2010年 8月 の投稿一覧

『学校の悲しみ』としてのイリイチの教育観

 ダニエル・ぺナックの自伝的小説に『学校の悲しみ』がある。落ちこぼれとして過ごし、学校に対し深い「悲しみ」を持って過ごす主人公の姿が印象的である(しかし彼は結局は教員になり、ずっと学校にとどまり続けることになるのだが)。

 「落ちこぼれ」へのまなざしは、しばしば小説や映画のテーマとなる。映画『大人は判ってくれない』の主人公の少年の姿から、学校に「不適応」とされることの「悲しみ」を感じ取ることが出来る。この悲しみはブルデューのいう「象徴的暴力」である。

 この「落ちこぼれ」へのまなざしであるが、イバン・イリイチの発想の原点にも存在している点に気付くようになった。彼は脱学校論deschoolingで有名だが、それを主張した理由の一つに皆が「学校化schooled」されることで「学校の悲しみ」を経験するようになる、という点がある。

「人の受けた教育化の分量が多ければ、それだけ中途脱落の体験は気持ちを打ちひしぐものとなる。第七学年で落ちこぼれたものは、第三学年で落ちこぼれたもの以上に、自分の劣等性を強く感じるものだ。第三世界の学校は、かつての教会がやっていたよりもさらに効果的に、特製の阿片を投与している。社会の気持ちが次第に学校化されるにつれ、それを構成する個人も、何とか他人に劣らずに暮らしてゆけるかもしれないという意識を段々と失っていく」(『オルターナティブズ 制度変革の提唱』220頁)

 他の個所でも、第三世界(いわゆる途上国)に学校を建設することは、今までに人々が経験しなくてもよかった「落ちこぼれ」る体験を多くの人びとに与えることとなる。学校から落ちこぼれ、ドロップアウトしてしまうと、精神的に自己否定されるだけでなく、学校に残り続けることのできる一部の人間がより多くの公費で高度の教育を受け、社会の上層に到達するのを黙って見つめなければならない。

「プエルトリコでは一〇人の生徒のうち三人が、第六学年も終わらぬうちに学校から落ちこぼれる。このことは、平均以下の所得の家庭からくる児童の場合、二人のうちわずか一人しか初等教育を修了しないことを意味する。こうして、プエルトリコの両親のうち半分は、もし彼らの子供が大学に入るチャンスが見せかけだけでなく本当にあるのだと信じているとすれば、悲しい幻想にとらわれていることになる」(ibid,173頁)

 ブルデュー等の再生産論者の言を用いるなら、高い文化水準のもとに育つ人々(高ハビトゥスをもつ人)は学校においても好成績を修められる「遺産相続者」(『遺産相続者たち』)である。そのため他の人々よりも高等教育進学の可能性が圧倒的に開かれている(『再生産』)。

 学校制度がなければ、学校由来の「悲しみ」を経験しなくても済んだのだ。学校への違和感から自殺をした小学生・杉本治の遺書にも「学校がなければみな自由だった」(『小さなテツガクシャたち』)と書かれていた点は示唆的である。
 学校制度を確立させることは、ユネスコや国連が早急に途上国に求める政策である。実際、途上国に学校を作るプロジェクトは数多い。私たちはその取り組みを手放しで礼賛する。どこかで「学校の悲しみ」に出会った経験があるはずなのに。学校制度が出来ることは、「学校の悲しみ」をその国民全体が経験させられることを意味するのである。

終戦記念日は一体いつか?~「最近の若者は終戦記念日を知らない」言説を破す~

 毎年、8月の半ばになると決まって「いまどきの若者は終戦記念日も知らない」という「調査」報告がなされる。

 しかし、一般的に「8月15日」が終戦記念日なのだが、歴史学の世界ではそれは説の一つにすぎない。少し見てみるだけでも、①1945年8月14日説(宮中御前会議でポツダム宣言受諾が決定)、②1945年8月15日説(一般的なもの。この日に玉音放送)、③1945年9月2日説(ミズーリ号上での正式な終戦)があげられる。

 もし調査員が②の説のみを知っていた場合、①や③の回答をした人間は「終戦記念日を知らない」人扱いをされることになる。アンケートの調査員はその分野のプロが行うわけではないので(ましてテレビ局の調査では、下請け会社に丸投げされることになる)往々にしてありうることだ。
 また、何を持って第二次世界大戦の終戦(敗戦)とするかも、歴史学的には難しいことである。①や②の後も、北海道ではソ連軍が侵攻を続けており、少なくとも北海道では戦争が続いていたと見た方が適切であろう。
 
 少し考えるだけでも、「いまどきの若者は終戦記念日も知らない」言説の欺瞞性に気付くことが出来る。若者を嘆く人間は、大体②説しか知らずに語っていることが多いはずだ。
 教育学徒として気がかりなのは、大体「終戦記念日を知らない」言説の後、「もっと歴史教育をちゃんとやるべきだ」という安易な教育政策提言がなされることである。おそらく、「ちゃんとした歴史教育」を想定する人の頭の中には、①説や③説の存在はなく、②説の押しつけをすることしか想定されていないのだ。

明治大学の自販機

明治大学の自販機。

ただ10円安くするくらいで大げさな広告。

120円取り続ける早稲田大学よりはマシだが…。