2015年 3月 の投稿一覧

「あの人にできるんだから・・・」考。

この前、あるセミナーで「ノミの話」を聞いた。
ノミの体長は3ミリ。
でも、身長をはるかに超える2メートルくらいジャンプすることができる、という。
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単純計算すると、2000ミリ÷3ミリ=666.666・・・
つまり、自分の身長の667倍もの高さまでジャンプできる。

そんなノミを小さな箱に入れておくと、はじめは壁にぶつかるまでジャンプするが(自分の身長の667倍まで飛ぶのだから、朝飯前)、だんだん壁にぶつからない程度まで手加減して跳ぶようになる、という。
そんなノミは、箱のフタをとっても、「壁にぶつからない」レベルまでしかジャンプしなくなる。
では、そんなノミを再び667倍まで跳べるようにするにはどうするか?
セミナーのテーマはそこにあった。
どうすればいいだろうか?
それは、【ふつうのノミを箱に入れ、そのノミが普通にジャンプするのをみること】である。
「もうこれ以上跳べない」というのを否定してくれるのが、新たに入ってきたノミである。
教育もまた、同じ。
「跳べない」と思っている人には、「跳べる」「カンタンにできるよ」という仲間を見せること。
松下村塾もそうだけど、案外狭い所・知り合い同士のコミュニティから、「すごい人」は頻発する。
それは「あのあいつが上手くいったんだから、オレもできるだろう」という思い込みである。
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進学校で有名な学校から、なぜ東大合格者・京大合格者が出るか?
それは「あのバカな先輩でも東大に受かった」というのを後輩が見ているからである。
実際、私の高校時代も、「あの人も合格したんだから、私も・・・」というのを感じたことがある。
身近にいる「上手くいっている人」を見て、「あの人にできるんだから自分もできる」と解釈をすること。
実はこれ、すごく大切なことだと思う。
「上手くいっている人」を「ずるい」「悔しい」「腹立たしい」と思うと、「自分もできる」とは思えない。
「上手くいっている人」を見て、「自分もできるはず」と思えること。
これこそ大事だ。
箱以上にジャンプするノミを見て「ずるい」「悔しい」「腹立たしい」とノミは思わない。
ただ自分も真似てみるだけである。
人間はムダに「思考」があるから、できるはずのこともできなくなる。
あの人にできるんだから自分もできる」。
なにげに大事な言葉だと思います。

久々の東京と、東京論。

というわけで、いま東京に来ています。

よく考えると、平成26年度はけっこう東京に行きました。

修学旅行、生徒会研修、帰省ついでの東京訪問、日本通信教育学会への参加、文科省のフリースクールフォーラム&フリースクール全国ネットワークの文化祭。
そして今日、3月に訪問しています。

それぞれ仕事プライベートの別はありますが、札幌時代以上に東京に行ってる気がします。

東京は楽しいところ。
東京はエネルギーが溢れるところ。
東京はムダにデカいところ。
東京はどこに言っても満員&混雑するところ。

高校大学大学院のころ、東京こそホームで、「故郷は遠きにありて想うもの」(室生犀星)でした。

ですが仕事を機に北海道の札幌帯広で生活するようになると、北海道こそホームになりました。

東京は「どこか遠い世界」になりつつあるように思います。

いまは亡きやしきたかじんの「東京」は、関西人だからこそ胸に響きます。

いとしさも 憎しみもすべてすべて ぎゅっと抱きしめ祈るように 今日も灯がともる東京(「東京」)

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これは東京人が見た東京ではなく、関西人も入れた地方人が見た東京です。

輝いていると同時に、嫉妬の対象としての東京の姿です。

自分がなんだかんだ東京に行くのは、行くたびに東京と自分とのギャップ、東京に染まりきれない自分を身体で感じるためなような気がします。

「地方活性化」「地域活性化」と言う声がよく聞かれます。
その活性化した姿が「ミニ東京」だった、というのもよくある話です。

東京とはなにか?
東京とどう関わるか?
いまの私のテーマです。

『ヒーローを待っていても世界は変わらない』?

ヒーローって、なんだろう?
ウルトラマン?
仮面ライダー?
それとも007のジェームス・ボンド、
あるいは大阪の橋下市長?

本日3/21(土)、「読書会@札幌-帯広」にて、
反貧困ネットワークの湯浅誠氏の『ヒーローを待っていても世界は変わらない』読書会を開催しました。

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>本書についての私の書評はこちら

さて、今回の読書会の議論をまとめた部分が以下に当たります。

読書会の大きなテーマは「これからの市民活動のあり方とは?」。

大きくわけて2つの立場が出ました。

(A)自分たちのために社会を変えていく組織・団体をイチから作るパターン

(B)既存の組織で活動をしていくパターン

(A)は、例えば湯浅誠氏の反貧困ネットワークやこの日本ノマド・エジュケーション協会のように、「なにもないところから」「ゼロベースで」作っていった組織のこと。
ここには今回のような読書会のほか、自発的なボランティアなどが入ります。

(A)の立場はラクでなおかつ楽しいこと。
(B)と違い、「〜〜月には・・・をしないといけない」というのが無い。
なおかつ、自分たちの好きでできる。

その一方、自分に全く関係を感じられない人、言ってしまえば社会的弱者に活動が届かない。

一方、(B)の立場には町内会や行政組織、学校のPTAなど、歴史と伝統あふれる組織が当てはまる。

ある意味、企業で働くのも(B)のパターン。

(B)は決まり事だらけ。
やりたくないこともたくさんある。

でも。
昔からあるし、歴史と伝統、そして信頼があるため、社会的弱者にも届きやすい。

誰かが「やらなけれればならない」からこそ、本当に助けが必要な人に届く。

その代わり、「やらなけれればならない」と決まっていることをわざわざやるのは、いくら社会貢献のためとはいえツラいし楽しくない。

(B)の立場を取る人が「楽しい」と思える仕組みづくりが必要でしょう。

例)PTA会長になると、「入学式でスピーチしてください」がよく来るが、それを言い訳に学校にいき、いろんな教員と関わり、学校の様子が分かる、等。

私は昔から、(B)の立場に何の魅力も感じていない。
どうせなら、「必要とされそうなことをイチからやっていく!」ほうが楽しい。

でも、この場合、「必要とされそうなこと」が、本当に「必要とされそうな人」に届かない場合がある。

難しい。

だからこそ、市民活動には(A)のものも(B)のものも必要なのでしょう。

でも私はやっぱり(A)がいいなあ。

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若さをどう見るか?

最近、年齢や「若さ」について、気になること・感じることが多い。

いくつか羅列してみる。

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(1)教員と「若さ」

教員は「若い」とわりと人気を得られる。

それを、大学でも聞いたし、大学院でも聞いたし、就職した学校でも聞いた。

だからこそ、「若さ」以外の武器を「若さ」のある間に学んでおかないと、「なんにもできない」教員になってしまう。

しみじみ、実感する。

(2)本の筆者と「若さ」

最近、無意識に、読む本の著者の年齢を気にしている。

『だから日本はズレている』の古市憲寿さんは85年生まれ、『新世代努力論』のイケダハヤトさんは86年生まれ。

『ネットが味方になるWebマーケティングの授業』の伊藤新之介さんは88年生まれ。

88年(早生まれ)の私としては、「年上」の作者は素直に読める。

しかし、年下の作者を素直に読めるかというと、はなはだ疑問がある。

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(3)名作と「若さ」

ある人が言っていたが、歳を取ると「名作」と言われる小説を読めなくなるのには理由があるという。

それは「主人公の年齢を上回ってしまう」ことによる。

ドストエフスキーの『罪と罰』。

主人公ラスコーリニコフは20代。

夏目漱石の『三四郎』。

大学1年生の主人公は23歳(そういう時代です)。

小説を読むとき、「年下の活躍」を見ることになる。

それを楽しく見れるようになるには人生への「達観」が必要なように思う。

大学1年生の夏。

テレビで見た甲子園の大会。

「ああ、みんな年下の活躍なんだ」と気づいた。

(結論)

「若さ」や「年齢」をどうみるか。

そのためには人間的成長が必要なように思う。

田中ちひろ, 2013, 『悩みの9割を消す技術』ダイヤモンド社。

悩むことの多い人生。

悩む人がたくさんいる分、「悩み事相談」「悩みを乗り越える」本はたくさんある。

結構、その手の本を読んできた私であるが、あまりグッと来る本に出会ったことは少ない。
大体は「悩みがあるのは自然なこと」「悩みを成長に向けよう」という精神論ばかり。
それでも役だったのはフランスの哲学者・アランの『幸福論』。
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アランは〈いますぐ、ここで、「幸せになる」という決意をしなさい〉という。
「幸せになろう」と思わないと、幸せになれない。
悩みも、悩んで役立たない悩みなら悩むな、という発想を提唱する。
不幸になるのは間違った考え方だ、ということ。
ならば不幸につながる悩みは悩まないほうがいい。
アランは悩みに向かう姿勢としてすごく役立った。
しかし。
何をもって「間違った考え方」というかは、アランは言っていない。
悩みの乗り越え方の根本的な方法を、アランは教えてくれないのだ。
本書『悩みの9割を消す技術』は、アランに欠ける部分を埋めてくれる良書。
「悩みの9割」は人間関係から生じている。
人間関係はコミュニケーション不全から生じる。
だから、コミュニケーションについて学べば「悩みの9割」は「消える」のだ。
 
13ページの「人間の脳の「5つの思考レベル」」の表には、本書のエッセンスがすべて詰まっている。
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基本的に、人間の悩みや苦悩は、相手の発言の「取り違い」から生じている。
 
例えば、テストの点数の悪かった子どもに、
君はこんな問題も出来ないのか」という言い方をしたとする(私はいいません、念のため)。
親や教員としては、ただ「このテストの、この簡単な問題をミスしているのだから、もっと基本を勉強しなさい」という意図で言っている。
13ページの表で言う「行動」のレベルの話である。
相手が単に問題を解けていないという「行動」に即して話している。




しかし。
子どもはそうは思わない。
自分の「アイデンティティ(個性)」が否定された、と感じてしまう。
つまり、自分の全存在が否定された、と感じてしまうのだ
 
親や教員は決して全存在を否定しようとしていないにもかかわらず、である。
特に「日本語は、文法的に「相手自身のこと」を指示してしまう傾向がある」(50)からこそ、このズレは頻繁に起こる。
他者から見えるのは、この表の「環境」のレベルと「行動」のレベルの2つだけ。
基本的に相手からなにか言われる時は、「環境」と「行動」についてしか言われない。

「やる気があるのか!」という言葉は、本当にやる気という思いがないからいう言葉ではない。

ダラダラしている「行動」や、ゴミが周囲に散らかっているという「環境」についてを見て行っているだけである。
だって、「やる気」という心の動きは目には見えないのだから。
 
「やる気があるのか!」と言われた時の正しい対処は、
「やる気あるよ!」という言い返しでもなく、
「ああ、怒られた・・・」というアイデンティティ(個性)の落ち込みでもなく、
「自分のどの行動や、自分の周りのどの環境が〈やる気があるのか!〉といわれる原因になったか、考えよう。わからないなら質問しよう」という気づきをすることである。
 
このように、他者からの批判・注意・指摘はすべて自分のアイデンティティ(個性)のことを言っているのでも、
価値観について言っているのでも、技術やノウハウについて言っているのでも、無い。




このことに気づいてから、急に生きるのが楽になった気がする。
それくらいこの本はすごく役に立つ。
人によっては辞表を撤回したり、自死を思いとどまったりするほどの効果を持つ。
あ、そうか。あの発言は別にオレの人間性を否定していたんじゃないんだ!
この気付きは、実は本当に役立つものだった。
追記
しかし、私はこの本よりも、同タイトルのDVDの方が役立った。
TSUTAYAだと100円もしないで借りれるが、本当にグッと来た。
動画の中で筆者に語ってもらうほうが、感動もひとしおとなった。

湯浅誠, 2012, 『ヒーローを待っていても世界は変わらない』朝日新聞出版。

タイトル自体が名言、と言える本はいくつかある。

『さおだけ屋はなぜ潰れないか』にはじまる、問いかけ系の新書や、
「今でしょ!」のあの本など、いろいろ。

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考えれば、夏目漱石の『吾輩は猫である』なんて、冒頭一文をそのまま持ってきたものでありながら、知名度が高い表題である。

本書も、そんなタイトルが名言な本の一つ。

政治の世界においての「ヒーロー待望論」は、実は民主主義という制度の根本的な廃棄につながる。
そのことが、かえって少数者(ホームレス・貧困etc)の権利を損ねるのではないか?

本書はそれを問いかける。

民主主義というのは面倒くさいものだ。そして疲れるものだ。その事実を直視することから始めよう、というのが本書の提案だ。(4)

 

「強いリーダーシップ」を発揮してくれるヒーローを待ち望む心理は、きわめて面倒くさくて、うんざりして、そのうえ疲れるという民主主義というシステムを、私たちが引き受けきれなくなってきている証ではないかと、私は感じています。(68)

だから、「ヒーローを待っていても世界は変わらない」。
利害調整をしながら少しずつ活動していくか、ない。

その際に必要なのは、「〜〜が悪い!」などと声高に叫ぶのではなく、相手に通じる言葉で話しかけること。

自分の言いたいことを言うだけでは決してこの人たちには通じない。この人にも通じる言葉とはどんな言葉だろうか。自分に、自分と同じ経験、同じ土台を持たないこの人を説得できる言葉はあるだろうか。なければ編み出していかないといけない。そう考えると、その人が目の前にいる現実は、自分にチャレ|ンジを課している、と感じられました。(11-12)

 

U理論同様、「他人の目玉」で物を見る、ということが社会活動の基本。
「他人の目玉」という「外部」を織り込んだ、地道な活動が求められている。

戦後になって、日本では「国民主権」となった。
「国民主権」とは、国のあり方を最終的に決める権限は「国民」にある、ということ。

逆に言うと、「国民」である以上、決定をしなければならないということ。
仕事や介護でヘトヘトな人も、決定を求められる。

そんなとき、余裕の無さから橋下徹大阪市長のようなヒーローを人びとは求める。
代わりに決めてくれる人として。

しかし、真の社会の豊かさは「こんなこともあるよね」「こうもいえるよね」という、工夫や対話を繰り広げるところから生まれていく。

 より多くの人たちが相手との接点を見出すことに注力する社会では、自分たちで調整し、納得し、合意形成に至ることが、何よりも自分たちの力量の表れと認識されるようになります。
意見の異なる人との対話こそを面白く感じ、同じ意見を聞いても物足りなく感じます。同じ意見にうなずきあっていても、それを超える創造性あは発揮されないからです。
難しい課題に突き当たるほど、人びとはその難しさを乗り越える工夫と仕掛けの開発に熱意を燃やし、それを楽しく感じます。創意工夫の開発合戦が起こり、創造性が最大限に発揮される社会です。私たちは「こんな面白いことを誰かに任せるなんて、なんてもったいない」と感じるでしょう。(155)

だからこそ、本書のラストは印象的。

 ヒーローを待っていても、世界は変わらない。誰かを悪者に仕立て上げるだけでは、世界は良くならない。
ヒーローは私たち。なぜなら私たちが主権者だから。
私たちにできることはたくさんあります。それをやりましょう。
その積み重ねだけが、社会を豊かにします。(156)

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追記

本書は、本当に貧しくて、時間を割けなくて、なおかつ生きるのが困難な人に目を向けた上での市民活動でなければ意味が無い、というような視点が強い。
この視点、私には欠けていたものだったので、参考になった。

プロフェッショナル仕事の流儀 院内学級教師 副島賢和の仕事

涙も笑いも、力になる」とのキャッチフレーズ。
「プロフェッショナル仕事の流儀」のDVDシリーズにも、教員・教育業についてはいろいろあるが、印象的なのはこの1本。

院内学級
知られていない人も多いけれど、病院の中にある、入院中の子どものための学校。

メンバーは日々変わるし、退院=卒業。

決して、「主役」としての教師には、なれない。
サッカーで言うと、常にパスを出し続ける選手。

重い病気を背負いながら通う子どもたち。
あまり経験したくないけど、「生徒が途中で病でなくなる」という悲哀も、まま経験することがある。

自分を責めたり、近づく手術の不安を示したりする。




私も札幌の院内学級である札幌病院の院内学級「ひまわり分校」を訪問したことがあるが、あの雰囲気は独特。

でも、その悲哀を感じさせないくらい、楽しそうな学級の様子。
なんかフリースクールみたい、と感じる。

そこで「教員」をやる副島氏。
DVDには出てこないほど、沢山の悲哀を感じてきただろう。

副島氏は「あえて笑わせる」というクラウン教師。
笑えないだじゃれを言う、あえてドジをやる。

赤鼻を付けて、ピエロに扮する。

ピエロは、顔に涙を描く。
ピエロは笑われるのが仕事。
たくさんの悲しさを感じてきたからこそ、逆にまわりを笑顔にできる。




副島氏は「体動かすの、大好き」という、バリバリの体育教師だった。
でも、急に肺の病に侵され、5年間、入退院を繰り返す。
そして、「激しい運動ができない」申告を受ける。

その悲哀を経験し、自らの「教師業」を振り返る。
仕事を中断し、大学院へも行く。

復帰後、院内学級で出会った少年から、自分のやるべきことを見つける。
それが院内学級の教師という仕事。

子どもたちを元気にする仕事。

すごいのはすごいけど、すごさが表面に出てこない。

一件、普通のおっちゃん。
でも、涙もろい。

「同業者」として、素直に凄いと思う。

特に、「子どもと向き合う姿勢」はなおさら。

どうでもいいけど、あえてかすれ声を使いこなせる所、私も学びたい。
同業者として。

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十勝コーヒー部vol.1「カンタンそうで深いドリップコーヒーの淹れ方」

本日3/6(金)、とかちプラザにて、第1回となる「十勝コーヒー部」を行いました!

今回のテーマは、「カンタンそうで深いドリップコーヒーの淹れ方」。
講師は現役の帯広畜産大学大学院の学生でありながら、
Farm Design帯広畜産大学店でも活躍されている鈴木孝直さん。

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この人のコーヒーへの情熱は、本当に凄いです。

コーヒーの歴史のほか、
日本でなぜペーパードリップが広まったのか? ご教授頂きました。

「日本にはもともと、雑味のある質の悪いコーヒーが明治時代から入ってきていました。そのため、雑味を取る方法としてドリップコーヒーが用いられています。ドリップコーヒーの【泡】が、雑味を取ってくれます。だから、ドリップコーヒーはフィルターにあるコーヒーが全て落ちきる前にはずさないと、雑味が混ざってしまいます」

・・・今日から使える美味しいコーヒーの淹れ方、学べました!

後半はドリップコーヒーの淹れ方講座。

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「ドリップコーヒーは、しっかり蒸らしたあと、500円玉くらいで真ん中に輪を描くといいです」
「ドリップコーヒーは【祈るように】!」

名言も飛び出します。

皆で美味しいコーヒーの淹れ方、学ぶことができました!

 

次回はフレンチプレスなどの様々な器具を知ります。
4/10(金)、19:15-20:45、とかちプラザ403です!

お申し込みは、こちら、またはFBイベントページまで!

ファシリテーションを「やる」ことには何の意味も無い。

ファシリテーションについて学び始めの頃、
おそらくやってしまいがちな「間違い」があります。

それは、イベントやミーティングの際に
「どのファシリテーション技術を使うか」考えるところから始めてしまうところです

かくいう私も、けっこう最近までこの間違いにはまっていました。

このことは、いったいどこが間違っているのでしょうか?

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それは、ファシリテーションというのはあくまで「技術」・「手段」である、ということです。

「どのファシリテーション技術を使うか」ではなく、
まずは「今回の目的はなにか」を考えることから始めるべきなのです。

ファシリテーションは、スムーズにイベントやミーティングを進めるために行うものではありません(よく考えられる間違いです)。

ファシリテーションは、イベントやミーティングの「目的」を達成するための道具です。

手段を目的化してしまうのは世の中にある、よくある「間違い」です。

もし、チームを「一度グチャグチャにして、再度気づきを与える」ことを目的にするなら、下手なファシリテーション技術でスムーズに進行してしまったら、何の意味もなくなります。

いったい、目的はなにか?

その問い直しから始めたいなあ、と思ってます。

高校時代と密度。

一昨日は、勤務校の卒業式。
卒業する生徒との思い出を思い出し、感無量。

卒業する姿を見ていると、自分の高校時代を思い返してきた。

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高校時代は、短い3年間。
大学は4年だし、仕事はずっと続く。

人生の中において、高校時代はすごく短い。

けれど。
授業と部活動、
アルバイト、遊び、そして恋愛などなど。

短い間に、まあ大量の「やりたいこと」が入ってくる。

私は高校時代は寮生活をしていた。

寮というのは、ただいるだけで「やること」が増えるところである。
洗濯・掃除を自分でやる他、先輩-後輩との関わり、同級生との関わり等、「やること」「やりたいこと」が多くある。

私自身は寮生活も入るが、高校時代というのはたくさん「やりたいこと」がある。
そして、現実に「やりたいこと」をどんどんやっていくことができている。

しかも、自分の将来に努力次第で近づくことができる。

そんな時期は、高校時代を於いて他にない。
だからこそ、高校時代は密度が高い。

社会人になってからこそ、思う。
人は高校時代ほど、深く生きれないのではないか。
密度高く、生き方を考えられらないのではないか、と。