2009年 7月 の投稿一覧

早稲田大学教育学部 自己推薦入学の裏側

 わが早稲田大学教育学部には、自己推薦入学試験制度がおかれている。自己推薦入学試験(いわゆるジコスイ)とは、部活の全国大会優勝などの実績をアピールし、受験する試験制度である。早稲田の全学部に自己推薦入試があるわけではない。そのために、「一芸」に秀でた人々は「教育」に興味がなくとも教育学部にやってくることとなる。

 ちなみに「一芸」入試で有名なのは亜細亜大学である。登山家の野口健はこれを使って入学した。彼の著書は『落ちこぼれてエベレスト』。私はそれをもじって『落ちこぼれて亜細亜大』と呼んでいる。
 閑話休題。その早稲田大学教育学部の自己推薦入試であるが、合格してきている人々はどんな「一芸」に秀でているのであろうか? やはり全国大会1位などが多くなるはずだろう。どんな人たちが合格しているのだろうか。
 そう思い、さっそく早稲田大学の教育学部の学部事務所に行った。そして「自己推薦入学のご案内」というパンフをもらった。以下はパンフに載っていた昨年度のデータである。
 なお、下の学芸系とは「全国書道展1位」などの文化系での実績、スポーツ系とは「サッカー全国大会3位」などの体育会系での実績、全校的活動系とは「生徒会長」などの実績で合格した人のことを指す。
 自己推薦試験、志願者は計390名。そして合格者は61名。
 では学芸系での合格者から。志願者128名、合格16名。倍率は約10倍。
 続いてスポーツ系。      志願者175名、合格23名。約8倍。
 最後に全校的活動系。    志願者87名、合格22名。約4倍。
 なんと、最も合格率が高いのは「生徒会長」「生徒会副会長」などの「全校的活動系」の実績で受験した人達なのだ。ときどき生徒会長になることを「大学入試のための点稼ぎ」と悪くいう人もいるが、「確かにそうともいえるよなあ」と思ってしまうデータであった。
 ちなみに、私は高校では生徒会長。ああ、ジコスイを使えば早稲田に簡単に入れていたのか・・・。あんなに苦労しなくても良かったのに・・・。悔やむ心が起きてくる。
 
 ところで、「いない」とは思いますが、これを読んでいる受験生で、かつ生徒会長の方へ。早稲田大学教育学部への自己推薦試験を受けてみることをお奨めします。「教育」への興味はなくて構いません(私も教育学部は第五志望。まさかここへ通うことになるとは)。だって倍率はたかだか4倍なのですから・・・。

「学校じゃ教えてくれないこと」批判

 よく、「学校じゃ教えてくれないこと」というキャッチ・フレーズを耳にする。先日買った本の帯紙にもそう書かれていた。「学校じゃ教えてくれないこと」というタイトルのテレビ番組もあった。『教科書にない!』という漫画もある。「学校では教えてくれないけど大事なこと」というような本を読んだこともあった。

 「学校じゃ教えてくれないこと」という言葉には、「もっと役立つことを学校では学びたかった」という思いが込められている。そんな思いを哲学的にはルサンチマンという。学校に対する「恨み」ということだ。この「恨み」はしかし、学校それ自体への批判ではない。「学校制度でこんなことを教えてほしかった」「もっと役立つことを教えてほしかった」との、ムシのいい思いが感じられる。学校で「教える」ということ自体には何も批判をしていない。また「教えられる」ことを無条件に「善」としている点も気になる。
 問題なのは「教えてもらいたい」「教えられたい」という受身の感情、「奴隷根性」が見え見えである点だ。自分で学ぶ、という自発性・能動性が感じられない。思想家・イリッチは『シャドウ・ワーク』などの著作を通して、「自分でやること」「自分で作り出すこと」「自分で学ぶこと」の大事さを訴えた。他者を頼りにする姿勢(ここでは「教えられるのを待つようになる」という「学校化」の様子)は本当の人間のあり方ではない。
 「学校じゃ教えてくれないこと」。この言葉、脱学校論者からみれば「当たり前じゃないか」と感じる。学校は何も役立つことを教えてくれはしない。そんな期待をしてもいけない。来年には私は「教員免許」を入手できるが、「先生」といわれるほど人格は高くない。「人生において大事なこと」を教えられる自信は全くない。
 人生で大事なことなんて、学校が教えてくれるわけないのだ。自分で学ぶしかない。そんな当たり前のことを、なぜ今さらキャッチ・コピーに使うのだろう。
 私は高校までは「優等生」であった。早稲田という場所は「優等生」を崩してくれる場所である。だいぶ不真面目になったなあ、とつくづく思う。
 こんな話を、非常勤講師をしたとき、中学・高校でしたいものだ。
追記
 イリッチの話を敷衍するなら、学校の「部活動」というものにも再考が必要だ。
 部活動は「勝利主義」的。勝つこと・プロになることを子ども達に押し付ける。「勝てなくてもいいから楽しくやろうぜ」とは決して言わない。「どうせ甲子園に出れるわけないんだから、紅白戦を毎日やって、楽しくゲームしようよ」という野球部のキャプテンは、おそらく吊るし上げられる。
 日本で健康のためのスポーツが根付かないのは、「部活」による「勝利主義」の存在が大きいのではないか。ゲームそれ自体を楽しむのではなく、「大会に出る」「根性をつける」「努力の大切さを学ぶ」という、汗臭い目標の達成が「部活」の目標になっているからだ。
 イリッチは「レコードよりもギターが、教室よりも図書館が、スーパーマーケットで選んだものよりは裏庭で取れたものの方が価値があるとされる」(『シャドウ・ワーク』52頁)社会の誕生を待ち望んだ。スポーツも同じだ。勝利することなど「結果」として得られるものよりも、過程を大事にする姿勢(「楽しむ」ということ)の重要性をイリッチは教えてくれる。

山本哲士の本

早稲田生協でこの本を買った。

学校それ自体への批判を、山本哲士は積極的に行っている。

あとがき が気に入ったので購入。

「教師として失格であることが、教育的に一番害がない。50%ぐらいの教師がそうなると、教育は必然になくなり、学ぶパワーがとりもどされていこう」

イリッチが『シャドウ・ワーク』で言いたかったこと

『シャドウ・ワーク』においてイリッチは〈制度に縛られない〉生き方の大事さを何度も主張している。少なくとも、一章と二章を見る限り、そうである。

 「学び」という営みも本来、もっと自由なものであったはず。「学校」という制度に頼らなくても、子どもたちが周りの「まね」をのびのび行っているのが本来の「学び」であったはずだ。いま、「まね」ることの出来る環境が無くなりつつあるのと平行して、「学び」が「学校」のみに一元化されようとしている。また宮台の言うように学校的価値が社会にひろまるという意味での「学校化」も起きている。「学び」と「制度」がつながってしまったのだ。「価値の制度化」である。

 『シャドウ・ワーク』でイリッチは言う。「もし自分の手で丸太小屋を建てることができるほどのひとならば、そのひとは本当は貧しいとはいえないのだ」(43頁)。丸太小屋という粗末な家をあえて自分でつくることができるのは、金持ちの特権なのである、と。近代成熟期には制度に頼らず「自分で」することは特権階級のすることとなってしまった。制度に頼らない学び、たとえばフリースクールやホーム・エジュケーションに関心を持つのは金持ち層が多い。イリッチの主張はこのような点にも現れている。

 追加すると、イリッチは「理想の社会」と一つのことばで表される社会を嫌っているように思える。コミュニティごとに、「理想の社会」は異なるはずだ。文化環境も、思想・信条も、自然環境も違っているのだから。山本哲士は『教育の政治 子どもの国家』において「社会」と「場所」とを対比的に語る。一元的な「社会」ではなく、その場その場の(ヴァナキュラーの)「場所」を重視すべきだと主張している。
 経済を基にしていると、経済はすべてを一元化してしまう。『シャドウ・ワーク』の「公的選択の三つの次元」のZ軸の定義として、上限が「経済成長につかえる社会」であると示している。その反対側の下限が「生活は自立と自存を志向する活動のまわりに組織され、それぞれのコミュニティは、成長の要求に懐疑的になることで、コミュニティ独自のライフスタイルをいっそう強化する」というものであった。「経済に基づくコミュニティも多様な選択肢の一つではないか」という意見が聞こえてくることを見越した上での、主張であろう。経済を基にすると、コミュニティの独自性が失われてしまうことをイリッチは嘆いているのだろう。XYZ軸をすべて説明した後に、「当今の政治の概念作用となると、すべてを一次元化してやまない」といっているのは、そのためではないだろうか。

※余談だが、昔読んだリンカーン大統領の伝記を思い出す。サブタイトルは「丸太小屋からホワイトハウスへ」であった。当時の私は丸太小屋、つまりログハウスに住んでいる人は「別荘を持った金持ち」というイメージをもっていた。本来、19世紀初頭における丸太小屋は「貧しさ」の象徴であったのだが、誤解していたのだ。

宮台真司『14歳からの社会学』

 いま私は宮台に夢中である。
 宮台の著書『14歳からの社会学』に、「承認」論が描かれている。社会から、他者から認められ、「自分はこれでOKなのだ」という「尊厳」を得るためには(ちょうどエヴァのシンジのように)、何が必要か?
 宮台は「試行錯誤」を行うことが必要、と語る。

《他者たちを前にした「試行錯誤」で少しずつ得た「承認」が、「尊厳」つまり「自分はOK」の感覚をあたえてくれる》(32頁)

 これは面倒くさいことだ。けれどこれをせずに歳をとってしまうと、「死んだときに誰も悲しんでくれる人がいない」という悲劇を味わうこととなる。「承認」され「尊厳」を得る努力を怠ると、不幸になってしまうのだ。
 それゆえ宮台は〈幸せになりたいなら、勉強だけしていればいいわけじゃない〉と本書で伝えているのだ。もはや勉強だけ出来れば幸せになれる時代は終わったのだ。
 『14歳からの〜』を読み、私の物の見方が180度変わった。パラダイム転換とでも呼ぶべきか。大学でろくに勉強をしない人間を無意識下でバカにしてい た自分の方が、実はバカであったことに気づいたのだ。勉強をしていると、いまの社会では褒められ、評価される。けれど、その評価は未来に渡ってのものでは ない。現体制で褒められる言動が、これからの社会でも同じ評価を受けるわけではないのだ。いまの社会では勉強だけすることに評価が与えられる。けれど宮台 のいう新たな社会では、勉強よりも他者から「承認」される能力・技術が必要となる。「大学でろくに勉強をしない人間」は、実は来るべき社会の「勝者」とな る可能性を秘めているかもしれないのだ。「パラダイム転換」と私が言ったのはこの点だ。

 勉強だけやるのはもうやめよう。寺山修司ではないが、『書を捨てよ町へ出よう』だ。

追記
 宮台はこれからの社会の「勝ち組」像を語る。その人物は、他者とコミュニケーションを自在に行うことができ、自分の示すビジョンの実現のために多くの人々を動員し、実現できる者である。
 コミュニケーション能力こそが、必要となるのだ。
 外に出て、人に会うのだ、石田よ! 
 誰かが「人生において重要なこと」として言っていた。「本を読め、人に会え、旅に出よ」と。私はこれに「映画を観ろ」を追加したい。
 さて。今日も人と会って深い対話をし、「承認」を得られるように努力していきたい。

夏の目標

 眠れない苦痛を逃れるため、過去の投稿を読んでいた。文章の下手さ加減に感心してしまう。「今ならこう書くのに…」。けれど、それに気づける時点で自分の成長が測れるのだろう。

 私の今年のテーマは「人と比べるな、昨日の自分と比べよ」である。過去の自分の文章に駄目出しできることは、過去の自分よりも成長した証しと言える。

 夏休みの私の目標。一日1本映画を観ること、一日1回はブログ更新をすること、『社会学』の厚い参考書を3回読むこと、卒論を「とりあえず」書き上げることである。インプット・アウトプット両方を重視しつつ、自分の成長につながる時間を過ごしたい。

 映画『燃えよドラゴン』解説での、ブルース・リーの言葉。
「自己表現を学べ。自分自身を研究するんだ」
 そんな夏にしたい。

 ともあれ、時間というストックだけは万人に開かれている(梅田望夫『ウェブ時代をゆく』)。ならば戦え、自分よ。目前の時間を価値的に使え、惰眠に使うな! 「生きるとは行動すること」とは誰かの言葉。
 自分に負けるな!

 
 

大二病

人間は社会的生物である。一人暮らしの夏休みほど、それを感じる時はない。

何もすることがないということの悲哀。可処分時間が多すぎると、人は空しさだけを噛み締める。そんなとき、むやみと人に会いたくなる。「まったり」話していると、孤独さから解放される。

Hさんという人と今日の夜、ずっと話していた。
「早稲田に入って、やたら映画に詳しい人によく出会うので、『映画詳しいよ』とうかつに言えなくなりました。だから毎日1作のペースで映画を見ているんです」といった所、Hさんは、
「大二病だね」
とおっしゃった。

大二病とは中二病(中二病の定義は文末を見てほしい)の亜種らしい。自分より遥かに「出来る」友人を見て落ち込み、引きこもり気味になり、その間徹底的に映画を見るなどして自信を付けたがることをいうらしい。

そうか、大学4年生にしてようやく「大二病」になったのか。罹らないまま卒業して方が幸せだったのだろうか?

Hさんの話の中にもあったが、世の大学生は本当に「大学生」たるべき行動をしているのか妙に気になった。軽々しく「ポストモダン」論を語るが、真剣に本を読んで学んだ時期があったのか? 簡単に「もう自民は駄目だよ」というが、真剣に政治学を学んだ時期があったのか? 教育学部生は「教育学」をマスターしているのか? 大学院に行く人間はそれにふさわしいだけの学問を学んできたのか? 

「大二病」に罹ることが出来る方が、「大学生」らしい大学生と言えるのではないかとふと思った。

*Wikipediaにおける、「中二病」

思春期の少年が子どもから急激に大人に なろうと無理に背伸びをして、「(子供の価値観での)大人が好みそうな格好のいいもの」に興味を持ち始め、「子供に好かれそうなもの」、「幼少の頃に好き だった幼稚なもの」を否定したりするという気持ちが要因である。こういった感情から「もう子どもじゃない」、「(格好の悪い)大人にはなりたくない」とい う自己矛盾からくる行動が、実際に大人になってから振り返ると非常にピントが「ずれ」ており、滑稽に感じることが大きな特徴である。

加えて生死宇宙、人間や身近なものの存在に関して、(的外れ気味に)思い悩んでみたり、(子供基準での)政治社会の矛盾を批判してみたりするのも特徴的である。さらに実際の自分よりも自らを悪く見せかけようとするものの、結局何も行動を起こさないでそのまま収束するといった性質も「中二病」の「症状」として含まれる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%8C%E7%97%85

猛省、猛省。

今日も12時まで寝てしまった。その後、映画『燃えよドラゴン』を見つつ寝てしまい、行動開始は16時。何という自堕落な生活だ!

先日中学時代の友人に電話した。彼は上京して現場監督として働いている。電話口の声が疲労で溢れていた。その彼の話を思い出す限り、「大学生」を味わわせてもらっていること自体に申し訳なさを感じる。

アメリカの大学は、大学生が週に45時間勉強することを想定してカリキュラムを組んでいるらしい。授業が15時間あり、残り全て自習という想定。
何故45時間か? それは一日8時間労働×5日+土曜は半日(5時間)労働、という一般企業の労働体系を学問にも合わせているからだ。
「君たちと同い年の人間は、週に45時間くらいは働いている。だから君たちもそれくらいは勉強しろよ」という、考え方なのだ。

アメリカでは一度社会に出てから大学に行くことも多いらしい。そのようなとき、「労働するのと同じくらいは大学で学ぶ」という考え方には納得できる点が多いであろう。

私も、猛省をしなければ。明日は7時に起きて、即行動開始をしよう。

『シャドウ・ワーク』を読む。第2章前半。

●「60年代に、「発展=開発」は「自由」や「平等」と肩を並べる地位を得てきた」(40頁)
→「もっとたくさんの学校、もっと近代的な病院、もっと広く長い高速道路、新しい工場、高圧送電システムを設けること」(同)が重視された。
→際限のない拡大・開発を求め続けてきたのが近代である。1章に「発展=開発と平和を一緒のものと見る」ことへの批判があったが、この章でも「発展」観の見直しをイリッチが訴えている。

●その結果、「外部不経済」や「逆生産性」が現れてきた。
例:「学校や病院の税金負担が、どのような経済も支えきれないほど莫大になった」(40)
  「制度の顧客である多数の貧しい人々は、たえず欲求不満におちいることになった」(41頁)のだ。
  「大多数の人間にとってラッシュアワーにしか使えない交通機関は、自由に選ぶことのできる移動や相互的な接近の機会を減少させて、通勤の乗物に隷属しながら費やす時間を増やすことになる」(42頁)
→つまり、制度の発展によって人間の自由や仕事が奪われるのである。

●「経済成長はすべて不可避的に環境の利用上の大切な価値を衰弱させるのだ」(43頁)
→環境と経済成長の関係。いまよくいわれているようなことである。
→イリッチのこの指摘を解決する方法として、宮台真司は次のように主張する。〈経済発展を皆が目指すのだから、企業のみに「環境に配慮せよ」とはいえない。そうではなく、「環境に配慮した会社が儲かる」ような社会システムを設計することが重要だ〉。その例として炭素税などを宮台は提案する。

●「新たな『満足』を手にすることよりも、開発のもたらす損害から身を守ることのほうが、人々の一番求める特権になった」(43)
例:自宅で子どもを産むこと。かつては「普通」だったが、いまでは「エリート層」の人の特権となった。
  新鮮な空気を吸うこと。

「今日の下層階級を構成するものは、逆生産性のお荷物一式を消費しなければならないもの、みずから買って出た奉仕者たちのお情けを何としても消費しなければならないもの、にほかならないのだ。これと逆に、特権階級とは、逆生産的な装置一式と手前勝手な世話やきを自由におことわりできる人々のことである」(43)
→自分の力で何かが出来る人/制度に頼らずに生きていける人が、いまでは特権的なことになった。

「この社会(商品集中社会)では、専門家によって企画・指定され、しかも彼らの管理のもとで生産される商品やサーヴィスの規格化といった観点から、ニーズというものが定義される傾向が強まる」(45頁)
→自分たちが自由にものをつくったり、生活したりしていた中世と違い、近代に入ってから自分の意のままに生活していくことができなくなってしまった。そこでは専門家や企業・政府の意図によって人々のニーズがつくり出されることになる。

●「経済成長」に対立するものとして「生活の自立と自存を志向する、共同の環境の使用が生産と消費にとってかわることに高い価値を与える社会、を置きたい。すなわち、『ホモ・エコノミクス』の観点から組織される社会にたいして、『ホモ・アーティフィクス』、つまり人間生活の自立と自存にかんして伝統的な仮説を回復した社会を対立させるのである」(46頁)
→経済という「制度」に頼る生き方ではなく、「生活の自立と自存を志向する、共同の環境の使用が生産と消費にとってかわることに高い価値を与える」生き方を志向していくべきなのだ。本人の「自立」「自存」に留まらず、「共同の環境の使用」(あんまり意味が分からない…)を目指していくべきなのだ。

●「現代社会の形態は、実際、これらの独立した三つの軸に沿っていまなお行われている選択の結果である」(46頁)
3つの軸とは?

X軸:「ふつう『右』と『左』ということばで表される問題、たとえば、社会の階層性、政治的権威、生産手段の所有、資源の配分をめぐる諸問題を配置したい」(44頁)

Y軸:「『ハード』と『ソフト』とのあいだの技術上の選択がくる」(同)

Z軸:「特権や技術でなく、人間の満足=欲求充足の性質それ自体が問題となる」(45頁)
Z軸の下限:「商品集中社会」。「経済成長につかえる社会」(46頁)
Z軸の上限:「実にさまざまな社会が、扇形に並ぶ。そこでは、生活は自立と自存を志向する活動のまわりに組織され、それぞれのコミュニティは、成長の要求に懐疑的になることで、コミュニティ独自のライフスタイルをいっそう強化する」(pp45~46)。「生活の自立と自存を志向する、共同の環境の使用が生産と消費にとってかわることに高い価値を与える社会」(46頁)

「政治形態への信用の度合いは、三つの選択のそれぞれの組合せに、人々がどの程度参加するかに依存しはじめる」(46頁)

イリッチは「社会のユニークなイメージ、つまり社会の諸部分が明確に分節され、独自に関連づけられているイメージというものは美しい」と語る。

「質素とつつましさという特徴をそなえ、現代的ではあるが手作りであって、小規模に営まれている生活様式というものは、市場化をとおしてのそれ自身の伝播をなかなかゆるさないものである。こういうふうにして、歴史上初めて、貧しい社会と豊かな社会とを掛け値なしに対等の関係に置くことができるようになるだろう」(47頁)
→文化相対主義とも言うべきか。

イリッチは続ける。「このことが本当に実現するためには、開発の視点から国際的な南北関係の問題をみる現在の認識のあり方が、何をおいてもまず破棄されなければならない」(同)。

ここから、『シャドウ・ワーク』というイリッチのことばの解説がはじまる。

「仕事は雇用と同一視され、名誉ある職業は男性に限られていた。就職口と切り離して行われる〈シャドウ・ワーク〉の分析はタブーだった」(47頁)
そして、このシャドウ・ワークは「開発が進めば、そのような労働は消えていくだろう」(48頁)と考えられていた。

※シャドウ・ワークの説明:
『社会学』(長谷川公一ほか、有斐閣)には、「家事労働は資本主義社会を支える相補的労働でありながら、賃労働の影の部分として暗黙に存在するシャドウ・ワークとなり、労働として自覚されなくなっていく。そのように分離された中で、性別役割分業を基軸とする〈近代家族〉は、男性を市場で営まれる有償労働に、女性を家庭で営まれる無償労働に一般に割り当てることになる」(389頁)
→イリッチの本文の記述と近い。イリッチは「家庭内という領域での女の隷属状態は、今日もっとも明らかかなその代表である。家事には給料が支払われない。しかも、昔は女の仕事の大部分は生活の自立と自存をめざす活動であったが、今日の家事ではそうではなくなった」(50頁)といっている。
つづけて「現代の家事は、生産を支えることに向けられた産業的な商品によって規格化されている」(同)と説明する。
「賃金労働者を再生産し、休養させ、賃労働にかりたてる原動力となる役割に彼女たちを押し込めている」(同)

「シャドウ・ワーク」は「経済学の分析の手からすりぬけていた」(51頁)。そのために、下の2つの活動のうち①のみが重視されるようになる。

賃金が支払われない二種類の活動:
①賃労働を補う〈シャドウ・ワーク〉
②本当の自立・自存の仕事

●「コミュニティが人間生活の自立と自存を志向する生活の仕方を選ぶときには、いまとは正反対の仕事観が広がってくる。その場合には開発を逆転させること、消費材をその人自身の行動におきかえること、産業的な道具を生き生きとした共生の道具に変えることが目標となる。そこでは賃労働と〈シャドウ・ワーク〉はそれこそ影をひそめるだろう」

人間を「成長中毒患者」とみるかどうかは、「非雇用」や失業を「みじめな禍とみるか、あるいは有益な一つの権利とみるかの分かれ目を決めてしまう」(49頁)

商品集中社会:「基本的なニーズは、賃労働の生産物によって満たされる」(49頁)
商品集中社会を動かす労働倫理:「給料や賃金のための仕事を正統化し、それと反対に自律的な活動の価値を引き下げる」(49頁)

(本来、まだ続くのですが、できませんでした)

ニール・ポストマン 小柴一訳『子どもはもういない』(1995年改訂1版、新樹社)*原著は1982年

 かつてPh・アリエスは『子供の誕生』において、「子ども」が大人社会の中で認識されたのは近代に入ってからであることを提示した。ポストマンの書いた『子どもはもういない』はアリエスのこの主張をさらに発展させたものである。
 本書の前半で、ポストマンはアリエスや他の思想家が訴えてきた事柄を用い、「子ども」「子ども期」が近代になって生まれてきたことを提示する。どうして「子ども」概念が出てきたか? ポストマンは活版印刷機の登場を用いて説明する。手書きで文字を読み書きしていた時代において、大部分の大人は識字ができなかった。そのため口頭によるやりとりが行われることになる。その中では「子どもに言うべきでない話題」などの「秘密」を隠すことができなかった。現在では「子ども」といわれるような人間も、その秘密をふつうに見聞きしていた。
 活版印刷の発明は、文明のあり方を変えた。人々の仕事において、文字を使用する機会が圧倒的に増えた。役所に提出する文書、契約書などなど、書面で仕事のやり取りをすることも出てきた。活版印刷技術は、人々に読み書きできる能力を必要とする。けれどこの能力の習得には長い時間が要る。まだ文字を習っていない人間を隔離し、「学校」で教えなければ。人々はこう考えるようになり、結果として「子ども」が誕生した。

印刷技術の発明後、子どもは大人になるものとされ、かれらは、読むことを覚え、活字の世界にはいりこむことによって、大人にならなければならなかった。そして、それをなしとげるためには学校教育が必要だった。こうして、ヨーロッパ文明は、(古代以来)学校を再びつくりだした、しかもそうすることによって、子ども期をなくてはならないものにしたのである。(pp59-60)

*(  )内は石田。
 ポストマンは「子どもの誕生」を活版印刷機が元になったと説明する。時代は進む。活版印刷により誕生した「子ども」が消滅するところまで、時代は進んだのだとポストマンはいう。ではそのきっかけとなったのは何だろう? ポストマンは電気による通信(象徴的な意味ではモールス信号)をあげる。この進化系であるテレビが、「子ども」を消滅させてしまったのだと説明するのだ。
 テレビは「子ども」でも理解可能である。識字能力は必要ではない。テレビは「活版印刷」や「活字」が子どもから隠してきた「秘密」を明らかにしてしまう。例えば性、例えば暴力。それにより、もはや「子どもはもういない」といわざるを得なくなってきているのだ。
 高橋勝は『文化変容の中の子ども』の中で「子どもの消滅」についてを説明している。それは子どもが「消費者」として大人扱いされるという点からの説明であった。ポストマンは「メディア」の変遷により、子どもが誕生し、消滅しているのだと説明をしているのである。
 ここで、私の問題意識を提示しておく。子どもの誕生―消滅を「メディア」の変遷によりポストマンは説明した。いま、メディアの世界の主力はインターネットである。ポストマンはこの状況を見てどう思うであろうか?
 当初、インターネットは文字文化の復興をもたらしたように思われた。掲示板の書き込みも、企業のウェブサイトでも、大体は文字情報のみに寄っていた。現在、ニコニコ動画やYou tubeなど、ネット世界は「動画」が重視される時代に入った。インターネットがもたらした効果も、文字中心の時代と動画中心の時代とに分けて、考えることはできないだろうか? また、手軽にインターネットの「メール」ができるようにした「携帯」登場以後について、彼はどういう説明をするだろうか? 気になるところである。
 余談だが、ニコニコ動画などには、「本来、文字で示すべきだろう!」と怒りたくなるような「動画」が公開されている。メッセージを音楽にのせて延々と流し続ける動画がそれである。私はそれを見たとき、文字情報のテレビ化という言葉を思いついた。映画のエンドロールに端を発しているんであろうが、読み取り手の意図・読むスピードに関係なく一律で文字を動画に表し続ける態度にイライラを感じてしまう。
 以下は、本文からの引用です。

本と学校が子どもをつくりだしたとき、それらは大人についての現代的な概念をもつくりだしたのである。(p79)