元号。

明治の次は大正。ではその次は?

いまの毎日新聞の源流・東京日日新聞はスクープとして「光文」と「号外」を出した。

・・・世紀の大誤報「元号光文事件」である。

毎日新聞が部数を読売・朝日に大きく負けはじめたきっかけとも言われているこの事件。

その裏側が詳しく書かれている本。

私が生まれた1988(昭和63)年あたりは「自粛ムード」ただよっていた時代。

1983年に発行し、新潮文庫から1987年に出た本書は、そのころの「目の前にある危機」としての時代の不安を映し出すリアリティを持っていたのだろう。

本書では大正天皇の崩御の際の話が出てくるが、昭和天皇崩御の際にも活躍したのが八瀬童子(やせのどうじ)と言われる一団である。

天皇の棺をかつぐ伝統をもつ京都の一集落。(結果的に「国家」をかつぐことにもなった)

「近代国家」になってもこのような集団が存在しているのが、日本の「面白さ」でもある。

300px-Yase_Doji_in_training_for_the_transport_of_Sokaren_01https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%80%AC%E7%AB%A5%E5%AD%90

さて、この本は日本の「不思議さ」を天皇を切り口に明らかにする。

学生時代は西暦ばかり使っていたが、社会人になってあらゆる書類に「平成」を使うようになった私。

21世紀になっても独自の元号を使っている単独国なんて、もうほとんどない。

その「非合理さ」は、実は国家の重大な役割のためのものでもある。

「時代のある節目は、予定調和としてではなく、天皇崩御という個人の肉体の消滅とその消滅を弔う祭儀として突然訪れて、洪水のように過去を洗い流しながら、よりいっそう過去を心に刻ませる。国家的祭儀という同一平面で人びとは悲しみはなくても悲嘆を装い、喜ばしいことはなくても狂喜し、地殻変動のようにためられたエネルギーを放出する。国家の、生きもののような不可解な生理のひとつが、わが国の場合「天皇崩御」に集中的に現れてい|た。」(216-217)

☆ページ数は新潮文庫版のページ数です。

天皇という一個人の崩御が、一つの時代を急速に終わらせる。

明治も大正も昭和も、崩御という事実により人びとの認識を一変させてきた。

ものごとには、始まりと終わりがある。

宮台真司のいう「終わりなき日常を生きろ」との言葉。

「まったり」今を楽しむ姿勢が、ほぼ永遠に続くかと思ったときに3.11が起こり、秋葉原事件が起きた。

それにより、「終わりなき日常」に句読点が打たれていったように思う。

卑近な例では、天皇崩御により、これまで使っていたカレンダーや公的文書の元号欄、各種フォーマットをすべてリセットさせることになる。

それを通じて、人びとに一つの時代が確実に終わり、新たな時代の訪れを実感させることになる。

ここで思い出すのは、1990年代初頭のテレビにはやたら「平成」がついたということ。

「平成・天才バカボン」(1990年1月スタート。昭和期の「天才バカボン」のリメイク版)、「平成名物テレビ・いかすバンド天国」(1989年2月スタート。いわゆる「イカ天」)、「平成教育委員会」(1991年10月。今はなき逸見政孝がいい味出してました)エトセトラえとせとら。

これも、「来るべき新しき時代」を示す働きがあったのだろう。

「国家は祭儀を通して蘇り、そして消尽しつくす。現代文明の技術的理性が緻密な計算と計量によって構築する世界を、祭儀という生産的な蕩尽によって打ち壊すところに国家の存在意義があるかのようだ。この被虐的な快楽を味わう点に、人間がいまだに国家という枠にしがみつく最大の理由があるのではないか、とさえ感じられるのである」(218)

☆注:これは青木保の1982(昭和57)年7月15日付「朝日新聞」夕刊からの孫引き。

「自粛ムード」も含めて、国家の役割は祭儀にある。

卑弥呼の時代から政治は「まつりごと」であったことを思い出したい。

国家の非合理さには、実は「生産的な蕩尽」という側面があるのだろう。

そう、国家は絶えず祭儀を提供する装置でもある。

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追記

本書後半にも出てくるが、天皇崩御の際などの「恩赦」。
これまで計7回実施されている。
(昭和天皇崩御の際には行われておらず、戦後の「国連加盟」以降の実施はない)。

刑を言い渡すのが国家(=天皇)であり、
刑を許すのもまた国家である。
(象徴的には、誰を生かし、誰を死なせるかも決定できることになる)
フーコー的な権力理論を、文字通り本書では示しているのである。