今月3月末を持って、私立通信制高校を退職しました。
これからは「作文教室ゆう」「北海道学習塾ゆう」の主宰・塾長として、
これまでの経験をもとにさらに活動していこうと思っています。

そんな際に読んだのが『教育の職業的意義』。
ちょうど札幌で毎月やっている【読書会@札幌】というイベントで、今月26日に行ったのが本書でした。

2Q==

これまで「学校」と「会社」とのつながりをいうことは「タブー」でした。

「教育という神聖な営みに、会社というものを扱うのは間違っている!」(学校側)
「どうせ学校でやってることは役立たないから、会社でビシバシしごきますよ」(会社側)

これまでは両者は互いに敵視しあう関係でした。

日本の景気が良かった頃(産業構造が変化するまで)は上手くいっていました。
ですが今は社会が大きく変化し、これまで通りでは行かなくなりました。

だから、「キャリア教育を学校でやろう!」(学校側)、
「学校ではもっとコミュニケーション力やクリエイティビティを高める教育をやってもらいたい」(会社側)というように言われるようになっています。

それに対し、本田はこれら既存の方針に批判をします。

単にキャリア教育を行ったり、「コミュニケーション力」教育や「クリエイティビティ」教育(本田は「ハイパー・メリトクラシー」という形でまとめ、批判的に見ています)を行ったりするだけでは、結局は現状は何も変わらない、という指摘です。

そうではなく、いま一度「教育の職業的意義」を考え直し、
「教育」と「職業」とのリンクをもっと強固にすることを指摘しています。

方針として本田は「柔軟な専門性」という概念を挙げます。

それゆえ教育の職業的意義は、のちのちの知識やスキルの伸長・更新・転換を見込んで構想・設計される必要がある。すなわち、特定の個別の職種にしか適用できないような、がちがちに凝り固まった教育ではなく、ある専門分野における根本的・原理的な考え方や専門倫理、あるいはその分野のこれまでの歴史や現在の問題点、将来の課題などをも俯瞰的に相対化して把握することができるような教育である。それは、一定の専門的輪郭を備えていると同時に、柔軟な発展可能性に開かれているような教育である。本書は、このような意味での教育の職業的意義を表現するために、「柔軟な専門性(flexpeciality)」という概念を提唱する。(14)

例えば、福祉についての専門知を学んでいると介護職につかなくても様々な点で役立てていくことができます。
(看護の現場での高齢者との関わり方や接客業で高齢者と関わる時など)

単にその仕事でしか役立たない専門知を学校で教えてしまうと、
もったいない結果となってしまうことがあります。
その上で、本田は企業経営者が若者に会社への〈適応〉のみを求める視点に疑問詞をしています。

現在の若者には単なる企業への〈適応〉のみではなく、〈抵抗〉の仕方にも教育していくことを主張します。

ここで記述されているような「労働法の基本的な構造や考え方」および「職業選択や就職活動に必要な事項」は、適切な〈抵抗〉のための教育の必須条件と言える。(202)

本書の最後で、本田は「なぜ『教育の職業的意義』という本を書いたか」という問題意識を綴っています。

現在の日本社会では、教育を受けるには個人や家庭が多大な費用を負担しなければならず、かつ受けた教育がその後の生活のたつきを築く上でいかなる意味があるのか不明である場合が多く、それにもかかわらず教育が欠如していることはさまざまな不利を個人にもたらす。しかも、教育から外の社会や労働市場に出れば、ある程度安定した収入や働き方をどうすれば獲得できるかの方途も不明であり、一度不安定なルートに踏み込めば、その後の挽回の機会は著しく制約される。度を越しての過重な仕事、あまりに賃金の低い仕事にはまりこむ危険の高さは、まるでおびただしく地雷の埋まった野原を素足で歩いていかなければならない状態と似ている。(214)

だからこそ「教育の職業的意義」を捉え直す発想の主張へのつながっていくようです。

 

・・・ただ、思うのは「教育」で人の職業キャリアや「生き方」まで本当に伝える事ができるのか、ということです。

学校で「柔軟な専門性」を学んでも、
それを活かしていけるかどうかはその生徒次第です。

学校で学んできたことを確実に/したたかに使っていける生徒をどこまで育てられるか?

そのためには、ある程度の「社会経験」も必要な気がします。

努力する人間になってはいけない』には、専門学校生と大学生の違いとして「コミュニケーション力」をあげています。

Z

「専門知」を集中的に学ぶ専門学校生に対し、
大学生はそもそも勉強をせずアルバイト/サークルで「社会経験」「コミュニケーション」を積んでいます。

その結果、就職の面接で「遊んでいた」大学生が「コミュニケーション力」を発揮して受かってしまうことを嘆いています

学校側が努力するのはもちろんです。
その上で、学び手たる生徒が「職業」を選択し、
〈適応〉と〈抵抗〉の手段を身に着けていくことが重要になってくるでしょう。

 

・・・「高校教員」を辞めた後だからでしょうか、
やたらと響いてくる本でした。