夏になると思い出す歌がある。
それが「夏をあきらめて」。
https://www.youtube.com/watch?v=4BISzrheN-E
桑田佳祐作詞作曲、研ナオコが歌うこの曲はTUBE的な「キラキラの夏」の対極にあり、私は結構気に入っている。
曲全体にただよう物悲しさが、「大人」な恋愛観を示しているように思われる。
さて、坂口安吾の作品に「諦めている子供たち」というものがある。
そのなかで、安吾は新潟の子ども達の「あきらめ(=諦観)」を述べた。
諦観のドン底をついておって自分の葬式まで笑いとばすような根性が風土的に逞しく行き渡っているのである。それが少年少女に特に強くでる。なぜかというとオトトやオカカは自分の生活苦があっていかに生れつきの持前でも多少は自分を笑いたくないような悲しいやつれがあるが、子供にはそれがないから、彼らの諦観はむしろ大人よりも野放図もなく逞しく表れてくるのである。
新潟の子供たちは小にしてすでに甚しく諦観が発達しており、こういう言い方をするのが決して珍しくはないのである。それというのが彼らのオトトやオカカが常にそういう見方や感じ方や言い方をしているからで、要するに先祖代々ずッとそうだということになる。
何かに対するあきらめをもたらすこと。
社会学では「冷却作用」という。
アーヴィング・ゴフマンが提唱したこの概念だが、現代社会の「自己啓発」風潮に水を差す(文字通り「冷却」)ものとして有益な概念である。
「何かをしたい!」
「立身出世だ!」という人びとの願望は、全て叶えられることは決して無い。
自己啓発関係の本は「夢は叶う!」と主張するが、叶わない夢のほうが圧倒的に多い。
そんな人びとの思いを冷やし、現実的な方向性を考えさせる。
それを「冷却作用」という。
坂口安吾の文章では、新潟という場所自体が「冷却作用」をもっていることになる。
こういう諦観はおそらく半年雪にとざされ太陽から距てられてしまう風土の特色と、も一つ新潟は生えぬきの港町で色町だった。つまり遊ぶ町だ。
太陽から隔てられることにより、子ども達のレベルまで「あきらめ」が浸透する。
そして色町=遊ぶ町が持つ刹那性が、人生という高尚なものへの思考を停止し、「あきらめ」をもたらす。
「夏をあきらめて」の切なさは、かつての「キラキラ」「若いころ」の情熱が冷めかけた時、つまり「冷却」されたあとの恋愛模様を描いているところにある。
「冷却」され、冷めてしまうと、ふと「自分は何をしてるのだろう・・・?」という疑問がわく。
お盆休み。
実家ですることもなく過ごしていると、急に感じるわびしさ。
普段の自分の日常への「冷却作用」である。
↑ 元祖ゴミ屋敷ともいえる安吾の部屋