一昨日、はるばる北日本まで行き、公立・H小学校の教育研究会に参加した。これは公開授業を全校的に行う実践である。もう20年も前からこのような実践が行われてきたという。
よくよく考えると、公開授業とは奇妙な現象である。生きた人間たちを、彼らより年長の人間たちが「観察」の対象にする。要は小学生版「動物園」なのだ。よく思想家は「動物園」を近代の特徴のように語る。それは観察される客体と観察する主体とを明確に二分割するからだ。中世的な「見世物小屋」と違い、「真面目」な「研究」の対象と取り扱われる。
ミシェル・フーコーは〈見る―見られる〉関係性のうちに権力作用を見出した。とすれば、この授業研究会というのは大人の側が小学生たちを「監視」する権力作用以外の何物でもない。小4のクラスを「見学」する中でそれに思い至り、思わず気持ちが悪くなったのを覚えている。
この小学校の児童たちは、興味深いことにこれだけ多くの大人たち(下手をすると、クラス内の児童と同じくらいの人数。しかも大半は「先生たち」である)に「見られて」いながら、普段通りの姿を見せてくれる。ある子は机に突っ伏し、私語し、鼻に人差し指を突っ込む(そこまで「観察」してしまう私は、すっかりゾウの檻の前に立って見ている動物園の客である)。巧妙に訓練を受け、餌付けされた「動物」たちの姿を思い出す。とすれば教員は調教師なのか。フーコーが「よきディシプリン(しつけ)はよき調教である」と述べた通りだ。
授業が終わった後の分科会という「反省会」も非常に「面白い」。先ほどの授業中の「~~君」「~~さん」の言動が問題にされ、それに対する教員の今後の「教育」方針が語られる。この場において、生きた人間の処遇が語られる。語られた生徒は、そんな話し合いの存在を知る由もない。おまけにコメントするのはもう二度とこの小学校に来ない人々なのである。そんな人間たちによって、小学生たちは勝手に今後の生き方を決めつけられてしまうのだ。これを権力作用と呼ばずに何と呼ぶべきなのか。
追記
●教員の語りに耳を傾けなければ、評価されることのない小学校の退屈さ。それこそ鼻でもほじるしかやることはない。対話は成立せず(1対30の営みは「対話」ではない)、教員の語りは児童の耳から抜けていく。
●私は研究授業や公開授業では、児童・生徒を観察する人を「観察」するのが趣味である。観察する側は、意外に無防備なので「素」が出るのだ。これはツタヤにおいてDVDを探す人を見る「楽しさ」と同じである。いかがわしいDVDを真剣に見つめる人を見るのはなかなかに愉快だ。
●教員たちの軽々しい「皆が仲良く過ごしました」という言説に気持ちの悪さを感じる。この一言には恐るべき「圧力」がかかっているのではないか。「仲間」という言葉や「学びの共同体」という言葉。これらの言葉のネガティブな部分に、本当に目がいっているのか? 「仲間」を構成するのはピア・プレッシャーでもある。つまり同調圧力。少しでも異なる「他者」を排斥する働きが裏にはある。その恐ろしさを知らずに軽々しく「皆」とか「仲間」とかいう言葉を使うべきではない。そう思う。
●教室の後ろの置かれた飼育小屋。いくつも並んだその姿が、私には複数の「棺桶」に見えた。飼育される動物たちは、はじめは可愛がってもみくちゃにされ、飽きられれば餌もやり忘れられるようになり、やがては知らないうちに「死んで」しまう。教員は死ぬことを予期した上でその死体を「デス・エデュケーション」の「教材」にする。そう、はじめから飼育動物たちは「死ぬ」ことを想定されているのである。ペットであればそうではない。
恐るべきは学校である。どんな存在も「教材」にされてしまう。動物も、その辺にいる地域住民も、駅のホームレスも、すべてが「教材化」。この権力性についても、考察をしていきたい。