*本稿は、大学のゼミで2009年5月21日(つまり今日)に私が発表する予定の原稿です。このブログで書いてきたことを踏まえ、イリッチの「脱学校」や「価値の制度化」を整理しました。
1、はじめに。
私は2年生の頃からフリースクールについて専門的に研究してきた。卒論もフリースクールを社会学的に考察することで書き上げたい、と考えている。その際、イヴァン・イリッチら脱学校論者の文章を基に、フリースクールなどのオルタナティブスクールの展望をしていきたい。
それにあたって、フリースクールにつながる発想である「脱学校」について、一度整理しておく必要を感じている。整理することで、新たな視点からフリースクールについて見ていくことが可能であると考えているからだ。そのため今回はイリッチの著作『脱学校の社会』を基に、「脱学校」とはどのようなものかを押さえていきたい。
そのために本稿では「脱学校」を理解する上で必要な「価値の制度化」という概念を見たあと、改めて「脱学校」について見ていく。
2、「価値の制度化」とは何か。
(1)「価値の制度化」についての自分の考え。
イリッチの文章をまず見てみる。
多くの生徒たち、とくに貧困な生徒たちは、学校が彼らに対してどういう働きをするかを直感的に見ぬいている。彼らを学校に入れるのは、彼らに目的を実現する過程と目的とを混同させるためである。(中略)「学校化」(schooled)されると、生徒は教授されることと学習することとを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること、よどみなく話せれば何か新しいことを言う能力があることだと取り違えるようになる。彼の想像力も「学校化」されて、価値の代わりに制度によるサービスを受け入れるようになる。(13頁)
ここで語っているのは、「価値の制度化」の話である。「制度化」について脚注では、「共通の価値観が内面化される一方、価値を実現するための制度づくりがなされ、その制度に対する人々の期待が高められていくことかと思われる」(54頁)とある。
これは何を意味するのであろうか。
本来目指すべき価値を仮にAとする。本来はAをまっすぐに目指していくべきだが、手短な目標である価値Bを目標とする。このBは「価値A実現のための学校の卒業」とでもしておこうか。学校に通い続け卒業すれば(つまり価値Bを目標としていけば)、自然に価値Aに達することができるというタテマエである。ここにある少年に登場してもらおう。価値A実現のために学校Bに通っているのがこの少年である。通っていればいつか卒業できる時が来る。少年はBを出ることのみが重要だとずっと考えていた。卒業して、「学校を卒業したことを認める(価値Bの実現)」という証書をもらった。少年は「このために勉強してきて良かった!」と大歓喜している。帰り道、少年はふと気づく。「あれ、価値Aを僕は修得できたのだろうか?」と。価値Aを普通自動車運転免許取得、価値Bが自動車教習学校卒業であるとき、少年は不幸である(ときどきいますけどね)。
これが価値の制度化といえるのではないだろうか。本来、学校は教育をすること/子どもが学ぶことが主たる価値である(価値A)。けれど子どもは放っておいて勝手に学ぶかというと、必ずしもそうではない。そして学校というのは価値Aを実現するための装置、つまり制度にすぎない(価値B)。けれど現代は学校という制度に通うことのみが重視されて、そこで教育が行われるということが忘れ去られている。本来なら学校に行くこと(価値B)が重要なのではなく、子どもが学ぶこと(価値A)が重要なのだ。けれど知らぬ間に価値Bの方が重要と考えられ、価値Aがおざなりにされてしまう。〈子どもが学ぶこと〉という価値A実現のためなら、別に学校(価値B)を用いなくとも、たとえば自宅での学習を行うとか、フリースクールにいくとかする選択肢も存在するべきだ。けれど制度/装置にすぎない「学校」へいくことのみが重視されるようになる。この価値の転倒をイリッチは「価値の制度化」と呼んだのであろう。
(2)「価値の制度化」からイリッチが言おうとしたことは何か。
再び、『脱学校の社会』の文章を見てみる。
私は以下の拙論において、人々が価値の制度化をおし進めていけば必ず、物質的な環境汚染、社会の分極化、および人々の心理的不能化をもたらすことを示そうと思う。この三つの現象は、地球の破壊と現代的な意味での不幸をもたらす過程の三本柱なのである。(14頁)
この文章は(1)で説明した、価値の制度化についてのイリッチの考察である。このなかでイリッチは「物質的な環境汚染、社会の分極化、および人々の心理的不能化」という例を挙げて現代文明に警鐘を鳴らしている。つまり、イリッチは現代の「価値の制度化」という問題を訴えたいのであって、学校は一つの例にすぎない。価値の制度化は、あらゆる分野に起ころうとしているのだ。
再び本文に戻る。
必要な研究は、人々の人間的、創造的かつ自律的な相互作用を助ける制度で、かつ価値が生み出されるのに役立ち、しかも肝心なところを専門技術者にコントロールされてしまわないような価値を生じさせる制度を創りあげることに、科学技術を利用するにはどうしたらよいかという研究なのである。(14頁)
私は、われわれの世界観や言語を特徴づけている人間の本質と近代的制度の本質とを、相互に関連づけてはっきりさせるためにはどうしたらよいかという一般的な課題を提起したい。そのための理論モデル(パラダイム)をつくる素材として私は学校を選んだ。(15頁)
つまり、イリッチ自身は「価値の制度化」が起きている近代文明への批判を行うために本書を書いたのであって、〈社会の脱学校を断じてなしとげなければならない〉という主張をするために本書を書いたわけではないのである。「脱学校」は、あくまで2次的な目標である。イリッチ自身が「書きやすい!」と感じた好例だったため、学校をテーマにしているのだろう。先の比喩を使えば、価値Aが「価値の制度化」論、価値Bが「脱学校論」であるといえる。
「価値の制度化」を行うべき物の例として、イリッチは「家庭生活、政治、国家の安全、信仰およびコミュニケーション」を挙げている。
私は学校の潜在的カリキュラムの分析を通して、社会の脱学校化は公教育にとって
プラスになるということ、そしてそれと同様に、家庭生活、政治、国家の安全、信仰およびコミュニケーションも、同じような過程を経ることから利益を得るであろうことを明らかにしようと思う。(15頁)
この文が示している通り、価値の制度化を排す手法は「脱学校化」と同じプロセスなのである。
イリッチは続ける。
その分析(価値の制度化を排すことで利益を得られる、ということの分析)のために、この最初の論文では、学校化されてしまった社会を脱学校化するということはどういうことかを説明しておこう。(15頁)
*( )は藤本。
ここから、「学校化」された社会の特徴の記述が始まる。「学校化」の現代的事例は上野千鶴子の『サヨナラ、学校化社会』に詳しい。
なお上野はこの本の中で次のように「学校化社会」を説明している。
もともとは、イヴァン・イリイチが『脱学校の社会』(1970)で指摘した現代社会の特徴。学校がその本来の役割を超えて、過剰な影響力を持つにいたった社会のこと。しかし現代日本では、学校的価値が社会の全領域に浸透した社会という、宮台真司が広めた定義のほうが有名である。(50 頁)
イリッチの定義と宮台・上野の定義とは若干ニュアンスが異なっている。けれど、「学校化」の現代的意義を説明していることにかわりはないであろう。
本章のまとめを行う。イリッチは価値の制度化を批判するために『脱学校の社会』を書いた。脱学校化はあくまで価値の制度化を説明するための題材にすぎないのである。
3、「脱学校」とは何か。
教育学者は『脱学校の社会』を意図的にか知らぬが誤解している。佐藤学でさえも『脱学校の社会』が〈学校の廃止〉を訴えた本である、と解説しているほどだ(聞き書きなので、出典を探します)。けれど実際にはイリッチは〈全員が学校に行かなければならない〉ことを批判しているのだ。
「解説」の欄を見よう。
イリッチが「脱学校」という場合、すべての学校を廃止したり、あるいは学習のための制度のない社会をめざしているのではなく、むしろ学習や教育を回復するために制度の根本的な再編成を求めているのである。そこでは学校以外に選択の余地がなかったり、全員が就学を義務づけられることがなくなるのである。しかしそれは単に学校をめぐる形式のみの変化にとどまるものではない。もっと深く社会のエートスの変革にかかわることなのである。(221頁)
脱学校とは、単に学校を廃止することを意図したものではないのである。そもそもイリッチは「学校」の定義として、「特定の年齢層を対象として、履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求する、教師に関連のある過程」(『脱学校の社会』59頁)と書いている。この定義に当てはまる「学校」の批判をイリッチは訴えたのである。『脱学校の社会』でも、大学や技術修得の学校は存続させることが必要であると書かれている。
イリッチは価値の制度化により〈学習のほとんどが教えられたことの結果だ〉と考える姿勢をこそ批判したのである。
学校教育の基礎にあるもう一つの重要な幻想は、学習のほとんどが教えられたことの結果だとすることである。たしかに、教えること(teaching)はある環境のもとで、ある種類の学習には役立つかもしれない。しかしたいていの人々は、知識の大部分を学校の外で身につけるのである。人々が学校の中で知識を得るというのは、少数の裕福な国々において、人々の一生のうち学校の中に閉じ込められている期間がますます長くなったという限りでそう言えるにすぎない。
ほとんどの学習は偶然に起こるのであり、意図的学習でさえ、その多くは計画的に教授されたことの結果ではない。普通の子供は彼らの国語を偶然に学ぶのである―両親が彼らに注意していればより早くはなるであろうが。(32〜33頁)
先に「価値の制度化」について見てきた。「脱学校」とは〈学習のほとんどが教えられたことの結果だ〉とみる「価値の制度化」の状況を乗り越え、本来的な学びの復権を図ろうとすることをさすのである。
4、「脱学校」の現代的意味について。
〈イリッチがいうほどまで制度を変えなくとも、脱学校は可能だ〉、というのが『脱学校化社会の教育学』のテーマである。本書は2009年の発行。脱学校化というものの現代的意味についてまとめられている。
タイトルである『脱学校化社会の教育学』は「脱「近代教育」社会の教育学」と理解するほうが、誤解が少ない。つまり、『脱学校化社会の教育学』の著者たちは近代公教育制度批判と「脱学校」を同じものと見ているのだ。
先に見てきた通り、イリッチは制度による教育ではなく、教育的関係による教育を訴えたのであった。
学校に依存することにとって代わるということは、人々に学習を「させる」新しい考案物をつくるために公共の財源を用いることではない。むしろ、それは人間と環境との間に新しい様式の教育的関係をつくり出すことである。(136頁)
この文章のあと、イリッチは「新しい様式の教育的関係」として「学習のためのネットワーク(ラーニングウェッブ)」を示している。けれど、ラーニングウェッブ導入をすることだけが、「教育的関係」を創り出すことにはならないと考える。イリッチは「学校による教育の独占を廃止し、またそのことによって偏見と差別を合法的に結びつける制度を廃止しなければならない」(30頁)といっている通りだ。
PISAショック以来、フィンランドの教育が着目されるようになっている。フィンランドでは少人数による学びが導入されている。また佐藤学は90年代後半から(つまり浜之郷小学校開学から)「学びの共同体」を実践している。両者は子どもの協同な学びによる授業を行っている(『脱学校化社会の教育学』)。
イリッチは近代社会を支えるために開発された「近代公教育制度」を批判したのであって、学校それ自体の廃止を訴えたわけではない。日本的意味では、文科省支配下にある「学校」(学校教育法でいう1条校)による教育を批判しているのである。イリッチは一方的な教員による教え込みを批判している。であれば、そうでない学校、つまり近代学校らしくない学校の導入をこそ展望していたと言える。
無論、学びの共同体やフィンランドメソッドでイリッチの主張をすべて実現できるわけではない。けれどイリッチの主張に近いのは確かである。
まとめを行う。『脱学校化社会の教育学』の中において、近代公教育制度批判と「脱学校」は同義である。これは現代の教育学においてもそうであると言えるのではないだろうか。
「4、脱学校の現代的意義について」の追記。
このあと、友人のOと話し、重要な点に気づいた。
Oは『脱学校の社会』に学校改革を期待することを〈インドカレー屋でカレーうどんの話をすること〉という絶妙な比喩で批判した。
もともと、「脱学校」とは脱構築主義に基づく概念である。脱学校論は「まず学校の解体ありき」の話のため、脱学校論に「学校を解体しないとき、どう改良できるか」を要求するのはお門違いなのだ。
その点『脱学校化時代の教育学』は、根本的に「脱学校」を理解し損ねていることがいえる。「脱学校」とは、イリイチのいう定義(「特定の年齢層を対象として、履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求する、教師に関連のある過程」『脱学校の社会』59頁)に当てはまる「学校」を廃止することを訴えている。そのため、現状の学校内での「教育改革」や「近代公教育批判」をおこなうことは、「脱学校」では語ってはならない事柄なのだ。私もすっかり誤解していた。「近代公教育批判」と「脱学校」は同じではない。本文もそう修正すべきだが、私が騙されたという経験を忘れないためにもそのまま残しておくことにした。
あれ、でもイリイチのいう「学校」にあてはまらない実践をする学校教育なら、「脱学校論」で語れるんじゃないだろうか? 残念ながら『脱学校化時代の教育学』はフィンランドメソッドや「学びの共同体」など、イリイチのいう「学校」に当てはまる実践くらいしか取り上げていない。もっと言ってしまうと、この本は幼児教育の本なので、そもそも「学校」を語るのは本題ではない。にもかかわらず、イリイチの「脱学校」をタイトルに謡うのは反則ではないか(幼児教育は「幼稚園」でおこなうものであり、「学校」でおこなうものではないからです)。そのため、『脱学校化時代の教育学』はイリイチの「学校」定義を超えた学校の実践を取り上げるべきであったのだ。
イリイチの「学校」の定義をこえる教育活動として、一番簡単にイメージできるのは大学であろう。私のいる早稲田大学でも、定年後に入学してきた60歳の学生がちらほらいる(イリイチの学校の定義「特定の年齢層」に当てはまらない)。大学は出席しなくても単位が取れる(イリイチの定義「履修を義務づけられたカリキュラムへのフルタイムの出席を要求」に当てはまらない)。イリイチの「学校」に当てはまらないからこそ、彼が〈脱学校化をおこなっても、大学や技術学校は残すべきだ〉と主張しても矛盾は生じないのである。
昨日、偶然に都立新宿山吹高校の存在を本で知った。この学校は無学年・単位制の高校である。宮台真司らの『学校が自由になる日』でも絶賛している学校だ。異年齢集団が通学でも通信でも学ぶことのできる高校。これもイリイチの「学校」定義から外れた学校である。
『脱学校化時代の教育学』とのタイトルを使うなら、イリイチの「学校」から外れた学校をこそ、取り上げるべきであったのだ。
この、脱学校論の「誤解」を改めるだけでも、卒論になりそうだ。
5、イリッチの脱学校に対する私の批判。
いままでずっとイリッチの脱学校論について考えてきた。そのイリッチは「脱学校」を訴えることで本来的な学びの復権を訴えている。
けれど、学校という「装置」はなかなかに優れたものであるといえる。まったくやる気のない生徒でも、何かしらかを学ばせ、読み書きやコミュニケーション能力についてを修得できる場所である。また、黙って席に座る能力や、上司の言に従順にしたがう態度を身につけることができる。
たとえ教科の内容はまったく理解できなくても、生徒は学校で勉強することで知らず知らずのうちに、時間の厳守、おとなしく着席している忍耐力、あたえられたノルマをはたそうとする動機づけ、規則や上位者の命令に服する秩序感覚、他人と協調してゆく能力といった、総合的「道徳」能力を学んでいるわけである。(森下伸也『社会学がわかる事典』日本実業出版社、2000、184頁)
イリッチは学校によって「学び」ができなくなるという、「価値の制度化」を主張した。けれども、私は学校が無くなった社会で、教育クーポンを〈ぽん〉と渡されて「自由に学んでいいよ」といわれたとき(ちょうどイリッチ主張する、ラーニングウェッブの世界だ)、途方に暮れそうな気がしてならない。自由はしんどい。誰かに「何を学ぶのか」決めてもらうほうが簡単だ。イリッチなどの教育学者は「子どもは学びたがっている」という説をよくとるが、私は疑いの目を持っている。強制されない限り、学ぼうとしない子どももいるはずである。
カトリックとプロテスタントの違いを自殺から考えたのがデュルケームであった。カトリックは教会を通じて神とつながるが、プロテスタントは聖書を通じて各個人が直に神とつながる。プロテスタントはどこまでも個人の問題になる分、しんどくなり、自殺するものがカトリックよりも多くなる(『自殺論』)。これを、学びという側面に応用してみよう。学校のある社会がカトリック、ない社会(イリッチのいう脱学校の社会)がプロテスタントだ。自発的に学ぼうとする人間にとってプロテスタントのほうが気楽でいい。けれど自発性の少ない人間(たとえば私など)にとってはカトリックこそ気楽でいい。確かに教えられる内容に不満はあっても、制度に対し不満をぶつけ、愚痴ることができる。プロテスタントではそうはいかない。学ぶ内容全てが自己決定。「自分が悪かった」という後悔をし、自分を責める方向のみに進んでいく。
イリッチのいうように、一概に「学校」の廃止を主張は出来ないのではないだろうか。
「5、イリッチの脱学校に対する私の批判」の追記。
発表後、「デュルケームと脱学校は何の関係もないから、例としてはあげないほうがいい」とのアドバイスを頂いた。おっしゃるとおりです。次はもっと適切な比喩を使おうと思う。
6、参考文献
青木久子・磯辺裕子『脱学校化社会の教育学』萌文書林、2009
イヴァン=イリッチ著、東洋・小澤周三訳『脱学校の社会』東京創元社、1970
上野千鶴子『サヨナラ、学校化社会』太郎次郎社、2002
エヴェレット・ライマー著、松居弘道訳『学校は死んでいる』晶文社、1985
奥地圭子『不登校という生き方』NHKブックス、2005
田中智志『教育学がわかる事典』日本実業出版社、2003
森下伸也『社会学がわかる事典』日本実業出版社、2000
*以下のサイトも参考にした。
小春日ダイアリー https://nak-koharubi.blogspot.com/