泣いてもいいよ 僕も泣くから 今日だけは許してよ 神様
荒野を渡る風 ひょうひょうと ひとり行くひとり行く 仮面ライダー 哀しみを乗り越えて ひとりひとりたたかう されどわが友 わが故郷 ひとりでもひとりでも護る護る俺は 仮面ライダー
あきれるほどに そうさそばにいてあげる 眠った横顔 ふるえるこの胸ライオンはーと
…「よりそう」「そばにいる」という、現在の心理学とおなじ方向性が歌詞の中にあることに気付く。
泣いてもいいよ 僕も泣くから 今日だけは許してよ 神様
荒野を渡る風 ひょうひょうと ひとり行くひとり行く 仮面ライダー 哀しみを乗り越えて ひとりひとりたたかう されどわが友 わが故郷 ひとりでもひとりでも護る護る俺は 仮面ライダー
あきれるほどに そうさそばにいてあげる 眠った横顔 ふるえるこの胸ライオンはーと
…「よりそう」「そばにいる」という、現在の心理学とおなじ方向性が歌詞の中にあることに気付く。
ライオンはーとに夜空ノムコウなどなど。
SMAPの歌はカラオケでかなり使える。
それはSMAPがいい歌を出しているからか、SMAPに歌を提供する人が凄いのか、SMAPの雇用主のジャーニーさんのコネがかなり広いのか、のどれかだろう。
太陽が凍り付いても 僕と君だけは消えないで
…カラオケの中では携帯によるメモは場を保たせることが出来るから有効である、と気付く。
最近、ようやく人を呼び捨てで呼べるようになった。
昔の、欽ちゃんエピソードを思い出す。
はじめ視聴者からの葉書を「さん」付けで呼んでいたそうだ。そのとき視聴者よりこんな手紙がくる。
「友達なんだから呼び捨てにしようよ。仲良くなれないじゃない」
以来、呼び捨てにするようになったそうだ。
仲良くなることの一つの現れに、名前の呼び捨てということがある。そのことに気付き、慣れない中、無理して直してよかったとおもう。
牧口教育学は、フリースクール的要素を多分に持つ。
昨夜、馬場のバー・アウトにいった。
写真はそこのオリジナルである、早稲田というカクテル。ウォッカベースで作ってある。味もそうだが、色に感動した。何故早稲田かは、いろから推測してもらいたい。
たまには高めだが落ち着いて飲めるところに行くのもいいものである。
大人になると、子ども時代の文化を忘れる。かくれんぼをしたこと、ゲームをしたこと。大人になると、大人文化のみの世界に生きることになる。たとえば飲酒、たとえば喫煙。大人と子どもとの間に、文化の格差がある。
大人か、子どもか、二者択一。そうではなく、両方の要素を楽しめるほうが人生、より豊かになるのではないか。楽しめるものの幅が広がるのではないか。
同様に、二者択一ではなく、両方を選ぶほうが、より豊かに生きることのできるケースが多い。たとえば方言と標準語である。標準語だけ、方言だけでは味わうことのできない微妙な違いや雰囲気を、両方知ることで実感することが可能になる。日本語と外国語もそうである。どちらか片方よりも、両方できるほうが幅広いものの見方をすることができる。大学の専門もしかり。専攻は1つより、2つのほうがいい。今の学術界は学際的学問が普及しつつある。1つの専門知のみでなく、2つの専門知。両者の組み合わせでしか、見ることのできない事実があるはずだ。
ひとつより、ふたつのほうがいい。しかし、両者のバランスを取ることは誠に難しい。時間と体力は無限でないからだ。受験生時代の「勉学と部活の両立」に似ている。どこかで折り合いをつける必要がある。下手をすると両方とも身に付かず、中途半端になってしまう。単にちゃんぽんになってしまう。両者あいまって、価値を止揚させていく。その絶妙な関係性を保つためには何が必要か。それには確固たる哲学が必要だ。場合によっては、哲学というよりも「何のためにそれをするのか」という目的意識でよいのかもしれない。「何のためにするのか」問いかける。そしてその結論をもとに、「絶対に両方やりきるのだ」と決意する。両立には何らかの精神性が必要なのだ。
1つの視点だけでなく、2つの視点のあるほうが豊かにものを見ることができる。また、人生を2倍楽しむことができる。右か左かだけでなく、右も左も。分かつよりも、選択するよりも、統合を目指す生き方のほうが、豊かに生きられるだろう。会社だけ、家庭だけでなく、会社も家庭も。授業だけ、サークルだけでなく、授業もサークルも。ついでにバイトも、ボランティアも。多くのことをやりきったほうが、見方も豊かになる。友人も多様になる。人生を何倍にも楽しむことができる。
ひとつより、ふたつ。二者択一より、統合。根底に精神性。これこそ、人生を充実させるヒントでないか。
大人数でのカラオケは、何が楽しいのかわからない。
自分はカラオケするなら少人数でいろいろ歌えるほうが好きなのであるが。私の様にカラオケの下手な人間にとって、大人数カラオケは場違いになる。
それでも多分、大人数カラオケに好き好んで参加してしまうのが哀しい性である。
本当のことをいえば、カラオケでオールをするのが何故定番となっているのか知りたい。ほんの40年前にはなかったのに。