非日常性による教育論。

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もしノマド・エジュケーションを一言で表すとするならば、

 

教育の中に「非日常」を入れること

 

と表現できる。

 

教育が「日常」になると、すべてはつまらなくなる。

毎日行く学校、代わり映えのしないクラスメイト、

イラつく教員。

 

学校が「重荷」になるほぼ全ては、

教育的関係が「日常」となることにある。

 

しかし、よく考えれば、

誰かが教員となり、

誰かが生徒となり、

誰かとクラスメイトとして巡りあう事自体、

「奇跡的」なことである。

 

人と人との出会いは奇跡なのだ。

偶然性以外の何ものでもない。

 

これは「よい」人間関係のみならず、

「つらい」人間関係でも、

「しんどい」人間関係でも当てはまる。

 

誰かと「教員」「生徒」として巡りあうのは、

偶然性なのだ。

 

だからこそ、この偶然性を

「幸運」として感じられるようにしたい。

 

日常化しない教育は、

つねに「奇跡」「偶然」の色合いを帯びる。

 

偶然の出会いが一生を変えることがある。

 

例えば私も、たまたま見学に行ったフリースクールや、

見学に行ったベンチャー企業でスタッフやインターンとして

働く経験があった。

 

それがあるからこそ、いま通信制高校で教員をやっている。

 

このきっかけとなった「出会い」へ、

感謝を常に思っていたい。

 

教育的関係は自明ではない。

意図せざる結果もたらされる、

偶然の産物なのである。

 

だからこそ私は、

教育的関係を「日常」に堕せず、

常に「非日常」の中で築いていきたいと考えている。

 

学ぶのは一人でもできる。

一人のほうが学びやすい。

しかし、人生を変える「出会い」は

一人では起きることは絶対にない。

 

私は「一人」での学びを重視する。

だからこそ、人生を変える「出会い」を

積極的に作って行く。

これこそ私の使命であり、

ノマド・エジュケーションの狙いでもあるのだ。

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