最終電車の車内で化粧している人を見た。
どういう理由で真夜中に化粧をしているのか気になった。いまから逢引きにでもいくのだろうか?
ともあれ、男にはわからない世界が女性にはあるのだろう。ふと思った。
最終電車の車内で化粧している人を見た。
どういう理由で真夜中に化粧をしているのか気になった。いまから逢引きにでもいくのだろうか?
ともあれ、男にはわからない世界が女性にはあるのだろう。ふと思った。
イリッチの著作をもとに脱学校化を考えるのが私の卒論のテーマである。その中に、フリースクールの実践も「脱学校」の一つとして描きたい。
「脱学校」した学びの姿について、いろんな学者が意見を言っている。
⑴上野千鶴子:知育限定の小さな学校。社会での学びを中心とする。(『サヨナラ、学校化社会』)
⑵宮台真司ほか:教育チケットを用いた教育制度。子どもは塾で教育サービスを受けても学校でサービスを受けても、はたまたフリースクールに行っても「教育を受けた」ことになる。(『学校が自由になる日』から「学校リベラリスト宣言」)
これらを整理してみるのも大切だろう。
ちなみに、卒論を書く中で「宮台を読まないとな〜」と実感してきた。いま、いろいろ読んでいる。リストは下の通り。ずいぶん、食わず嫌いをしていたが、なかなかに面白い社会学者である。
●『終わりなき日常を生きろ』読了。これで宮台にハマった。
●『学校が自由になる日』読了。「学校リベラリスト宣言」が秀逸(宮台の文ではないけど。ちなみに内藤朝雄の文章)。佐藤学の「学びの共同体」をボロクソに言う。
●『野獣系でいこう!!』読了。宮台の私生活、こんなに公開してもいいのか?
●『幸福論』未読。
●『日本の難点』読書中。
●『サイファ 覚醒せよ!』読了。
●『14歳からの社会学』未読。
久しぶりにパソコンを使うと、キーボード入力のありがたさに気づく。なかなか、無精して授業案をパソコンで作る気にならなかったのだ。大体は、教科書や参考書を見ながら手書きするほうが手っ取り早い気がしていた。けれど、キーボードを叩くと「仕事しよう」という気持ちになってくるのである。不思議だけれど。
よく「変人だ」と言われる。実習先の中学生からも聞く。何故だろうか。
変人と言われていることを気にする所が変人なのか。このように「変人と言われていることを気にする所が変人なのか」と考える点が変人なのか。
内田樹のいわく〈自分が悪人であると認識している人間は、他人にデメリットを与えないように注意するので結果的に悪人ではなくなる〉。
〈変人であると認識している人間のほうが、他人にデメリットを与えないで済むのではないか〉と私は思う。
今日起きると、14時になっていた。寝たのは4時である。長く寝たものだ。昼過ぎに起きたとき、快晴であるととても損した気分になる。けれど、今日は雨。ザーザー降っていると、「まあいいか」と開き直ってしまう。うーん、ダメ大学生・石田一。何とか直したいものだ。
寝坊した日は、何か価値的なことをしたくなる。本を読了するとか、演劇を見るとか。大体はツタヤや映画館で映画を観る。今日は早稲田松竹にいった。映画は未来の自分への蓄積となる。一度見た映画は何となく覚えているからだ。将来、教育学についてものを書くときも「昔、こんな映画を見た。このシーンは教育学で言う……という現象を示しているように思える」と書くことができる。未来の自分への「遺産」となるからこそ、寝坊したときは将来の蓄積をしたくなるのだ。
さて、早稲田松竹18時上映開始の本作の原題は、邦題より少し長くなる。「My big fat Greek wedding」。「ギリシャの」という説明が追加される。何故邦題から「Greek」が消えたかは分からない。
本作はアメリカにおける、マイノリティーとしてのギリシャ人コミュニティーを描く。アメリカに移民していても、ギリシャ人の誇りは常に忘れない。通常の学校とは別にギリシャ語学校に通わせる両親の姿が描かれる。多文化社会を考える上で非常に興味深い映画だ。特に印象的なのは結婚式のシーン。ギリシャでは悪魔払いのおまじないとして、人にツバを吐きかける。結婚式場でも、入場してくる新婦に対しそれを行う親戚たち。新郎の両親は眉をしかめる。説明されると分かるだろうが、されない限り「一体なんなんだ!」と思ってしまう。異文化理解の難しさを感じた。
主人公はギリシャ料理店の「婚期を逃し」そうな娘。この枠組みは小津監督の『秋刀魚の味』にもあった(中華料理店の主人と彼の「行き遅れた」娘が描かれている)。眼鏡でダサい服を着る彼女が、大学講師に恋をする。「自分を変えたい」。その思いから大学に行き、コンピュータを学び始める。その技術を使って「オリンピア旅行代理店」(本当にギリシャ人コミュニティを象徴するような名前だ)という親戚の会社で働くこととなる。偶然、憧れの講師が店に来て、双方恋に落ちる。映画の後半は結婚準備に追われる新郎・新婦とその一族の姿が描かれている。結婚準備中、新婦一族のやかましいギリシャ文化と、新郎側の静かな生活との対比が描かれる。衝突が何度も起こり、その度結婚の可能性が低くなるように映る。果たして2人は無事結婚式を迎えられるのだろうか?
映画の本筋とはあまり関係ないが、教育学者を志す私としては本作に“教育による輝き”が描かれているように感じた。主人公は大学に行き、新たな自分を作っていった(「自分探し」という言葉が嫌いなのでこう書いた)。大学で学び始めることで、親の言いなりの〈か弱い娘〉から、自分の運命を自分で切り開く〈自立した女性〉に変わっていった。『人形の家』のノラと同じだ(ところで彼女は何故突然自立したんだっけ?)。“教育による輝き”に有効性があった、ということを久々に実感した。
女30、未婚で子無し。日本ではこの人々のことを「負け犬」と呼ぶことがある。たとえ「負け犬」ではあっても、大学で学ぶことで人生を変えることは可能であるのだ(それにしては〈大学でコンピュータを学ぶことで新たな仕事に就く〉というベタな展開である)。
適当に学びにいける場所としての大学。敷居が高くない大学。これからの余暇時代・高齢化社会ではこの映画のような「手軽に行ける大学」が重要になってくるように思われる。実際、主人公の弟も大学でアートを学び画家を目指すシーンがある。
学びとは新たな自分になること。生き方を変えること。教育に対して肯定的評価を下している映画であった。
最近、宮台真司の本にハマっている。彼の本のには「オウム」「サカキバラ」など、私が小学生であったときの各種「事件」がちりばめられている。
以前、私は「11年目のサカキバラ」という文章を書いた。約4000字。本ブログにも掲載している。「11年目…」は次の文章で終る。
知識人たちは、何かと子どもを悪者や「劣ったもの」と見る傾向があるのではないかと、感じる。少年Aひとりから、今の社会の子どもたちみなを推し量ることはできないはずである。けれど、どうも知識人という人々は直に子どもたちと会って、「酒鬼薔薇って、どう思う?」と聞きに行かないようである。
この拙文では、〈自称「知識人」は子どもと言う存在を勝手に決めつける。一部にしか当てはまらない内容を《全員に当てはまる》、と決めつける〉ことを主張したのであった。
宮台の本を読み、「11年目…」で批判したポイントが脳裏に浮かんできた。宮台は佐藤学が嫌いなようだが、その宮台も「11年目…」で私が批判した「子どもを決めつける」という愚を犯している(佐藤が「全員」を主張するのに対し、宮台は“今の子どもの三分の一はサカキバラに惹かれている”と語る。佐藤より頭がいいのである)。
しかし、宮台は私のこの論の建て方を批判している。
彼は「僕は常に『実存』の問題と『社会』の問題を分けろと言う」(宮台『野獣系でいこう!』朝日文庫、2001、398頁)と書いている。私が「11年目…」で語ったのは自分の「実存」に基づいての批判であった。「オレはサカキバラに共感したことはない。だから、“現在の子どもはサカキバラに惹かれている”という言説は誤りである」との私の主張も所詮「実存」を基にしている。「実存」によらない理論立てを、自分自身が学んでいくべきであるようだ。
映画『欲望』を観る。原題BLOW-UP。写真の引き延ばし、という意味だ。
唐突な終り方。推理サスペンスになるかと思いきや、唐突に終る。友人のNと共に観たのだが、「え?」と二人とも感じる終り方であった。
そのため、いま音声解説を観ながら映画の意図を考えている。
解説者が「主人公のこの行動の意味は不明」「このシーンを挿入した意図は不明」と多く言及する。これ、解説じゃないじゃないか! けれど、実際この映画は無駄だと思われるシーンが多い。通常、映画に出たシーンはラストシーンまでに何らかの意味合いが説明されると感じてしまう。けれど、この映画はそうではない。ある写真家の生活に密着した映画なのだ。最初から最後まで、主人公である写真家の出ないシーンはない。
そこからこんなことが言えるんじゃないか。「主人公の行動の意図は不明」。しかし、人の行動なんてそんなものだ。退屈な日常・ありふれた日々・無意味な行動が人生という作品を作っている。そしてそのシーンは相互に関わりが低いのだ。
解説者も「目的があるものは芸術ではない」と語る。人生の各シーンに目的はないことが多い。けれどまぎれもなくシーンの集まりが人生という芸術を形作っているのだ。
いま私は戸山公園を歩いている。
劇の練習をする一団。内容は英語劇。
何故かしら笑えてくる。日本人の身体活用のなかに、英語話者特有のジェスチャーが似合わないからだ。
いまはEnglishesの時代だ。おかしなジェスチャーなどせず、日本人流に淡々と英語の劇を行えばいいのに。
私はよく理系人間に間違えられる。私の専門は教育社会学。文系分野だ。何故誤解されるのか?
日本には圧倒的に自称「文系」人間が多い。私が接するのも文系の人ばかりだ。文系人たちは、<自分とは違う属性をもちそうなひと>(つまりエクセントリックな人)と出会うとき、次のように思う(たぶん)。
「あの人は、おそらく自分とは違うカテゴリーに分類されるのであろう」と。
私・石田の存在は風変わりであるが故に、理系であると邪推されるのだ。
人を理系や文系に分類しようとする際、おそらく「あいつは俺と違う点が多い。きっと俺とは違うカテゴリーに入るんだろう」という考えが働く。ここには無意識的に排除の論理が働いているのである(と思います)。
教育実現用に、カバンを買った。しまむらの千円バッグ。
6月3日から毎日使った。
今月の終わりにして、ショルダーベルトが切れた。わずか3週間。おそるべきことである。
パチンコで稼ぐ。パチンコをやる最大の目的意識はそこにある。
けれど、パチンコ店には「プロお断り」。つまりパチンコで稼ぐことを目的とすべきではない、と語っているのだ。驚くべき矛盾である。
ちょっとすると、パチンコはゲーム的要素で人を呼ぶものなのか? 稼ぐという思いよりも「楽しむためにするもの」なのか?
たしかに、こどもを車で灼熱死させる親が毎年報道される。それほど楽しいものなのか?
一度、フィールドワークにいこうと思う。