ちくまプリマー新書は、「中高生向け」でもある新書。
やさしい言葉で、学問の本質を伝えるという、50年くらい前の「岩波新書」と同じような狙いの新書(岩波新書は決して「やさしい言葉」でないときもあったけれど)。
ただ、思うのは「中高生向け」を謳った本にも「中高生が投げ出しそうだなあ」という本が少なくないのはなぜだろう、という点である。
ではどんな時に「中高生が投げ出す」のだろう。
たまたま今読んでいた根井雅弘『経済学はこう考える』(ちくまプリマー新書)を元に見ていきたい。
(ちなみにこの本、まったくもって中高生向けには感じられません)
(1)抽象概念を抽象概念で説明する場合
本書で言えば、「流動性選好説」(ケインズ)の説明に当てはまる。
「流動性」とは、必要なときにいつでも他の財に代えられるという「交換の容易性」や、他の財と比較して元本の価値が安定しているという「安全性」の総称ですが(以下略)(68)
「流動性」も「財」も「元本」も、日常ではほぼ使わない言葉。
それでもって「流動性選好説」なる「抽象概念」を説明する場合、中高生のワーキングメモリ(および「普通」の大人のワーキングメモリ)に「?」マークが浮かぶ。
するともはや理解が進まなくなる。
(2)複数のカタカナ人名が出てくる場合
一般的な中高生は、アーティストでもタレントでもない外国人の名前に触れることは(ほぼ)ない。
そんなときにやれケインズだ、ハイエクだ、ケインズの弟子のロビンソンだ、などと聞き覚えのないカタカナ人名が出てくる時点で本を閉じたくなる。
そのため、せっかくいいことを言っていても「ケインズによると」がついた途端に読むが薄れてしまう。
ちなみにいわゆる「女子トーク」が面倒なのは、話す相手が知らない人物名が複数(一つなら耐えられる)出てくるためである。
(3)言っていることが日常会話レベルをはるかに凌駕している場合
これはあらゆる本の宿命。
日常会話や日常での認識をはるかに超えた内容を理解するのは、ちょっと体力がいる。
もともと日本語という言語は「一方的に長く話す」のに向いていない言語だった。
江戸時代、幕末の志士たちが「今後の日本をどうするか」考える時もそうだった。
彼らはどうやって議論したか?
なんと「筆談」(正確には手紙)なのである。
幕末の志士たちは同じ宿屋のとなりの部屋の人と議論するときも、日常会話ではできないのでいちいち手紙を書いていた、という。
(4)数式及びわかりにくいグラフの登場
これは中高生にかぎらず成立する。
(経済学の本は大体、(4)があるせいで極端に読みにくくなります)
いかがだったでしょうか。
本書は理数系の高校生でなければ、途中で投げ出すだろう本。
かくいう私もあんまり理解できないところもある本だったが、学ぶことの多い本だったことを補足しておく。
ケインズは、『自由放任の終焉』のなかで述べたように、資本主義にはいくつかの欠陥があるにもかかわらず、賢明に管理されるならば、他の経済システムよりもはるかに効率的であるという信念をもっていました。(63)
一言でいえば、ケインズにとって、経済学とは「目的」ではなく「手段」に過ぎなかったのです。(76)
☆根井雅弘, 2009, 『経済学はこう考える』ちくまプリマー新書.