2015年 5月 の投稿一覧

藤野英人, 2013, 『投資家が「お金」よりも大切にしていること』星海社新書.②

働き方、お金の使い方・・・。
本書にはいろんな気付きがあります。

そんな一節を抜粋。

従業員に過重労働を強いる「ブラック企業」を生み出しているのは、私たち消費者である(89頁)

 

経済とは「共同体のあり方」であり、どのように生きたらみんなが幸せになれるかを考えるのが、経済学の本質だということです。
まさに互恵関係であり、自他不二こそが、経済の本質なのです。(98頁)
経済とは、お金を通してみんなの幸せを考えること−−このことを、ぜひみなさんは覚えておいてください。(99頁)

太古の昔、人間はアフリカで細々と生きていた、弱い哺乳類のひとつだったようです。そんななか、インドネシアで大規模な噴火があり、それによって地球の温度が一気に寒冷化に向かい、多くの生き物が死に絶えました。
人間の祖先も多くが死んでしまい、絶滅の淵に立たされたそうです。
しかし、ここからが面白いのです。生き残った人間のうち、さらに生きのびることができたのは、血縁でなくてもお互いに助け合い、少ない食べ物を争わずに分かち合ったグループだけなのだそうです。|
要は、「協力」こそが、人間が生き残った大きな戦略であり、人間を人間たらしめている大きな要素だということです。
協力することで「company」になり、いま持っている資源を「share」することは、動物にはできない人間独自のものなんですね。(127-128頁)

 

本来あるべき金融教育とは、働くことに価値があり、その価値ある労働の延長に起業の利益があり、その利益の将来期待が会社の価値を形成していると理解することです。(151頁)

真の安定とは、変動・変化をしないことでは、けっしてありません。
変化と向き合い、変化をチャンスと捉え、変化(成長)を望んで、実際に働くこと。要は、変化こそが安定なのです。(213頁)

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アメリカのヒーロー、日本のヒーロー〜藤野英人, 2013, 『投資家が「お金」よりも大切にしていること』星海社新書.①〜

アメリカ映画にはヒーロー物の伝統がある。
バッドマン、アイアンマン、サンダーバードなどなど。

これらは基本的にマンガのヒーローを映画化したものだ。
ちなみに、これらのヒーローの特徴はなんだろう?

バッドマンはウェインカンパニーの社長の御曹司。
大金持ちのいわば余暇として、人助けをしていく。

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サンダーバードは土木建設事業で一旗揚げた一家の慈善事業。
資産をもとに自分の家族を訓練し、世界中のトラブル解決を目指す。
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チャーリーズ・エンジェルのチャーリーは実業家の大富豪。
「チャーリーがスポンサーになって、3人の女の子(エンジェル)たちを支援し」(52頁)、事件を解決していく。

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アメリカのヒーローたちは、基本的に「民間人」なのです。それも、事業を成功させてお金持ちになった実業家が多い。(52頁)

では、日本では?

日本のヒーローといえば?
ウルトラマンや◯◯レンジャー、などなど。

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 一方、日本の場合はどうでしょうか?
同じように日本のヒーローを思い描いていただければわかると思いますが、面白いことに、そのほとんどが「公務員」なんですね。
たとえば、ウルトラマンの科学特捜隊は、国際科学警察機構の下部組織で、パリに支部があり日本に支部がある公の期間です。
ウルトラマン自身も、宇宙警備隊員ですね。(54頁)

日本人の場合、ヒーローは公務員。
それは「「なぜ国がやらない!」と怒り出すのが日本人」(70頁)である証拠かもしれない。

テレビや映画から生まれた日本のヒーローは、ほとんどが公務員です。実業家や大富豪が世の中の悪を倒す、みたいなものは、ほとんどありません。(55頁)

NPOやNGOのやることに「うさんくささ」を感じるのが日本人。

でも、昔はそうでなかったはず。

たとえば角倉了以は私費を投げ打って運河や河川の整備を行ったヒーロー。
いつからかヒーローは国などが公務員として働くもの、というイメージが付いてしまっている。

注 ◯◯レンジャーのシリーズには、国の秘密組織などの前提で作られたものもあれば、太古からの守護神の化身、というものもある。しかし、そのへんの大金持ちが私費で運営しているような◯◯レンジャーシリーズは存在していない(と思います)。

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見田宗介『現代社会の理論』読書会を終えて・・・

本日5/23(土)、『現代社会の理論』読書会を実施。

東大社会学で長らく日本の社会学を引っ張り続けてきた見田宗介(みた・むねすけ)。

その1996年の著書『現代社会の理論』は、素朴な情報化社会賛美も見られるが、「消費社会」を乗り越える方向性を示す点で得るものの多いものだった。

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見田宗介の本は、論理一本槍ではなく、ところどころに「詩的」部分が存在する。




「ちょっといいこと」を言っているのだが、そこがグッとくる。
東大社会学の見田門下生が見田を慕うのも、なんとなく分かる(ような気がしてくる)。

 生きることが一切の価値の基礎として疑われることがないのは、つまり「必要」ということが、原的な第一義として設定されて疑われることがないのは、一般に生きるということが、どんな生でも、最も単純な歓びの源泉であるからである。語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいるということ、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受しているからである。このような直接的な歓喜がないなら、生きることが死ぬことよりもよいという根拠はなくなる。
どんな不幸な人間も、どんな幸福を味わいつくした人間も、なお一般には生きることへの欲望を失うことがないのは、生きていることの基底倍音のごと歓びの生地を失っていないからである。あるいはその期待を失っていないからである。(141)

こういうことをサラッと、理論文の中で言ってのける。
そこに私は「グッ」ときてしまう。

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十勝コーヒー部、好評開催!

今年3月から開催してきた「十勝コーヒー部」。

第1回はコーヒーの淹れ方の定番中の定番、「ドリップ」について学習しました。

第2回はフレンチプレスなどの様々な機器について。

そして今日5/22(金)、3回シリーズの集大成として「豆」をテーマに開催しました。




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十勝コーヒー部vol.3「ものすご~く深い、豆の話」

講師は、帯広畜産大学大学院で研究をする、鈴木孝直さん。
趣味が高じて、コーヒーをもとに農業経済学を研究している大学院生です。

帯広畜産大学内にある喫茶店でも働く鈴木さんのウンチクとテクニックを堪能するイベント、となっています。

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今回はまず「ふつうの」コーヒー(市販品。粉が引いてあるもの)を飲んでみます。

写真 1その後、「スペシャリティコーヒー」を飲んでみます・・・。

「あ、味がぜんぜん違う!」
「こちらのほうが、フルーティーな感じ!」

・・・ものすごく質の高いコーヒーであるスペシャリティコーヒーを体験し、率直な感想が聞かれました。

写真 3

「コーヒーを美味しく淹れるのには、【おもてなしの心】が必要です」との締めくくりの言葉。

ドリップコーヒーも、人数分いっぺんに用意するのでなく、一人分ひとりぶん淹れていくほうが、味はよくなります。

一気にお湯を注ぐのでなく、少ししずつ円を描きながら淹れるほうが、よりよい味が出ます。

茶道とおなじく、「コーヒー道」とでも言えるようなものも、教わる機会となりました!




本当はこの3回でシリーズ完結の予定だったのですが、
好評のため継続が決定!

次回は7/3(金)19:15-20:45、とかちプラザの403号室にて開催します!

FBイベントのページはこちら

次回のご参加もお待ちしています!

☆十勝コーヒー部とは?・・・地域活性化の新たなカタチ、「十勝◯◯部」。部活動のように、好きなこと・楽しいことで人が集まり、地域を元気にしていく取り組み。そのコーヒー版です。

問題解決型学習(PBL)とは、何か?

問題解決型学習、通称PBL
オリジナルはProject Based Learning。

教育業界の悪い癖で、教育関係者は何事も「大げさ」に言ってしまう。

プロジェクト学習や問題解決型学習というと、
なんだか「すごそう」な問題を解くイメージがある。




例)「環境問題の解決!」

例2)「貧困の撲滅!〜いま私たちにできること」 などなど。

 
・・・しかし、デューイが言ったような意味の問題解決型学習はもっと単純。
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例)「今日の晩ごはんは、カレーか肉じゃがか、どっちにしよう?」

例2)「お腹痛い・・・。きょう学校行こうか、行かないか、どうしよう?」

 

・・・どちらの例も、ある意味「しょうもない」。
しかし、まぎれもなく、「どちらにするか」という問題を解いている

その意味でまぎれもない「問題解決型学習」なのだ。

 

・・・こんな話を、大学院で教授から教えてもらった。
それ以来、おおげさでなく、日常の延長でできる問題解決型学習について、思いを馳せるようになった。

 1976年に設立されたマーストリヒト大学は、設立当初から、独自に「問題解決型学習方式(PBL方式)」を取り入れてきた大学です。このPBL方式は、採用後30年を経た現在、国内外の大学からも注目されています。(…)
PBL方式は、学生の〈自立性〉〈起業精神〉〈問題解決への指向性〉を養うことを目的とするものだと大学は説明しています。
大学生たちは、入学後すぐに10人未満の小グループで共同学習を始めます。それぞれの科目では指導段階ごとに、学生たちが〈問題解決〉研究に取り組むためのきっかけとなる事例がいくつも用意されています。この事例というのは、私生活の中で、あるいは、学生たちが将来就く仕事の現場で生じると考えられる様々な問題の場面や状況を設定、表記したものです。この事例の中に示された問題を解決するために、学習中の科目の知識を駆使して、小グループのディスカッションのなかでブレーンストーミング(創造的集団思考法)をし、問題となる店を絞り、それを元にして自主研究をしていきます。
小グループのディスカッションには、それぞれチューターと呼ばれる指導者がついており、学生たちのグループ討議のプロセスを監視し、討議の進む方向やレベルによっては、必要に応じてコメントを加えます。(リヒテルズ直子, 2006, 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか』平凡社.52頁)

 

ポイントは「学習中の科目の知識を駆使して」という部分。
こういうと、さも「いま学んでいることを、問題解決に役立てているなんてスゴイ!」と思ってしまう。





でも、考えてみたら、それはある意味「あたりまえ」の話。

 

新聞を読んでいて、よく知らないニュースが出てきた場合、私達はどうするか?

普通は「きっとこんなことだろう」と推測をする。

・・・これはこれまでに学んできたこと・学んでいる途中のことをもとに推測をすることにほかならないのではないか?

 

つまり、「学習中の科目の知識を駆使して」とは、社会経験の中で得られた知識・経験を総動員して、「よくわからないニュースを解釈する」行為それ自体を指すのではないか?

 

こう考えた場合、「問題解決型学習(PBL)」というのは、「なんかスゴそう」な教育とは言えなくなる。

 

むしろ生きること自体が問題解決学習なのだ。

 

ふつうに生き、ふつうにものごとを考えていたら、それがそのまま問題解決型学習になるに決まっている。

そうならないからこそ、「ふつうの」学校教育は終わっているわけである。

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こちらもどうぞ!

  1. 佐々木常夫, 2010, 『働く君に贈る25の言葉』WAVE出版.①(3)
  2. 『ヒーローを待っていても世界は変わらない』? (3)
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ジョン・テイラー・ガット, 2006, 『バカをつくる学校』成甲書房①

もともと、私は「脱学校論」をずーっと研究していた。
そのため、「学校批判」「教育批判」系の本は昔から大好きだった。

本書『バカをつくる学校』も、そんな理由で読んでいて楽しくなる本の一つ。

 私の考えを理論的、あるいは比喩的に表現すれば、教育は「油絵」よりも「彫刻」に似ている。つまり、油絵では、キャンパスに絵の具という素材を「加える」ことでイメージが生まれるが、彫刻では、素材を「削る」ことによって、石の中に閉じ込められたイメージが浮かび上がる。ここに決定的な違いがある。
私は自分の専門知識を子どもに押しつけるのをやめた。その代わりに、彼らの本来の才能を邪魔しているものを取り除こうとした。私にとって、教師の仕事は、もはや教室で生徒に知識を授けることではなくなった。学校は今もその無益な教育方針を続けているが、私はこうした教育の伝統をできるだけ打ち破り、生徒ひとりひとりの可能性を引き出そうとした。(15)

私たちが「教育」と呼んでいるものは、じつは世界最大のビジネスの一つであり、そこには伝統的な地域社会の価値観とは相容れない、制度の価値観がある。この百五十年間、学校の主な目的は、子どもたちに経済的成功のための準備をさせることだった。(129)

学校は巨大なメカニズムとして、人びとを全面的な管理に従わせ、死ぬまで幼稚でいさせようとする。彼らが必要とするのは未熟な人間だ。なぜなら、成熟した人間や成熟しようとする人間は、そうした管理を拒むからである。「品質」であれ何であれ、全面的な管理の下では、人は成長できない。しかし、大量生産経済を維持するためなら、どんなことも許されるのだ。(174)

この手の本は、「制度」の裏側を暴露している意味で面白い。
しかし、ある意味「禁じ手」でもあり、欺瞞的でもある。

「制度」の裏側を示している自分は、「制度」側の人間ではないよ。
自分は「制度」に絡め取られず、自分の意志を貫いているヒーローだよ。

なぜかしら、そのような色がついてしまうのが気になるところである。

 

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Gatto, John Taylor, 2005, “Dumbing Us Down–The Hidden Curriculum of Compulsory Schooling”, New Society Publishrers.