2010年 9月 の投稿一覧

映画『ナイト・トーキョー・デイズ』〜会話分析の手法から見る〜

 外国人が撮った日本の映画は、だいたいは「フシギな日本」を示している。海女がいる『007は二度死ぬ』、沖縄の寿司職人が実は刀鍛冶という『キルビル』(飛行機には刀ホルダーもついてましたね)はじめ、日本人としてみていて逆に面白くなってくる。さいきん新宿武蔵野館でみた本作も、正直な話、そんな感じの日本を描いていると思っていた。映画のオープニング。なんと寿司の女体盛り。日本人と白人の男性集団が寿司を食いつづけている。ああ、やっぱり「フシギな日本」を描いている…と思ったら日本人がこう言うではないか。

上司:〈なんで体温で温まった寿司を食わなきゃいかんのかね〉
部下:〈外国のお客様が描く日本の姿を示せばいいんですよ。接待なんですから、こうやっていい気分にさせておけば商談も上手くいきますよ〉

 サイードの『オリエンタリズム』にも同様の話があった。東洋の観光地に来た西洋人はオリエンタリズム性を見いださなければ満足しないのだ。映画冒頭ではじめからこのオリエンタリズム性の種明かしをしているのだ。この映画の監督は、メタ的手法で「フシギな日本は描かないですよ」と示して見せてくれた。この技法は素晴らしい。冒頭の戦略が功を奏し、映画は「これって、日本映画じゃないのか」と思うほど、自然な出来だった。

 本作のなかで興味深いのは、狂言回しをする「私」という人物である。ヒロイン・リュウの会話を録音し、家で何度も繰り返し聴く変な性癖を持っている。彼は「音」にこだわりをもち(そんな仕事をしている旨も語っていた)、リュウの会話を録音するようになったのも「ラーメンのスープを啜る音が母親によく似ていた」ということだった。…音フェチ、と言えなくもない。
 「私」はリュウとよく会っており、その度ラーメンや居酒屋・おでん屋などで食事をする。リュウとその「恋人」との密会も、ラーメン屋がよく舞台となっている(そういえば内田樹の村上春樹論に、「村上の小説には飲食するシーンが多い」旨が書かれていた)。プラトンの時代から、高尚な会話もそうでない会話も「饗宴」という飲み食いの場で多く語られていた。「私」がスムーズにリュウの会話を録音するためにも、飲食という条件は必要なのである。

 「私」はリュウの録音を聴き続ける。昼も夜も絶えず。その会話ではプライベートなことは何一つも話していないが、なぜか「私」はリュウの実の仕事(殺し屋)や秘密(依頼を受けた暗殺対象者と恋仲になる)をいつの間にか知るようになっている。どうでもいいことのようだが、その点が気になった。
 社会学を学ぶものとして、「私」が実は社会学者であったのではないか、と推測している。社会学の調査手法にも「会話分析」というものがあり、その手法を使う研究者も「私」のように病的に同一の会話テープ(あるいはレコーダー)を聴き続ける。「私」すらやらなかった会話の文章化もする(こうやって作ったものをトランスクリプトという)。なぜ社会学者はこんなマニアックなことをするのか? それは会話の進め方・間の取り方のなかに隠された社会的関係が存在していることがあるためだ。

 「私」は絶えずリュウの声をテープで聴く。「私」の会話をリュウがどのように受けているか分析している。長くそれを続けると、過去のリュウの会話と現在のリュウの会話の違いも分かってくる。何か大きな出来事があったのか、恋人ができたのか等など。人間は言葉を使い思考し、感情を表現する存在である以上、会話には本人の意思以上のものがあらわれる。

 「私」が実は社会学者だと思うと、「私」という中年男性とリュウという若い女性との関係性も見えてくる。「私」はリュウに好意を抱いてはいるが恋愛感情はもっていない。リュウはリュウで〈会話を録音したがる変な男だが、まあ暇だから食事くらいしてあげようか〉くらいの感情をもっているのだろう。「友情」といえるかも微妙な関係であるが、調査者と被調査者の関係だと思うと自然になる。調査者は親しすぎる人にはズバズバ質問しにくいのだ。その点ではグラノベッターのいう「弱い紐帯の強み」に近い。人間は親しい人よりも「あまり知らない」人からの情報を重視するのだ(親しい人とは元になる情報が同じ場合が多く、真新しい情報がなくなってしまう)。ただ、こんな微妙な関係ではあっても「私」とリュウにとって2人で会う時間はお互いに有意義だったのではないか。双方、ベタベタしない付き合いを求めていたようではあるし。

イリイチ『脱病院化社会』読書メモ

「私の論じたいのは、現在の医原的流行病を阻止するためには、医師ではなく素人が可能なかぎり広い視野と有効な力とを持つべきだということである」(13)

「お互いの自己ケアの能力を回復し、その能力を現代の応用技術の活用と結び合わせることに習熟した人々のみが、他の重要な分野においても、工業的様式の生産に制限を加えることができるだろう」(17)

「独占一般は市場を買いしめるが、根底からの独占は人々が自ら行為し、自らつくる能力を奪ってしまう」(39)

「集約的教育の結果、独学者は雇用されず、集約農業は自作農夫を破壊し、警察の発展は地域社会の自己制御を蝕んでしまう」(40)

「自ら学び、自ら癒し、自分で自分の道を見出すよりは、教えられ、動かされ、治療され、導かれることをわれわれは欲するのである」(168)

「話す自由、学ぶ自由、癒す自由を絶滅する一つの確実な方法は、市民の権利を市民の義務に変えることであり、それを制限することである」(191)

「健康であると証明されるまでは市民は病気であるとみなされる」(93)

「どのような価値の主要領域においても、産業生産の拡大がある点を超えると、限界効用は公正に分配されなくなり、同時に全般的な有効性も下降しはじめることは証明されうる」(214)

「人は他人に対して責任をもつと主観的に感じるときだけ、彼の失敗の結果は批判、中傷、罰というものでなく、遺憾、自責、真の後悔となる」(219)

「医療の介入が最低限しか行われない世界が、健康が最もよい状態で広く行きわたっている世界である。健康な人々とは健康な家に住み、健康な食事を食べる人々である」(220)

*Illich,Ivan(1976):金子嗣郎訳『脱病院化社会』、1998年、晶文社。

早稲田教会

いつも通り、早稲田教会の看板を見る。

最近、自虐が増えてきた。

習字

四ッ谷地域センターに、子どもの書いた習字が飾られていた。

見ていて民主党を連想してしまった。

…それにしても「黒い天使」とはなんだろうか?