最近、知人と読書会を始めました。
1回めは岡倉天心『茶の本』を読むという正統派・読書会です。
読書会を久しくやっていなかったワタシにとって、「再開」した読書会は、とってもテンションが上がるできごとです。
大学院生の時は、それこそ毎週のように何らかの読書会をしていました。
ルソーの『人間不平等起源論』も、
ブルデューの『再生産』も、
イリイチの『脱学校の社会』も、
自分の思想的背景はたいてい読書会のディスカッションで出来上がっています(たぶん)。
読書会には、当然ながら「テキスト」が必要です。
「テキスト」があるからこそ、話が脱線しても戻ってこれます。
…ところが、巷のディスカッションや議論は「テキスト」がないため「戻ってこれない!」ことが多いのです。
教員の仕事をするようになって、
困ったときにいつでも助けてくれる「テキスト」のありがたさに、「逆説的に」気づきました。
なぜ「逆説的」かというと、ワタシの勤務校ではほとんど「テキスト」を使わないからです。
「テキスト」のかわりに「レポート」という名のプリントを毎回まいかい用意しています。
「レポート」を用意しないと、「ノートが取れない!」生徒がいるからです。
(というより、そもそもノートを用意する必要はない、と学校では説明しています)
「これ、分かりません!」の質問に対し、
「教科書を見なさい」と言えることは、いかにラクか。
「お前の説明、分からない!」とのツッコミに、
「いやいや、教科書を見ればいいだろ」と返せるアリガタさ。
…「テキスト」という名の教科書に頼れないことで、
いかにワタシは苦労していることか。
でも、これは世の教員への警鐘(炭鉱のカナリア)でもあるのです。
「テキスト」という「絶対的に正しい!」(とされている)ものを
「あえて使わない」選択肢。
間違いなく、教員のスキル向上につながります。
「教科書を見ろ」は、教員が使えるおそらく最強の「ワザ」でしょう。
ワタシの職場は、教員のもつ最強「ワザ」を自ら封印しているのです。
教員的には大変でしょうが、ワタシは「説明力をあげよう」と(ケナゲにも)思うようになりました。
「テキスト」を使うと、授業は締ります。
余計な説明も不要となります。
でも、それが本当に「授業」なのか。
いまの職場に来てから思うようになっています。
世の中には思っている以上に「本を読めない」「文章を読めない」人はいるものです。
これ、大学院を出て、社会人になって初めて気づきました。
教科書の文字をたどれない人は、いっぱいいます。
そういう人を相手に「教科書を見なさい」というのは、
はっきり言うと「暴力」でもあります。
いまのワタシの授業の進め方。
レポートを配って、それに従って授業をして、
「気が向けば教科書も見てみてね」というストーリー。
これが「いい」のか「悪い」のか、
判断は皆さんにお任せします。
でも、「テキスト」の扱いについては教員として一度は真剣に考えてみる必要がありそうです(たぶん)。