2009年 3月 の投稿一覧
落書きしないでね
これは落書きに非ずして何なのだ?
EXILE
交差点で停止中、EXILEのデコトラが騒音を出しつつ新曲を流していた。
間違ってもEXILEのCDだけは買わないことを決意した。
私がしかめ面をしているまわりで、人々は気色満面にEXILEのトラックを見つめていた。
O先生からのコメント。フリースクールのあるべき姿。
国民国家なんか永遠に続くわけありません。でも、だからといって、今すぐ廃絶するわけにもゆかない。いずれ終るけれど、今はまだある。社会制度というのは全部そういうものです。だから、どう手直しして、次の制度ができるまで使い延ばすか、どこまで腐ったら「次」と取り替えるか、というふうに議論は進むべきなのです。(内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』p209)
先日、大学のゼミでO先生にコメントをいただいた。ちなみにその際、私の行った発表はこちら。
「フリースクールは制度化された教育からフリーということだ。教育にはいろいろな形態があっていい。日本の学校は水道の数からして全て決まっている」
「日本にはフリースクールといっても、大きく2つの流れがある。東京シューレのようにアメリカ的なフリースクールと、シュタイナーやニイルなどの思想家が考えだしたフリースクールである。多様な選択肢を提示するところに、フリースクールの意義はある」
「いずれ公教育は無くなる。もともと日本の公教育は100年ほどの歴史しかない。国が造ったものは、いずれ壊れる。国家も然りで、200年ももたないのだ。日本はまだだが、アメリカは建国200年以上が過ぎ、だいぶ壊れかかってきている」
「制度を超えるものがないといけない。だから僕はフリースクールは一つの挑戦だと考えている。国や地方公共団体に頼らず、自分たちが賢くなるという動きがフリースクールの発想の中にある」
「選択肢があることが社会の豊かさの証しである。フリースクールもこれを目指していくといい」
「フリースクールが公的支援を使うことよりも、そういったものを一切なしにして、寄付やボランティアでフリースクールが成立することが大切だ。いまフリースクールに関わって社会に出た人がどんどん増えている。そういった人たちが広まったとき、フリースクールへのサポートが大きくなるのではないか」
やはりO先生は偉大だと実感した。
最近読んだ内田樹の文章にもあった〈社会制度は永続しない〉という発想。オルタナティブスクールの研究を志すものとしては自覚していかねばならぬ。
内田樹に読んで、読まれて。
「この人しかいない!」
そんな作家に出会ったとき、私はその人の書を貪り読む。自分にとっての「バーチャル師」(内田樹ならこういいますね)を見つけたときである。
見つけたならば、ほぼ毎日のようにその人の本を読みあさる。そのうちに、「同じことを何度も言うのだな」と感じてくる。おそらく、私の脳内に「バーチャル師」が居座り始めるのだろう。
齋藤孝に始まり、野口悠紀夫(以上、大学2年生まで)・灰谷健次郎(大学3年生まで。しかし灰谷の本はかなり読んだものだ)・そして内田樹(現在進行形)に行き着いた。
内田との出会いは『寝ながら学べる構造主義』。あざやかな説明に感銘し、自分も文章を書いた(『高校生と語るポストモダン』)。ほとんど内田の受け売りに終った観もある。
私はさきほど『子どもは判ってくれない』(文集文庫)を読み終えた。いささかの衒学趣味(やたらにカタカナ言葉を使うのは、内田の嫌う石原都知事と同じニオイを感じてしまう)を我慢しながらではあるが。
この本からのメッセージは要言すれば次の二つの命題に帰しうるであろう。
一つは、「話を複雑なままにしておく方が、話を簡単にするより『話が早い』(ことがある)」。
いま一つは、「何かが『分かった』と誤認することによってもたらされる災禍は、何かが『分からない』と正直に申告することによってもたらされる災禍より有害である(ことが多いい)」。(pp329~330)
ちなみに、私の所蔵する内田作品は下の通りである。市場に出てるくらいは全て読んでしまいたいと思う。内田の文章は彼のブログ『内田樹の研究室』に死ぬほど書かれているのだ。市場に出ていない彼の文章すらある。
『寝ながら学べる構造主義』(三読)
『先生はえらい』(二読)
『街場の教育論』(二読)
『大人は愉しい』(一読)
『子どもは判ってくれない』(一読)
『疲れすぎて眠れぬ夜のために』(一読)
『知に働けば蔵が建つ』(一読)
『私の身体は頭がいい』(挑戦中)
『狼少年のパラドクス』(一読)
『こんな日本でよかったね』(一読)
『下流思考』(一読)
追記
●このブログのようにやたら( )でツッコミを入れるのも、内田樹が書籍でやっていることの受け売りである。
●『街場の教育論』を手に取ったのは『R25』に内田のインタビューが掲載されていたからだ。そこから、次々と内田「先生」の本を読むようになっていたのである。
●そのうち、内田樹論を書こう。「師弟論」の観点から。
2枚の写真(2)
2枚の写真(1)
眼鏡
本日より、メガネに復帰。
よく「タバコを始める」という言葉を聞く。それよりは価値的な行為だろう。
眼鏡をかけて見える世界。裸眼とはまったく違う。看板の見え方、人の見え方。鏡を通しての自分の姿。
眼鏡をかけて見える世界と、裸眼の世界。同じはずなのだが、少し違って見える。余計なものがみえてしまう。
モンゴルの大草原などで育った人の視力は6.0であることもあるようだ。そんな人たちの見る世界はゆたかな世界なのだろうか。少なくとも、東京で視力が「よすぎる」と無駄な看板/人ごみで吐き気を催す。
雑念集
●一日中/学問やって/過ごしたい/家に行けども/お留守のときは
●人間一人の小さな動きが、歴史を作っているのではないか。ちょうど、トインビーの「水底の小さな動き」のように。
●ジョセフ・ナイの言葉「リーダーは天性の資質だけで深まるのではなく、主としてつくられるものであり、リーダー・シップは学習可能である」
●一人で演劇にいくと寂しい。自分が舞台に立ちたくなるからだ。それは一体何故だろう?
●演劇は常に暗闇になるところから始まる。
●劇場の広大な空間に一人座っている小宇宙としての「私」。
●「学校に感じる気持ち悪さは何だろうか」。私がフリースクールを大学院で研究したい理由。
●小林秀雄の『考えるヒント』に、〈書く前に内容を考えるのではなく、書きながら考える〉とあった。ブログを書く身として共感した。
●メガネをつけると、まるで写真のように夜景が見える。
●「どうして〜何だと思う?」と、相手の発言から相手の本当の弱点を気づかせていくという対話法があることをYさんとの会話で実感した。
悪について
他人の真心/思いを感じられないこと。これは悪だ。
今日、後輩のG君の合唱祭にいった。不覚にも泣いてしまった。
G君の合唱祭への意気込みについては、何度も何度も聞いていた。会うたびに彼はそのことを私に語ってくれたのである。
「来てくれた人を、必ず皆元気にします」
彼はそう決意していた。
今回、このG君の思いを私が聞いていたからこそ、このように感動を受けたのであろうと思う。けれど、仮に私が一流の人間であるならば、G君の話を聞かずとも感動できたのかもしれない。
私の考える一流の人間とは、「他者への想像力をもてる人」である。
自分が見ていないところで、他者は何を考えているのか。何をしているのか。これについて想像できるということだ。
追記
私は劇場でアンケートを求められると何故かしら酷評してしまう癖がある。
「こんな歌、人に聞かせるな」とか、「途中で寝てしまいました」とか。
意味なく酷評するのは悪に通ずる。