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山本ケイイチ『仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか』幻冬舎新書 2008

学校にいると、どうしても「サービス」という発想が弱くなってしまう。

これは学校特有の現象かと思っていたが、そうでもないらしい。

本書はフィットネスクラブでのフリーのインストラクターの本。

フィットネスクラブのパーソナルトレーナーには2種類あるという。

1つはフリーランス、もう1つは内部スタッフとしてのアルバイト。

出来高払いのフリーランスのほうが概してモチベーションと能力が高く、「プロ意識」をもっている。

 

学校の教員とフリーの予備校講師の違いはそこにある。

 

学校の教員は「教える」のが日常化する。
そこで創意工夫をしてもしなくても、報酬は変わらない(変に工夫することで、組織内評価が大きく下がることもある)。

私は教員でもあるが、(自称)社会学者でもある。
社会学で私が好きなのは「合理的選択論」である。

これは「人間は必ず合理的な選択を取る」、という理論である。
一見「奇妙」な習慣も、元は共同体や個人が利益を得るために行うのだ、と考える理論である。

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例えば、未開部族の「雨乞い」を見てみよう。
雨がふるように皆で儀式をすることは「雨」をもたらすこととつながりはないため、「不合理」にみえる。
しかし、雨乞いが必要なほど危機的な干ばつの状況のなか、皆で集まって儀礼をすると、「みなで苦境を乗り越えよう」意識が高まる。
結局は「合理的選択」なのである。

 

学校経営者は必ず、次のように考えています。

「良い教員を揃えたい」
「良い実践を継続的に行わせたい」

そのためにはどうすればいいのだろうか?

「合理的選択論」的には報酬やモチベーションを適切に提供するシステムが必要なのだ。

報酬とは言っても、お金だけではない。
石田淳がいうように「お菓子」を出すだけでも意味がある。

 




本書でも筋トレの持続には「目的意識」の明確化が必要だ、という。
そうでなければキツイ筋トレをするモチベーションが低下する。
「合理的選択論」的には、トレーニングをサボるほうが「合理的選択」になるからだ(「楽をしたい」ということだ)。

そうではなく、例えば次のような目標を立てるほうが筋トレの持続性が上がる。

 

「12月24日までに3kg体重を落としたい」

 

こんな風に具体的数字・日付を入れた目標を立て、モチベーションを出す工夫が必要なのである。

私は昔ながらの根性論は好きではない。
自分や他者のモチベーションの維持をする方法を、常に自覚的に考え続けること。
それこそ、今後もっとも必要とされるスキルである。

(そしてこれが、今後の教育のテーマでもある)

私がネコワーキングで学んだこと。

私の大学院生時代は、1年生の頃と2年生の頃で大きく異なる。

 

1年目の私は、怖いもの知らず。
めちゃくちゃ社会学の本を読みまくり、
「新たな社会学の1ジャンルを作る!」と意気込んでいた。

2年目の私。途中で挫折する。

「研究に意味があるのか」
「進路は大丈夫なのか」

考えすぎて欝気味になる。

そんな私にも「転機」があった。

 

たまたま友人の紹介で、大学そばの商店街
「地蔵通り商店街」(文京区)に行った。

そこで地域活性化に取り組んでいたのが
広瀬さんであった。

 

 

東京なのに、「地域活性化」。

しかも、言うことが変わっている。

 

「東京・文京区の活性化には人口を減らすことが必要。東京の人口を地方に送り、人口を適正規模にすればいい」

シンプルでわかりやすい説明であった。

 

そんな広瀬さんがコワーキングスペースである「ネコワーキング」を作っている動きを知った。

 

ちょうど翌日、漆喰塗りをする、という。
会って早々にその話になり、「面白そうだな」と思った。

そして翌日も漆喰塗りを広瀬さんと行った。

 

漆喰を塗っていると「インターンシップをやらないか」とリクルートされ、そのまま大学院卒業までインターンとして働かせていただいた。

 

広瀬さんから学んだことは3つある。

 

1,どんなことでもイベントに出来るということ

 

広瀬さんはネコワーキングでの壁塗りも、
ネコワーキングの主たる猫たちの名付けも、
なんでもイベントにしている。

 

利用者同士をつなげ、新たな発想が生じるように工夫をしている。

 

2,今の時代、すぐに動かないと意味が無いということ

 

大学院生の頃の私は「いつか、〜〜をする」という夢をいくつも持っていた。

バーの経営やフリースクールを作るなど、「いつか〜〜しよう」というはかない夢だった。

ネコワーキングで学んだのは「いつか」は来ない、ということだった。

 

「フリースクールを作りたい」といった際に返ってきた内容。

ならば週に1度はどこかのフリースクールに見学に行け! フリースクールをつくった人の話を聞け! どこかのフリースクールでインターンシップをしろ!

 

強烈なメッセージである。

 

学生気分の私にとって、どんどん動き、形を作ることに、はじめは戸惑いがあった。

しかしものごとがどんどん進んでいくのは非常に楽しい。

だからいまの私にははかない夢はなくなった。

「いつか〜〜する」という夢もなくなった。

日々の行動で「〜〜歳の時に〜〜する」という夢に変わっていった。

 

3,やみくもに就職活動や研究をするくらいなら、その業界トップのクリエイターや社長、NPOやフリーランスの話を聞きに行くほうがよっぽど役立つということ

 

しょうもないOB訪問や会社訪問をするくらいなら、
学生時代に業界トップの話を聞きに行くほうがいい。

実際、ネコワーキングのインターン中、広瀬さんの紹介でいろんな人にお会いした。

フリーランスやノマド・ワーカー、NPO関係者など、普段会わない人とお会いする事となった。

実際、広瀬さんのお知り合いは面白い人が多い。

 

金を出してでも「すごい人」に会いに行く事の大切さを学んだ。

 

この3つ以外にも実践的な内容もお教えいただいたが(猫の世話の仕方なども)、
広瀬さんとの出会いがなければ、いまの自分は札幌で働いてもいないし、

休日にバーテンやイベントもやっていないし、
札幌に住んで2週間後に市民活動団体を立ち上げることもなかっただろうな、と思っている。

 

 

・・・広瀬さんから教わったことを忘れないため、
私のFacebookのTop画像はネコワーキングのインターンシップ時代のものです。

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いまから何年も前のインターンシップ経験ですが、
いまだに(そして「学校」をやめてしまいフリーランスになった今こそ)役立っています。

 

金を出してでも、学生時代のインターンシップはやるべきだな〜、と思います。

 

 

フランク・スミス『なぜ、学んだものをすぐに忘れるのだろう?』より。

「学校での問題は、「生徒が学んでいない」ということではなく、「彼らが何を学ぶのか」である」(13)

「役に立つ学びというのは、普段の生活から時間を割いて真剣な学習に取り組む時に起こるものではない。学びとは、私たちの普段の生活に不可避な行為であり、役に立つ学びは、私たちが普段の心構えでいる時にのみ行われる」(19)

「逆説的だが、暗記しようとする努力は理解を破壊してしまうので、結局は暗記を妨げてしまう」(143)

「どんな学校であれ、自由化された学校の本質は、「コミュニティであること」です。校長、教師、アシスタント教師、そして生徒といった階層社会ではなく、おもしろい活動に取り組むために人びとが集まる場所であるべきなのです」(168)

 

意外と知らない教師の日常。

書評:上田浩『壊れかけた教師たち』グラフ社(2008)

 

教員稼業をやり始めて3ヶ月。

私の勤務先は「私立通信制高校」という、教員業界ではマイナー中のマイナー。

どちらかというと「」に近いような場所であるため、「ふつう」の教員の発想形態やハビトゥスが「よくわからない」のである。

その点、この『壊れかけた教師たち』はサブタイトルどおりの内容だ。

 

意外と知らない教師の日常」。

 

こういう内容を謳う本は多いが、たとえば「教師とAV」(77ページ)や「教師のズル休み」(92ページ)まで扱うものはほとんどない。

 

「よく出せたなあ」という内容だ。

共感できるのは「誉められたがりの教師たち」(103ページ)。

教員なんて、勉強だけできて(出来ない人もいるけど)「嘘がつけない」ような人が多い職種だ(と私は考えている)。
そのため、 「誉められたがり」な人が多いのはある意味で「幼い」ということなのだろう。

 

教師って本当はすごく孤独な職業なのではないかということです。日々、多くの生徒と先生に囲まれて、一日中人間相手にしゃべり続ける教師ですが、「だれも本当の自分の気持ちを理解してくれない」という気持ちも人一倍感じやすいのかもしれません。だからこそ、ウソでもいいからだれかに褒めてもらわなければ、やりきれないというところもあるのかも。(105)

 

 

教員自身が「子ども」なのかもしれませんね。

生徒は「何もしていない」ように見えて、必ず「何か」を学んでいる!

書評:フランク・スミス『なぜ、学んだものをすぐに忘れるのだろう?』大学教育出版 2012。

 

生徒は「何もしていない」ように見えて、必ず「何か」を学んでいる。

そういうテーゼが本書の土台にある。

 

人は常に何かを学んでいる。

生活するということは、人との交流・本・雑誌・新聞から自在に学ぶという事を意味する。

 

生きることは「学ぶ」ということなのだ。

決してテストの点を取るために学ぶのではない。

 

 

…こういう話は本書の主題ではあるが、「よく聞く」話の一つでもある。

「聞き飽きた」人もいるテーゼだ。

 

本書の面白い点は、《テストの点数への信仰》が起きた原因の分析が独自である点だ。

 

スミスは「心理学」がテストの店への信仰を招いた、と指摘する。

 

心理学、とくに20世紀前半の行動主義心理学は「数値化」するためにいろんな工夫をした。

 

全く無意味なアルファベットの並びを覚えさせ、再現させるという何の意味もない実験。

これが「エビングハウスの忘却曲線」をつくった。

この忘却曲線の理論は、たとえば「aqpezdge」などという適当なアルファベットを覚えさせ、「どれくらいで記憶が半減するか」を調べたテストである。

 

無意味なことばを覚えることって、日常生活にどれだけあるのだろう?

 

そんな「無茶」な前提から、学習に関する理論化が進んでいく。

 

有名な「パブロフの犬」も、条件反射によって「どんなに無意味なことも学習させることが可能だ」という恐ろしく「間違った」前提がもとに作られた理論だ、と説明する。

 

心理学は「客観性」のために、「数値化」「実験」を重視した。

「数値化」や「実験」が可能な「学習」なんて、ほとんどない。

そのために作り出されたのが、「テスト」のように質問の答を出させるというスタイルだ。

 

それは「話をしながら相手の名前が自然に頭に入ってくる」という「学習」も、

散歩をして偶然見つけた看板を見て「こういう地名があったんだ!」という「学習」も、

心理学では「学習」にみなされない。

…生活に役立つ「学び」であるのに。

 

もっというと、いろんな人の間での学習も、心理学では「学習」にみなされない。

そのため、人々は「知らない」ことを人に聞くことを「ずるい」と考えるようになる。

 

大阪市を始めとして、テストの点数や教員への「管理」が広まる気風があるが、そういったものは教育の本義ではないことが本書を読むとよく分かる。

 


 

簡単に学校を作るための、ただ1つの方法。①

みなさんは「学校を作りたい!」という思いになったことはありませんか?

かくいう私自身も、

「学校とは全く違う教育機関を作りたい!」との思いに

高校時代から引きずられていた経験があります。

さて、日本においてすごく簡単に学校を作る方法が幾つかあります。

1,フリースクールを作る

自由な学び舎を作る、という方法です。

「不登校の子どもに対し何かをしたい」という人や

「自由な学び」を提供したい、という人にオススメです。

 東京シューレなど、フリースクールの大手はいくつかあります。

ノウハウを学ぶには「フリースクール全国ネットワーク」の合宿などに参加されることが近道であると思います。

具体的なアドバイスには、「登校拒否を考える親の会」など、
学びの場を求めている保護者の集まりに参加し、
要望を聞いていくという方法があげられます。

この方法のメリット・デメリットを見ていきましょう。

メリット 費用が安い/「子どものためになる!」という思いに簡単に浸れる
デメリット 顧客が少なく、経営が安定しない/確固とした経営方針が弱いため、持続性が少ない

この方法、何の方法論的・経営論的裏付けが必要ないため、
ごく安価に始められます。

顧客がいなくても始められます。
私の知っている人で「生徒が一人もいないフリースクール」をやっている人は何人もいます。

やったもんがちなのです。

NPO法人格を持つなら別ですが、
個人でやる場合なんの裏付けもいりません。

そのために子どもにとって不適切なフリースクールが登場することもあるくらいです。

丹波ナチュラルスクールの事件、覚えてますか?)

当然、すごく子ども思いのフリースクールがほとんどです。

ですが、一部には暴力・虐待が横行するところもあります(ないことを祈りたいです)。

もっと問題なのは「学校をやりたい!」「子どものために何かやりたい!」人の「善意」のみが溢れ、結局なんにもならないという事例があまりにも多いのです。

(生徒ゼロのフリースクールってどうよ?、という話です)

それでは子どものためになり、
なおかつちゃんとした「学校」を、
「ちゃんと」作るには、どうしたらいいでしょう?

続きはまた明日!

お楽しみに!

☆フリースクール設立のご相談は、こちらまで!

高校生とKJ法

今日、実はいつも以上に学校で仕事するのが楽しみでした。

新たな試みをやろうと思ったからです。

 

それは、高校生とKJ法の授業をする、ということです。

 

KJ法とは、アイデアを出す方法。

川喜田二郎氏によって『発想法』で提唱された方法です。

私も中公新書で読みました。

 

付箋などに思いつくフレーズを書き、
周りの人の付箋を共有し、
近いものを重ねていって、
その固まりのタイトルを書く、というものです。

以下のサイトが参考になると思います。
https://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/kjmethods.html

 

厳密にはKJ法は文章で書き、方法を守りながらやっていくものです。

 

ですが、「厳密すぎると誰も出来ない」ため、あえて崩して今日は授業をしました。

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さて、今日「携帯電話のいい面・悪い面」をテーマに、グループごとにKJ法で話し合いをしました。

 

通常、学校ではとにかく「話し合いをしよう」と呼びかけるばかりです。

その結果が、「声の大きい人の意見が通る」現状と、
「なんでも多数決で意見をまとめてしまう」現状の氾濫です。

 

声が出しにくい人にも、
じっくりものごとを考えたい人にも 適切な議論の方法はないだろうか?

 

考えた答えとしてのKJ法の授業でした。

 

通常の「とにかく話し合いをしよう」形式よりも意見が出やすかったのを実感しました。

他人の意見と「近い」点を探していくので、話を聴き合う練習にもなりました。

なによりも、話し合いの際、楽しそうな雰囲気のあるディスカッションになりました。





 

 

よく「いまの子どもは話し合いが出来ない」ということを聞きます。

ですが本当に大切なのは「話し合いが出来る方法論を伝えているか」という教員の側の問いかけです。

 

 

無論、今日の授業も課題点がないといえば嘘になります。

議論の仕方の方法論も含め、自主的に話し合いができる環境設計をやるのが教員の仕事だなあ、と思った今日一日でした。

 

【読書会】イリイチ『脱学校の社会』第1章

大学時代、友人と『脱学校の社会』の読書会をやっていました。
めちゃくちゃ面白く、次第に議論が深まっていくことが分かりました。

それが「原点」となって、「教育系のイベントをやりたいなあ」という思いにつながっていきました。

教育現場で働く側になったいま、再び『脱学校の社会』の読書会をスタートしました。
場所はシェアハウスのBUIE。

シェアハウスの友人と一緒に第1回目を本日開催しました。

学校にいくことで人々は、〈学んだことは教えられたことの結果だ〉という転倒した価値を持つようになる。そういったイリイチの発想に「シビれる」場となりました。

ディスカッションになったのは、イリイチの言う「ドリル学習」(反復学習)の意味について、です。ドリル学習を勧めるのは「自由な学び」を求めるイリイチと矛盾するのではないか、と議論しました。

重要なのは『脱学校の社会』1章の始めでイリイチが述べているように、
過程(目的)と手段を混同しないということです。

大学に入るのが教育の目的ではなく、自分として楽しい人生を生きれるようにすることが 教育の目的です。そのあたりを混同すると、「大学に入るための教育」に終始してしまうことになります。

これはちょうど「目的状況相関的方法選択」と近い発想です。
目的に応じてやり方を変える。
だからこそ方法論は多様な方がいい、という考え方です。

詰め込み的な「反復学習」と、人と人とが出会うことによる「学びのためのネットワーク」(learning webs)を同一の本で扱うイリイチの、一見矛盾した態度。それを解決する鍵はここにあります。

要は、一人ひとり、「合う」教育は違う、ということです。
にも関わらず、「学校」は同じやり方で教育を受けることを要求します。
いじめがあっても、クラスが合わなくても、そこで授業を受けなければ成績が悪くなります。

イリイチは、人によって違う教育を提供すべきだ、と考えていたのではないでしょうか。
だからこそ、「ドリル学習」と「学びのためのネットワーク」という矛盾するような教育のアイデアを提唱したのだと思います。

人によって、合う教育は違う。
だからこそ、教育の側が多様であるべきだ。

イリイチの思いが伝わってきます。

(余談ですが、イリイチがメキシコでやっていた教育機関も、資金源としてスペイン語の「ドリル学習」塾をやりつつ、「学びのためのネットワーク」にもとづく「市民大学」「自由大学」とでも呼べる研究所を経営していたことも、この拙文に関係するように思われます)

☆第2回目読書会は『脱学校の社会』のハイライトである6章をやります。
2012年6月30日22:30-23:30、シェアハウスBUIE学園前の2Fワーキングスペースで行う予定です。

参加希望の方は御連絡ください。

創造性を日常に設計する

人々は日常の中で習慣ハビトゥスが形成され、それによってその人の価値観や「実践感覚」が形成されていく。

 

一般的な職場は創意工夫といった「創造性」が失われていくように「設計」されている。

 

であれば、「創造性」が習慣として成立する環境を作るなら、組織は拡大していくはずである。

学校現場における「スティグマ」と「ラベリング」

最近とみに「スティグマ」理論や「ラベリング理論」を思い返すことが多い。

 

それは、日常的にLDやADHD、高機能自閉症などという診断のついた生徒と関わる機会が多いことに由来している。

 

生徒の行動がゆっくりだったり、間違いが多いものだったりした場合、

「やっぱりADHDだからね」と教員は言ってしまう。

教員の「慣習行動」になっているのである。

 

しかし、教員のそういった「決め付け」は事実だろうか?

普通の高校生にとっても、難しい内容ではないのか?

こちらの説明が不足しているだけではないか?

そして自分の側を正当化しているだけではないのか?

 

教員のみる「日常」は、常日頃の「習慣」(ブルデューの言う「ハビトゥス」)的な行動の積み重ねで形成される。

 

特別支援教育的な実践を行う学校ほど、実は自己の「学習障害」観を強化するにとどまってしまっていることが多いのではないか。

こう思うことが最近多くなった。

 

懸命に特別支援のもとづく教育を行おうとすればするほど、逆にその生徒の「スティグマ」を強めたり、「学習障害」というラベルを強化するにとどまってしまう側面がある。

 

そのことに自覚的になっていくことが必要であろう。