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罰ゲームとしての通信制・定時制

学校関係者の語りを聞くと、次のようなものがある。

 

「通信制・定時制で3年頑張ったら、進学校にいける」

「通信・定時だけど、次は進学校だからまあいいか」

 

通信制・定時制高校は、一般の公立教員の間では「罰ゲーム」である。

「楽」で「楽しい」進学校にいくための「罰ゲーム」となっている。

 

私の本職は「通信制高校 常勤教員」である以上、この発言を聞くと「憤り」を感じる。

 

発想が「罰ゲーム」と同じだからだ。

 

罰ゲームには通常、生産的意味がほとんどない。

「不運」として受け止められる。

 

うちの学校のような私立通信制には「公立の職がないから、仕方なく私立・通信」という教員もホイホイやってくる。

 

この人達も「罰ゲーム」意識である。

 

そうじゃないんだ!

私は声を大にして言いたい。

 

通信制・定時制には、そこにしかない「良さ」がある!

 

カリキュラムが柔軟だからこそ、一人ひとりにあった学習ができる。

個別で支援ができる。

「学校」だけでなく、フリースクール・医療機関・福祉の相談所と連携ができる。

 

こんなこと、「全日制」はほとんどやっていない(これも偏見だけど)。

 

通信は「罰ゲーム」ではない。

 

教員が「罰ゲーム」意識で通信制・定時制で働いているとしたら、それこそ私は批判をしたい。

 

 

ちなみに。

「罰ゲーム」意識は生徒も結構持っている。

 

「本当は全日制に行きたかった」

「こんなところしか来れなかった」

「前の学校が良かったけど、ここしか通えない」

 

この生徒の「罰ゲーム」意識とも、私は戦っているわけである。

 

通信制だからこそ、できることがある。

通信制だからこそ、やり甲斐もある。

通信制には教育の柔軟性・自由さがあるからこそ、その人に合わせた学習ができる。

 

私の仕事は、この「罰ゲーム」意識を、「この学校でよかった!」意識に変えることでもある。

「何をやっていいかわからない」時間対策のために。

授業やイベントの際、生徒や聴衆がダレることってよくあります。

私語・ケータイを急に行い始める時間です。

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これ、別に生徒や聴衆が悪いわけではないのです。

 

前にある先生から、「何をやっている時間かわからない時間を作ってはならない」という指摘を受けました。

 

授業の終わり、生徒が騒いでいる時に、その先生はこう言いました。

「これ、何の時間?」

 

この発言ですが、すごくもっともな質問です。

 

私が「何をやっていいかわからない」時間を生徒に与えてしまっていた。
それが騒いでいる原因なんですよ。

 

その先生は教えてくれたわけです。

 

授業でもなんでも、「何をやっていいかわからない」時間があると、人はダレます。

 

レジを待つ時間、信号待ちの時間、
やることが見つからないためイライラします。

 

授業でも指示と指示の「合間」の空白の時間があると、
「ノートを取ればいいのか」「教科書を読むのか」わからず、
結果私語や立ち歩きをしちゃういます。

 

だからやるべきことは「何をやっていいかわからない」時間を出来るだけなくすこと。

 

要は「スキマ時間」を減らす、ということ。

授業もイベントも、「何をやっていいかわからない」時間があると間違い無くダレます。

 

「何をやっていいかわからない」からこそ、その不安を解消するため人は「私語」「ケータイ」をします。

人によっては「内職」をします。

 

「自然は真空を嫌う」とかつて言われました。

ある箱から空気を抜いて真空にしようとすると、必ずどこかから空気が入り、真空を作れない、という仮説です。

科学はあっさりこの仮説を乗り越えてしまいましたが、社会生活においてこの仮説はまだまだ当てはまります。

 

授業やイベントなどで「何をやっていいかわからない」時間、「何もない」時間に対し、人間は不安になります。

だからこそ、不安解消の道具として「私語」「ケータイ」を行うわけです。

 

結局は授業者や企画者の力量不足。

 

授業の流れを考えるときも、「何をやっていいかわからない」時間をなくすことって、大事ですね。

「はやく問題が出来た人は、感想をノートの下に書きましょう」

「問題集の次のページをやりましょう」

「アンケートの裏に、〈今日からできること〉を書いてください」

 

プロの教員やイベンターは、こんな指示・発問を自在に出来る人のことでもあります。

相手に伝わる話し方、3つのコツ。

人前で話をする時、言う内容が伝わっているか、不安を感じるものです。

 

私も学校で授業をやる関係上、よく感じます。

 

この1年間の経験を元に、確実に伝わる話し方のコツを書いてみました。

 

学校の教員にとっては半ば「常識」ですが、人前で話す人でできていない人が案外います。

 

1,情報を整理する。

 

何をして欲しいのか。

何を伝えたいのか。

 

不明確では相手が困ります。

 

出来る限り、情報を整理します。

情報の整理には「具体性」が必要です。

 

何をすべきか明確であると人は安心して理解出来ます。

講演の際、話を聞いてくれない時も、情報が整理されていないことが多いのです。

 

なお、教員の研究会では「AしたいならBさせる」というコツが伝えられています。

 

生徒や受講者に計算問題を解いて欲しいのなら(Aしたいなら)、

まず言うべきは「問題集を出します」です。

その後、「〜〜ページを開きます」と言います。

もっと徹底する人は「問題3を指さします」を言った後、

「それでは問題3をやりましょう」と言います。

 

「AしたいならBさせる」というコツも、情報を整理するということです。

 

2,聞く体制を作る

 

相手が「聞こう」としない状態で話してもうまく伝わりません。

 

よく学校で教員が声を荒げますが、それをやっても喉をを痛めるだけです。

 

それよりも「聞く体制を作る」工夫をしましょう。

 

たとえば、「こちらを向いてください」「机の上にペンを置き、ホワイトボードを見ます」など、

具体的な指示を出します。

 

学校では「気をつけ、礼」をやります。

これ、単なる儀礼ではありません。

 

「休み時間が終わった、いまから授業だ」という意識に変える働きがあります。

「聞く体制」になるわけです。

 

基本はまず注目を集めます。

「はい、みなさん」と呼びかけたり、

手を叩いたり。

 

その後、「話を聞きましょう」とメッセージを伝えます。

 

3.目を見て話す

 

人は「私に話しかけられている」場合、きちんと聞く気になります。

「全体に話そう」としても、聞いてくれません。

 

だからこそ、「この人に伝えよう」という思いを持って、目を見て話していきます。

 

話すのが上手い人は会場内にまんべんなく目線を運んでいます。

一人でも多くの人の目を見るためです。

 

下手な人は紙に向かってばかり話します。

あるいは開場の「上空」に向かって話します。

 

結果、誰にも伝わりません。

 

 

…いかがでしたでしょうか?

ぜひ人前で話す際、意識してみましょう。

 

簡単なようですが、きちんと行うのは難しいです。

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【日曜バー】せんきょCampさっぽろ、開催しました!

いま話題の「せんきょCamp」。

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本日Coworking Cafe 36にて、北海道初となるせんきょCampを開催しました!

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今回のテーマは「政治に必要なもの」。

「日本の政治にいるのは「政治そのもの」が必要だ」
「政治家のQualify、つまり品質保証が必要ですね」など、聞いてためになる発想が次々の述べられました。

なかなかちゃんと話す機会のない「政治」や「政治システム」について、参加者のみなさんと意見を交換する場となりました。

ワールドカフェ形式で、政治・選挙の課題をまとめていきます。

ざっくりと「政治」のあり方を考える場となりました。

「こういう議論を持てる場があるって、いいですね!」
「メンバーが言いたいことを言えてよかったです」などの声が聞かれ、少人数ながらも充実した場となりました。

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第2回を、参議院選挙前の5/19(日)、19:00-21:00、開催することも決定!

第2回は今回の意見を元に、「参議院選挙どうする?」を具体的に考えていきます。

ご参加の皆さん、ありがとうございます!

「あえて」金子みすゞ批判。


学校教育現場でも、

自己啓発の分野でも、

金子みすゞはおおく取り上げられる。

「私と小鳥と鈴と」は、定番中の定番。

「みんなちがって、みんないい」

これが定番なのであるが、私はどうしてもこの詩が好きになれない。

むしろ、嫌っている。

そもそも前提がおかしい。

この詩では「私」と「小鳥」と「鈴」の同格性がまとめられる。

しかし、こんな論理性の飛躍を許していいのであろうか。

金子みすゞのこの詩を引く時、引用者は「他者を認め合う」ことを訴える。

「それぞれの個性を認めよう」と述べる。

この金子みすゞの詩は「他者」ですらない「小鳥」と、無生物の「鈴」を「私」と同一視する。

このことを「他者」の比喩として使うのはいかがなものか。

詩心(ポエジー)であるからそれでいい。

そんな視点もあるであろう。

けれど、明らかに異質な「私」「小鳥」「鈴」を一緒くたにする「暴力性」を私は感じてしまう。

「私」と「あなた」と「あの人」のような三者を述べる場合、この詩の問題性はなくなるであろう、とかんがえられる。

第3回 子ども×教育タベリバ、開催しました!

1/27(日)、「第3回 子ども×教育タベリバ」、開催しました!

会場はLink Next

若者協力事業所Link Nextと日本ノマド・エジュケーション協会の共催イベントです。

本日のテーマは子どもとと関わり方。

写真

2グループに分かれてのディスカッションの時間となりました!

今回は個別学習塾はるの河西さんも講師として参加。

写真 のコピー

アンケートには「少人数で丁寧に話しあえてよかったです」

「教員・NPOの方など、様々な方の視点から意見を聞けて視野が広がりました。
また参加させていただきたいです」

今回、10名を超える参加がありました!

お越しくださった皆さま、ありがとうございました!

次回は3/23(土)13:00-15:00、
今回と同じくLink Nextでおこないます!

アクセス
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「勉強になった」禁止令!

シンプルライフへの「福音」としての「あること」

書評:エーリッヒ・フロム『生きるということ』紀伊國屋書店 1977。

(原題:”To have or to be”)

丸山眞男は有名な論文「『である』ことと『する』こと」で、「である」価値と「する」価値とを立て分ける。

(岩波新書『日本の思想』所蔵)


誰かに貸した金を返す権利のある人物「である」状態であっても、請求「する」ことがなければ権利が失われる。

そういう、何もしない「である」の状態から「する」ことへ発想を切り替えていくことを訴えている。

エーリッヒ・フロムの『生きるということ』は丸山眞男の立て分けに近い。

エーリッヒ・フロムは「持つこと」と「あること」に立て分ける。

「持つこと(=to have)」は丸山眞男のいう「である」に近い。

何かを所有し、それで満足する状態。

エーリッヒ・フロムはこの状態が産業社会において発展したことをいう。

「あること(=to be)」は丸山眞男のいう「する」である。

所有ではなく、誰かと楽しんだり、自己の経験を重視する。

かつての人間社会は「あること」にあふれていたが、現在では「あること」は少なくなっている。

「私は〜〜を持っている」(持つこと)のではなく、「私は〜〜である」(あること)の方がより本質的である。

しかし、われわれは「私は教員免許を持っている」「医師免許を持っている」と「持つこと」の価値のみを見てしまう。

ブラック・ジャックは漫画の話だが、無免許の天才外科医よりもやる気のない勤務医のほうを重視してしまうのである。

「学校」で言えば、教え方の天才的にうまい塾講師(教員免許を持たない)よりも、やる気も授業力もない学校教員のやる授業の方が「単位修得」に関しては「価値」が高くなる。

われわれの生活は「持つこと」の価値を重視している。

さて、現在「シンプルライフ」という発想が広まっている。

これは「ノマド」に近く、何かを多く所有するのではなく、上質のものだけ・必要な物だけを所有し、自分の精神的を豊かさを重視するという生き方である(禅の生き方に近いものであるそうだが、そこまではあまり良くわからない)。

この「シンプルライフ」は、エーリッヒ・フロムのいうところの「あること」である。

ある様式(藤本注 あること)においては、私的に持つこと(私有財産)にはほとんど情緒的な重要性はない。なぜなら私には何かを楽しむために、あるいは使うためにも、それを所有する必要なないからである。ある様式においては、何人もの人が−−いや何百人という人々が−−同じ物の楽しみを分かち合うことができる。(159)

この発想は「シェア」の発想でもある。

さて、この「ある」ためには何が必要であろうか。

本書にはこのようにある。

シャバットには、人はあたかも何も持ってはいないかのように生活し、あること、すなわち自分の本質的な力を表現することのみを目標として追求する。すなわち祈ること、勉強すること、食べること、歌うこと、愛の行為を行うこと。(80)

何よりもまず、私たちは自分の物や自分の行為から自由にならなければならない。これは何も所有してはならず、何もしてはならないということを意味してはいない。それの意味するところは、自分が所有するもの、自分が持つものに、また神にさえも、縛られ、自由を奪われ、つなぎとめられてはならない、ということである。(96)

持つことは、何か使えば減るものに基いているが、あることは実践によって成長する。(154)

このヒントを実際に「する」ことで実践に生かしていくこと。

それが「ある」ためのヒントであろう。