2010年 12月 の投稿一覧

『失われた場を探して ロストジェネレーションの社会学』読書メモ

Brinton, Mary C.(2008):池村千秋訳『失われた場を探して ロストジェネレーションの社会学』、NTT出版、2008。

・日本の若者の中で最も就職状況が厳しいのは普通高校低偏差値校であることを実証した本。アメリカでは職探しの際「ウィークタイズ」(グラノベッター)が強いが、日本では「ストロングタイズ」によって探すことが多い。
・高校の就職先あっせんのシステムが動かなくなり(普通高校。工業高校や商業高校はまだ口が見つかりやすい)、自ら高校生が動く必要が出て来る。

・かつては「場」が物をいった日本社会だが、だんだん場が衰退しており、アメリカ同様「資格」中心に動くようになってきた(95)。かつては学校や会社が「場」(男性の場合。女性は家庭であるという)の働きを持ち、なんらかの安定した場の一員であることが決定的に重要な意味を持っていた。「しかし今日の若者にとって、そうした「場」は減りはじめている。社会におけるアイデンティティーを学校と職場から得られない若者が増えているのだ」(99)。
 「正社員にならない若者が増えていることに関して日本の政府とマスコミは若者の姿勢を批判するが、重要なことを見落としがちだ。その重要な側面とは、この章で指摘してきたように、高校の序列がはっきりわかれていて、求人の数に高校によって大きな格差があるという現実である」(143)。
 「かつて日本人にとって、幸福や安心の源泉であった、企業や学校という場に所属する機会は、ロスジェネにとって、大きく失われてしまった。なかでも、偏差値レベルのそう高くない高校を卒業した後、大学に進学しなかった男性ほど、「場」を失って彷徨い続けているのだ」(240頁の玄田有史の解説)。

フレイレ『伝達か対話か』読書メモ

「人間として生きることは、他者および世界とかかわって生きることである。それは、世界をそれ自体で独立した、認識可能な客観的現実として経験することである」(15)

「存在するということは、人間と人間、人間と世界、人間と創造者のあいだの永遠の対話を包摂するダイナミックな概念である。人間を歴史的存在にかえるのは、この対話である」(44)

「もし教育にたずさわるものが、新しい社会の生誕になにか特別に寄与しうるものがあるとすれば、それはほかでもなく、批判的態度の形成をたすける批判的な教育を生みだすことであったと思われる」(71)

「われわれの状況が求めている教育とは、自分たちが生活の場で直面している諸問題をだいたんに議論し、それにとりくむことのできる人間を育てるということである。こうした教育は、現代の危険がどこにあるかを人びとに気づかせ、ともすれば他人の決定に服従することによって自分というものを放棄してきた人びとに、それらの危険にたちむかう自信と力を与えるものとなるのである」(74-75)

民主主義の学習は「実践」をもって学ばれる。
「じっさい民衆は、民主主義の実践をへてこそ、それを習得することができるのだ。民主主義の知識は、他のすべての知識とおなじように、経験をくぐらせてこそ血となり肉となるものなのだから」(80)
→だからこそ「ことばだけで民衆に伝えよう」(同)とすることは無意味なのだ。そういう意味では、学校を民主主義育成の土台にしようとしたデューイに連なるものがある。「真の交流をつくりだすのは、対話だけである」(99)というフレイレの言葉をかみしめる必要がある。

識字について。
「識字というのは、日常の生活世界とは切れている生命のない対象物である文章、単語、音節を記憶することではない。むしろそれは、創造と再創造の態度を身につけ、各自が現実にかかわる姿勢を生みだす自己変革の力を獲得することなのである。/かくして教育者の役割は、具体的現実に関する非識字者との対話にひたすら身を投じ、かれが自分で読み書きを自学自習できるための道具を、完全にかれに与えることである。」(105)
→「自学自習できるための道具」とは、イリイチの「コンヴィヴィアリティのための道具」を思い起こす。

 他者との対話による教育を想定したフレイレ。この対話は「学校」でなくとも成立する(むしろ学校が「言葉」を教えこんで「沈黙の文化」に民衆を陥れている)。フレイレの「脱学校」思想はそういった意味でのものなのだ。

フレイレ1967=1982『伝達か対話か』亜紀書房、里見実ほか訳