2012年 3月 の投稿一覧

教育の本質的な「ジレンマ」

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教育の本質的な「ジレンマ」

教育の本質的な「ジレンマ」は、理想の教育社会を築くことが生徒の自己学習力を下げてしまうという点にある。

自分たちで工夫して、いろいろやっていく余地のあるとき、学習は進む。適切な「負荷」がかかるためだ。
Webは検索するといろんな知識を得させてくれる。
そのため、もはや知識を知る必要性が低下する。
「学習」における意味が軽減するわけである。
教育系の起業。これは使命・目的が達成される(終わる)ならば解散していい仕事である。
時代や社会が必要としなくなれば、いつでも組織は解散すべきである。
しかし教育関係機関は惰性で続く。
もはや不必要とされる教育の仕方を延々と続ける「自己再帰的」な「システム」となってしまう。
(意味のない教育をするという意味では、いまの学校は大体そうだ)
教育系の起業の「理想」は、「ゆりかごから墓場まで」というスタンスである。
児童教育から老人向けのリハビリ教育までを一手に引き受けることだ。
「ベネッセ」的なもの、と言えるだろう。
ある会社の「トータル養育セット」もこれである。
しかし、こうやって企業がすべての教育サービスを提供しようとすると、「自己学習力」や自分たちでの「工夫する力」が下がってしまう。
理想の教育は、「理想の教育」が達成された瞬間、「自己学習力」が下がるという弊害を持っている。
これを防ぐには、他者に応じてやり方を変え、けっして完成形のない「ホスピタリティ教育」をすることしか存在しないであろう。
教育における他者も「歓待」すべき対象である。
相手への「歓待」をその場その場でやり続けていく教育こそ、「教育」のジレンマを減らす方途なのかも知れない。

点Pとしての偉人論

ブッダは「場所」を持たなかった。
弟子と共に流浪を続け、たまに祇園精舎なり、竹林精舎という原点Oに戻ってくる存在であった。
つまり、ブッダは座標平面上をつねに移動する点Pであった。
キリストもそうであり、ムハンマドも原点Oから追放された点Pである。

流浪し続け(=ノマド)、1点に逗まらないからこそ多様な図形を座標平面上に描くことが出来た。

彼らは、常人には先の読むことのできないグラフを描き続けたのである。
その座標平面上に描かれた図形こそ、「聖書」なり「経典」なりに結実したのであった。

他者救済の要は移動性にある。
要は1点のみに自己を固定せず、常に移動し続ける点Pで在り続けることが求められる。
その過程の中で、哲学的知見なり宗教的着想を得ることになるのだろう。

(カントを除く)偉人たちは点Pであった。
せっかく札幌に行く私も、気分だけでも点Pになりたいと思う。

岡田尊司, 2009, 『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)より「アスペルガー症候群の子を指導する際のポイント

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岡田尊司, 2009, 『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)より「アスペルガー症候群の子を指導する際のポイント

①1日の流れを、決まったものにする

②明白なルールを作り、それを一貫させる
③ルールは、できるだけ具体的にする
④ルールや日課は視覚化し、見えるところに掲示する
⑤一つ活動を行う前に、予めいつまでで終わりになると見通しを与える
⑥活動と活動の変わり目では、前もって予告をするなどの工夫をする
⑦お気に入りのことは、苦手な活動の後でする
⑧否定的な言葉を使わずに、できるだけ肯定的な言葉を使う
⑨感情的に叱ることは慎み、どうすればよいかを客観的に伝える
⑩よいことは、まめに褒めて強化をはかる
⑪よくない行動を叱るより、よくない行動をしなかったときに褒める
⑫ご褒美は、一回分は控えめで、積み重ねられるものがよい
⑬本人の特性を活かす方法を考える
⑭本人の主体性、気持ちを尊重する
⑮問題行動に過剰反応せずに、その背景を振り返る
(171頁)
 これはアスペルガー症候群にかかわらず、
わかりやすい説明や授業をする上で必要なスキルである。
 また、仕事術としても有意義であり、コーチングの際に
意識すべきリストでもある。
  
 アスペルガー症候群を知ることは、仕事のやり方・勉強のやり方を
再考することでもあるんだなあ。

岡田尊司, 2009, 『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)より「アスペルガー症候群の子を指導する際のポイント

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岡田尊司, 2009, 『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)より「アスペルガー症候群の子を指導する際のポイント

①1日の流れを、決まったものにする

②明白なルールを作り、それを一貫させる
③ルールは、できるだけ具体的にする
④ルールや日課は視覚化し、見えるところに掲示する
⑤一つ活動を行う前に、予めいつまでで終わりになると見通しを与える
⑥活動と活動の変わり目では、前もって予告をするなどの工夫をする
⑦お気に入りのことは、苦手な活動の後でする
⑧否定的な言葉を使わずに、できるだけ肯定的な言葉を使う
⑨感情的に叱ることは慎み、どうすればよいかを客観的に伝える
⑩よいことは、まめに褒めて強化をはかる
⑪よくない行動を叱るより、よくない行動をしなかったときに褒める
⑫ご褒美は、一回分は控えめで、積み重ねられるものがよい
⑬本人の特性を活かす方法を考える
⑭本人の主体性、気持ちを尊重する
⑮問題行動に過剰反応せずに、その背景を振り返る
(171頁)
 これはアスペルガー症候群にかかわらず、
わかりやすい説明や授業をする上で必要なスキルである。
 また、仕事術としても有意義であり、コーチングの際に
意識すべきリストでもある。
  
 アスペルガー症候群を知ることは、仕事のやり方・勉強のやり方を
再考することでもあるんだなあ。

生徒も「わくわく」を求めている。

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生徒も「わくわく」を求めている。

小阪裕司は「顧客のニーズなんかない。顧客はわくわくを求めている」と述べる。(『「惚れるしくみ」がお店を変える!』)

これは教育にも言えることだ。
ハッキリ言って、生徒は「学びたがっている」ことなんて、ない。
学びたいものもない。
「ほしい物」がはっきりしない分、「受験」をテーマに授業をすることになる。
そして「ニーズに応えている」と受験校の教員は述べる。
しかし、それは本当だろうか、と感じた。
内田樹は〈学びというのは「贈与」であり、学ぶまでは自分が何を学びたがっているか分からない〉と述べる。
何を学ぶか、なぜ学ぶか分からない状態から学習は存在すると言っているのである。
生徒は学びたがっているわけはない。
生徒は「わくわくすること」を求めている。
学校もひとつの総合サービス業である。
であれば、生徒の「わくわく」を誘発する「しくみ」を作らねばならない。
それが「この内容は面白い」「楽しい」ということが伝わる授業であろう。
私はかねがね、「ドラクエ並みに面白い微積の学習教材が開発されれば、日本の国富が増大する」と思っているが、
これも「楽しい」「わくわくする」状態を学校のなかに取り入れることになると考えられる。
昔のマグネットスクールの発想である。
学校に生徒自らが「惹きつけられる」状態を理想とする、ということだ。
この「惹きつけられる」状態、生徒に「何を学びたい?」と聞いても教えてくれるわけはない。
それはデパートの店員がお客に「何を売って欲しいですか?」と聞くことと同じである。
お客は思いつきのアイデアを述べはするが、それで売上が高まるわけではない。
顧客は自分の「欲しい物」を知らないためである。
日本人で理数が嫌いな人が多いのも、「あ、難しそう」と逃げてしまうからだろう。
案外やってみると、面白かったりする。
教員という仕事は、生徒が何をわくわくするか、見極めながら授業をすべき、
恐ろしく高度な「総合サービス業」なんだなあ、とつくづく思う。
もっと修行せねば。

映画『だんらんにっぽん』

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映画『だんらんにっぽん』

愛知にある、南医療生協について取り上げた映画。

組合員の出資と運営で成り立つ医療福祉制度である。
興味深いのはリアリティに関する話。
三菱重工でロケットを開発していた技術者の男性が、
ある日痴呆になる。
その人は毎日会社に行くと考えているため、デイサービスセンターに行くときも
以前の職場の前を通って行く。
そしてデイサービスの場でも「はやく会社に行かないと」とスタッフに話しかける。
スタッフは彼との関わり方を考える。
出張が多かった彼がお土産をよく買いに行っていたことに注目する。
そのため、観光地的なスーパーまで来るまで行き、彼に食材を選んでもらうようにしたのだ。
彼は自分のリアリティを周りが尊重してくれていることに感謝し、おとなしくなる。
見ていて気づいたのは、他者のリアリティをなるべく受け入れ、それを生かす努力をスタッフがしている点である。
企業人であった利用者が、仕事の誇りを持ち続けられるよう、周りが合わせているのだ。
この姿勢、重要だなあ、と思った。

私が早稲田で学んだこと。

私が早稲田で学んだのは「偽の二項対立をするな」ということだった。
 たとえば高校生時代の「切実な」悩みは「部活と勉学をどうやって両立するか」だった。
 この背景には、「部活もやりたい。でも受験で結果も出したい。どうやったら両方うまく行くのだろうか」という思いが存在している。
 この「悩み」を解決する方法は、当時の私が考えたもので3つある。

  ①部活のみに力を注ぐ。
  ②勉強のみに力を注ぐ。
  ③部活と勉強、両方に力を注ぐ。

 ①の場合、受験勉強がうまく行かなかった場合、その「後悔」を感じないか、というリスクがある。
 私の高校はある大学の「系列校」(付属校みたいなものだが、学校法人が違う)であった。
 私の同期生はみなその系列の大学に「推薦入学」する。
 それでいいのであれば、①の選択は可能であった。

 ②の場合。①の逆であるが、そもそも私の高校では「勉強」しかしない人に対する評価はあまり高くなかった。
 むしろ生徒の委員会活動や部活動、文化祭などに強く関わることが評価されていた。

 ③の場合。両方やるというのはもっともリスキーだ。
 なぜならば、両方ダメな結果しか残せない場合があるからだ。
 プロセスに満足できるなら、③が薦められる。
 
結局私は、③をやる形となった。厳密には私は生徒会活動が「両立」の一方の軸であった。
③の解決策こそ、「たいへんだけど、自分を成長させる」ものだと信じたからだった。
 じっさい、私の高校の友人達の間でも、③の選択肢がもてはやされていた。

 早稲田に入って学んだのは、①②③とも違う④の選択肢の存在だった。

  ④部活も勉強も、両方やらない。

 ④の選択肢の「すごさ」は、①〜③の前提をすべてひっくり返すところにある。 
 はじめは④を「不真面目」と思ってしまうことと思う。しかし、「そもそも、部活も勉強も、そんなに大事なのか」という問いかけをする点に、意味があるのである。

 ①〜③は「何かをしないといけない」という強迫観念に駆られた選択であった。
 しかし、④は「それ以外にもやり方があるんじゃないの」という思いを提示するものだった。

 ④の発想を一度することで、①〜③の選択肢が生きてくる。
 それは、①〜③は「何かをしないといけない」というマイナス志向から発している点である。
 ①〜③すべて、「まわりの評価」を求めている点では共通である。
 つまり、何かで結果を出し、「まわり」から評価されたい、という思いが表れているものなのである。
 「自分が本当に何をやりたいのか」が問われていないのだ。

 学習心理学では、「内発的動機づけ」と「外発的動機づけ」という概念を用いる。
 昔、「テストで100点とったら、ゲーム機を買ってあげるわよ」と親に言われた経験を持つ人はいないだろうか。
 残念ながら私の親はそうではなかったのだが、この場合が「外発的動機づけ」である。
 つまり、「誰かに何かをもらえるから」勉強する、という態度である。
 「誰かにほめられるから」「評価されるから」学ぶという態度だ。
 この「外発的動機づけ」、はじめは効果を発揮する。
 しかし、勉強して「ゲーム機を買ってもらった」あとには、効果がなくなる。
 ただそれだけの効果しかない。
 一方、「内発的動機づけ」は異なる。
 自分が「これを学びたい!」という思いから発している。
 「これを学び、仕事に役立てたい」という思いからの学習である。
 心理学的には「外発的動機づけ」よりも「内発的動機づけ」の方が効果的だ、という。

 ④の選択肢を考えることは、「内発的動機づけ」について考えることでもある。
 つまり、「本当に受験も部活も、やる価値があるのか」という問い直しが可能になる。
 今だから言えるが、高校生の時の私はまわりの「すごい」友人にコンプレックスを持っていた。
 自分も、まわりから「すごい」と言われるようになりたい。
 そんな「他人からの評価」が欲しくてたまらない弱い人間であった(今もそうかもしれない)。
 そのため、受験も部活も、「本当に」やりたいことだったかと言われると疑問を感じてしまう。
 ただ「東大に合格する自分」が、友人たちから「評価」されることだけを求めて、私は受験勉強をしたのであった。
 受験勉強で結果を出しながらも、部活でも結果を出すことで「すごい」と言われたかっただけなのであった。
 生徒会活動に精を出したのも、もとはといえば「すごい」と評価されたいだけであった。
 ④を考えるまで、私は厳密な意味で受験勉強をやる意味や部活動をやる意味を考えていなかったことに気づいたのであった。
 
 ここまで考えれば、①〜③の選択肢の「甘さ」が見えてくるはずである。
 なぜ「部活」か「勉強」かということで悩まないといけなかったのか、という根本原因が見えてくる。
 それが早稲田で学んだ④の選択肢である。
 要は私は他者からの評価をもとめていたのである。
 「外発的動機づけ」でしか動いていなかったのだ。
 
 この文章を読んでくださっている方には、あまり④の選択肢の意味が伝わっていないかも知れない。
 しかし、④を一度考えることはすごく重要なのだ。
 ④を考えた後、①〜③の選択肢を見ると、①〜③の内容をさらに深めることが出来る。
 やってみよう。

①’ 部活が楽しいから、部活に力を注ぐ。
②’ 学習するのが楽しいから、学習に力を注ぐ。
③’ 部活も勉強も両方楽しいから、両方やって両方とも楽しむ。

 要は他人の評価のために一生懸命やる必要はなかったのだ。
 早稲田で学んだ④の選択肢は、①〜③の内容を豊かにしてくれたのだ。
 ④の選択肢のお陰で「部活か勉学か」という「偽の二項対立」を乗り越える事ができるんのだ。
 
 ④の選択肢の存在は、私の持つ、物事への見方を大きく変えてくれた。
 これが「大学」に行く意味であるし、学問をする意味なのだなあ、としみじみ思う。

金銭やものを媒介にしての教授でなければ、人は学習しないのではないか仮説。

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金銭やものを媒介にしての教授でなければ、人は学習しないのではないか仮説。

論語にはこうある。
「先生がいわれた、「乾肉(ほしにく)一束を持ってきたものから上は、[どんな人でも]わたしは教えなかったということはない」(金谷治訳注『論語』岩波文庫, 130頁)
ここを大幅に飛躍して解釈すると、
人に物を教える際、必ず何か「代価」を払わせるということが重要、とは言えないか。
学ぶモチベーションを簡単に上げる方法。
それが相手から幾ばくか金を取る、ということだ。
孔子の場合は目上の人へ教わる「礼」として、「乾肉一束」がルールであった。
このように何かを受け取るからこそ、学び手の側に「学ぼう」というモチベーションが起きたのではないか。
無料でやる芝居は客の反応が薄くなる、という。
たとえ500円でも払わせないと、客は主体的に芝居に関わろうとしない。
「金を払っているのだから、もとをとろう」と主体的になる。
だから無料で芝居をしてはならないのである。
教育もそうである。
授業は一方的な「贈与」であると解されている。
それゆえ、生徒は「受け身」になる。
教室でただ受け身で授業を聞くだけならば、本当につまらない。
「内職」だってしたくなるし、そもそも授業に出る意味がわからない。
(厳密にはちゃんと「授業料」が親なり、地方自治体からなり払われているのだが、生徒から直接払われていないため、リアリティがない)
しかし、仮に授業の際に500円を払うなり物納を義務付けるとどうなるか。
生徒は少なくとも「もと」を取ろうとする。
教員に多くを求めるようになる。
「授業」に値しない授業を堂々と批判できるようになる。
これは教員にとっても、授業実践に反省的関わりをすることを求めさせる(佐藤学のいう「反省的実践家」としての教師、である)。
教員の「自己研修」の必要性が高まる。
「お金をとれるほどの授業をしているのだろうか」と自己を振り返ることになるからだ。
(余談だが、私の勤務校でははっきりと「あなたの授業は商品になるか」を教員に求めている)
私は今までいろんな授業を受けてきて、「授業」に値しない無意味な授業も多く経験してきた。
そういった教員に反省を求めることも、「金銭」や「もの」を授業に際し受け取ることで可能となる。
内田樹は「不快貨幣」についてを述べる。
いまの「若者」がだらだら授業を聞き、だらだら過ごすのは、意識的に「自分は不快だ」という思いを相手に伝えるためだ、
と述べる。
これは「つまらない授業をなぜ私は受けないといけないのか」という思いに対する返礼である。
「つまらない授業」を一方的な「贈与」として受け取る分、何かを反対給付剃る必要がある(モース『贈与論』以来のテーゼだ)。
それが「不快貨幣」だ、と内田樹は説明するわけである。
この内田樹の説明を「乗り越える」には、授業に対し授業料をその場で払うか、物納をするということがあげられるだろう。
これにより、少なくともこの授業に対し自分は幾ばくか金を払っているのだ、という認識を与えることが出来る。
だからこそ、「役に立たない」授業・「つまらない」授業(両者は微妙に違うのだが、ここでは一括する)を生徒自身が見極めることができるはずである。
孔子だって、無料では相手に教えていない。
「労働」である以上、これは仕方ない。
しかし、「金が取れる」ような授業をしているかどうかは教員が常に自覚的であるべきであろう。

デュルタイ『教育学論集』日本デュルタイ協会訳, 以文社, 1987。

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デュルタイ『教育学論集』日本デュルタイ協会訳, 以文社, 1987。

17世紀の普遍妥当的教授学「われわれの知性が完成していく自然の歩みは教授を通してであり、そしてこの教授は経験から抽象的な真理へ、生き生きとした言語からその規則へ、子どもの最も身近な環境から遠方にある物の定位へ、と進行していくのである」(23)
「教育はそれ自体目的なのではなく、手段として心的生の発展に資するものだからである」(30)
「われわれの本質の、全然言い表されない不調和はすべて、この根源的な多様性に拠るのである」(34)
「教育は、成人した者が時代を担う者の心的生を形成する計画的な活動を意味する。他の目的に向けられた活動であっても、副次的に結果として教育にいたるときには、より広い視点から、教育という表現が用いられる」(39)
「教育の使命は、意図的体系的手段によって、個人が自主的に自らの決定したことを遂行できる状態にまで、個人を発達させることである。それゆえ、人間の運命に関する一切の経験に応じて、個人がもっている情緒や意志や観念の世界を発達させることが、すべての教育の究極的目標なのである」(62)
「個人が自己の全心情力をもってこれらの世界に完全に入り込み、つまり適切なる場において、自己の能力に応じて、自己の満足と全体の利益のために、この文化および文化の使命に関与すること、これが教育の最高の使命である」(63)
「個人は社会のなかにあってのみ性格の統一へと形成される|し、個人においてこうした陶冶が可能であるがゆえにこそ、人類もまたその性格の統一を得ることができるのである」(151-152)
「教育学は目標を立てることによってのみ有りうるのである。目標は倫理学がこれを説くが、しかし倫理学は普遍妥当的ではない」(174)
「すべての国民および時代に対して教育問題を規定することを決定することを決定しうるような普遍妥当的な教育学は、ひとつも存在しないのである」(183)
「教育史の基礎的な研究のいずれもが教えるところだが、真の改革は教室での普段の骨の折れる教育活動を介してのみ成就されるという命題は、人々の騒々しくさわぎたてるなかでは聞きとられない」(193)
●解説
「スペインの思想家オルテガ・イ・ガセットはデュルタイの主要な理念を明白に要約した。彼はいう、「デュルタイによれば、人間は何一つ本質というものをもたない。人間がもっているものは歴史だけである」と」(244)

「教育学は「教育という現象そのものを提示し、これをできるだけ明らかに心理学的に分析する」学問であり、とりわけ「教師と生徒の関係の叙述」を事とする学問である。そしてまさにこのことがデュルタイの教育学体系の中心課題であった」(254)

リチャード・ワイズマン, 2002, 『運のいい人、悪い人 運を鍛える四つの法則』矢羽野薫訳, 角川書店, 2004。

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リチャード・ワイズマン, 2002, 『運のいい人、悪い人 運を鍛える四つの法則』矢羽野薫訳, 角川書店, 2004。

「運がいい」と思っている人のほうが、相対的に「幸福」になり、「成功」しやすくなる、という本。

著者は「自分は運がいい」と思っている人・「運が悪い」と思っている人を比較軸にし、実験をする。
コイントスやナンバーくじの「当たり」具合をみる。
結果的に、「運がいい」と思っている人も「悪い」と思っている人も、
くじやコイントスに当たる確率に差はなかった。
「運がいい」人に特別な予知能力があるわけではないことを科学的に証明する(そのあたりがアメリカの学者だなあ、と思う)。
しかし、「運がいい」人と「悪い人」には大きな違いがある。
「運がいい」と言っている人は「悪い」という人よりも積極的に挑戦をするのである。
「運がいい」と言っている人の中には、何度も宝くじや抽選に当たる人がいる。
この人たちは、例えば「週に70通は応募する」人がいるなど、非常に挑戦的なのだ。
「運が悪い」といっている人は、そもそも応募もしないし、くじを買うこともしない。
「運が悪い」からと諦めるのだ。
だから結局なにも変わらない。
これは何もくじや抽選のみでなく、たとえばキーマンとの接触についても当てはまる。
「自分は運が悪い」と思っている人は、そもそもキーマンと会っても話しかけようとしない。
しかし、「運がいい」と思っている人はダメモトで話しかけるのだ。
そして運をものにしていく。
要はこういうこと。
「自分は運がいい」と思っている人のほうが、「悪い」と思っている人よりも人生が楽しくなる、ということだ。
「自分は運が悪い」と思っている人は、やる前から「どうせダメだろう」と考える。
だから必死になって努力しない。
うまく行かないのは必然なのだ。
一方、「自分は運がいい」と思っている人は、思わしくない障害があっても積極的に努力していく。
それは「運がいい」からこそ、「必ず乗り越えられる」と確信するからだ。
心理学、意外に面白いもんだ、と読後思う。