツカーはロータス・エランを持っているとか―目も口も小さいのに鼻だけは大きくゆたかであるとか。
そうした一点豪華主義を目ざさないかぎり、われわれの時代では何もかも手に入れるというわけにはいかない](276頁)
スーツ用の革靴を日常生活に使用する。ある意味の一点豪華主義かもしれない。
一人芝居:権威的な教員像
一人芝居:権威的な教員像。
[プロ教師の会]の人たちは「教員は体制側の人間だ」という。徹底的に体制側の人間が教員になったときはどんな模様になるのだろう? 想像して書いてみた。これをうまく演技すると、ちょっと面白いコントになるのではないだろうか。
本当の教員はフレンドリーな顔で生徒/児童に何気なく《権威》というものを教えていく。下に示すのはこのことを確信犯的に行っている教師である。本当の教師は無自覚なまま、下の芝居原稿の内容を生徒/児童に伝えていることがある。《隠れたカリキュラム》とは教員にも隠されたカリキュラムなのである。
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起立、礼。よろしくお願いします。いま立たなかった君、あとで職員室へ来てください。「何で初回からそんなに厳しいの?」といま思ったでしょう。君は見せしめのために処罰されるんだ。文句は言わせないよ。
さて新入学、おめでとうございます。
皆さんはこうして中学校に入学されました。いやー、おめでたい。入学式、すばらしかったですね。教員を見張るため、わざわざ教育委員長や教育長・衆院議員さまに来ていただきました。決して皆さんをお祝いするためにこれらの偉いさんが来たのじゃないですよ。勘違いをしないでくださいね。
ここでは学校は何をするところかをお話しさせていただきます。
学校はですね、権威を学ぶところです。教室では、教員である私が一番偉いんです。私に反抗すると、内申点をさげることができます。私に言うことに従った方が楽ですよ。私以外でも、先生と言われる人、つまり政治家や弁護士・お医者さんなどのいうことは素直に従いましょう。反抗しては駄目ですよ。
学校で皆さんが学ぶのは、上の言うことに愚直に従う態度の大事さです。上が何を言っていても、批判してはいけません。言われたことをそのまま覚えてしまうのです。何でだろう、とか考えることはちっとも大事じゃありません。皆さん方のことをきちんと考えて「先生」といわれる人たちは話しています。ですから「違うんじゃないかな」とか考えちゃ駄目ですよ。
別の言い方をしますと、教えてもらうことに価値があると皆さんに教えるために学校があるんです。皆さんは学校に通っていると、携帯電話をもつようになるでしょう。どんどんもってください。ゲームも買うでしょう。どんどん買ってください。勉強しなくてもいいです。どんどん遊んで、どんどんお金を使って社会にお金を回してください。くだらないことにお金と時間を浪費し、政治とか社会とかに問題意識を持たないでください。
学校で学ぶことの2つ目は、黙って座っていることです。上の人がいっていることを鵜呑みにし、従順でいることを教えてくれるのです。そして企業のため、国のために文句を言わずに働いてくれる労働者を育てるのがこの公立学校の存在理由です。国立・私立のエリート校に通う人たちが未来の社会をきちんと作ってくれます。ですから公立底辺校に通うことになるみなさんは、そのエリートの人たちのいうことをきちんと聞いて、素直に働いて人生を送ってください。ちゃんと年金のお金を払ってください。投票は別にいかなくてもいいです。職場の人に「だれそれさんに入れてよ」と言われたら、素直に入れるか投票を棄権するかしてくださいね。
皆さんは決して私のような「教える」側、上の立場にくることはありませんので、安心して学校に来てください。何も学ばなくてもいいです。日本語を読み書きできればいいです。法律の文書がよめるレベルにまで勉強しないでください。特に、めんどくさい権利を規定している憲法なんて学ばなくていいです。
毎年春と秋に生徒総会という物があります。あれは生徒がこの学校の主権者であるということを対外的にも対内的にも示すためのアピールにすぎません。生徒会という物は教員の仕事を生徒にボランティアでやらせ、教員の仕事を減らすためにあるんです。「この学校を変えれるんじゃないかな」とか変な期待を持ってはいけませんよ。
皆さん、それでは一年間私がいうことをしっかり聞いていってください。なにも考えなくてもいいです。よろしくお願いします。
では起立、礼。ありがとうございました。
読書とチャーハン
私にとって本を読むことはラーメン屋のおばちゃんがチャーハンを作るような物だ。
限りなく本業に近い副業である。
意味
外敵に出会いもせず死んだ白血球。
卵子にたどり着かなかった精子。
何の意味があるのか?
準備することに意味がある、との意か?
人間も、輝ける人間もいればそうでない人もいる。
それでも人類という種を存在させていることにかわりはない。
たとえ他人から観て無意味に見える生であっても
それに意味を認めていくことが重要なのではないか。
リセッター
朝起きると、いろいろ気付く。部屋のニオイなど。
リセッターの働きが眠りにはあるようだ。
書評『要約世界文学全集Ⅰ』
書評『要約世界文学全集Ⅰ』
高校の図書室にトルストイの『戦争と平和』全6巻が大きな場所を占めていた。長い。単調。隣においてあった『失われた時を求めて』も長過ぎて読む気が失せる。そんな時の大きな味方がこの『要約世界文学全集』だ。原作の長さに関係なく、一作品をたった13ページに収めている。それでいて原作の魅力をきちんと伝えている。サン=テグジュペリ『人間の大地』とカミュ『ペスト』には十分に引き込まれた。
名著の要約。この言葉を聞いて、「安直だ」とか「それでは読んだことにならぬ」という批判が聞こえてきそうだ。批判者のこの言い分が表れたのはいつごろか? 大正時代からである。
明治以前、よい文学には大体「普及版」・「要約版」があった。原作を分かりやすく縮訳した本があったのだ。大正時代にこの風潮は否定される。「原文で読まぬと意味がない」という原文主義が広まっていったのである(『使える!レファ本150選』)。
原文主義は何をもたらしたのだろう? 作者オリジナルの物語を読むので、作者の肉声に迫ることができる。文体・リズムを味わうことができる。作者が本当に伝えようとしたかったことが分かる。利点ではこういった所だろうか。あらゆるものはコインの表裏。原文主義のデメリットも当然存在する。読むのに時間がかかる、あるいは原文を読むには相当な教養が必要である…、等など。文学は文化である。読者に読まれることで初めて価値が生じるのである。トルストイやドストエフスキーが苦労して書いた文化遺産を読むことで、読者の人間性や教養が高まっていく。しかし、原文主義を取ることは文化遺産を知識人のみに独占させることになる。原文は読みにくい。長い。難しい。「要約を読むのは安直だ」と主張することは現代に生きる多忙な読者から、文学文化を奪うことになる。
大文豪の書いた文章はたとえ一部の抜粋や要約であっても、大きな文化性をもっているものだ。だからこそ「要約本」が価値をもつことになる。いま本屋に増えている[世界文学を漫画化した本]にも大きな意味合いがあるだろう。
名作の「要約」や「漫画」では原作に及ばないのは当然である。しかし原文に入るきっかけになる。それ自体でも原作の文化性を人々に伝えるはたらきがある。文学を知識人から解放せよ。もっと(私を含めた)大衆に解放していくべきだ。この『要約世界文学全集』は出来がいい要約をおさめている。文化解放の一助となるであろう。
書評『どくとるマンボウ青春記』
書評『どくとるマンボウ青春記』
旧制松本高校時代、北杜夫は寮にいた。布団ムシやストームなる伝統、「ゴンヅク」などドイツ語と信州弁をごっちゃにしたような用語の存在…。私も高校時代は寮生活だったので、寮内の奇習をいろいろと思い出せる。早朝ボウリング、食堂清掃時の奇妙な掛け声、何故か皆いる国分寺のゲームセンター…。旧制高校と新制高校という時代の違いはあれど、寮という物に何かしら共通点があるように思う。
北杜夫の青春回想録がこの小さな文庫本である。前半と後半でトーンが全く違う本だ。懐かしく気恥ずかしい寮時代を描いた前半部は、「バンカラ」で「バーバリズム」あふれる寮生活が語られる。しかし寮を出て、一人暮らしを始めた後半部からは青春特有の憂鬱が表されている。《狂乱の寮生活にはそれなりの意義もありおもしろさもあったが、一年も経つといい加減、多人数の中の生活が嫌になる。殊に私はそのころ短歌のほかに詩作も始めていたので、一人きりの孤独の生活を望んだ(121頁)》。前半とは違い、孤独さ・陰鬱さが文章にあふれている。他者と騒ぐことよりも自己の内面に向き合うようになるのだ。静/動の対比が印象的であった。
未だ20歳の私が「青春とは何ぞや」と語ることは出来ない。悟りきったことを言えるのは青春を終えてしまった中年たちである。けれど北杜夫の本を読んで分かるのは青春のもつ二面性である。
昔読んだ児童向け文学に‘友人といるときは「一人になりたい」と思い、一人でいるときは「誰かと話したい」と思う’という矛盾した心理を描いている物があった。「そんな風に感じることはあるのだろうか」と当時は考えていたが、いまの私は「それは事実だ」と思うようになった。
大学時代は人生の意味について考えることの出来る貴重な時期である。むやみに使うのはもったいないことだ。昨年は姜尚中の『悩む力』が流行った。北杜夫や姜尚中同様、青春の悩みから逃げずにとことんまで向き合うことが大切ではないか、と思った。
*一人暮らし時代の日記が215頁からしばらく引用されている。「瞬間、信号燈は青に変っていた。僕は立ちどまろうと思ったのに(235頁)」。私もよく日々思うことを書き留める。読んでいて、「俺もこういうこと、よく書いているぞ!」という発見があった。