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教育の本質的な「ジレンマ」 |
2012年 3月 の投稿一覧
点Pとしての偉人論
ブッダは「場所」を持たなかった。
弟子と共に流浪を続け、たまに祇園精舎なり、竹林精舎という原点Oに戻ってくる存在であった。
つまり、ブッダは座標平面上をつねに移動する点Pであった。
キリストもそうであり、ムハンマドも原点Oから追放された点Pである。
流浪し続け(=ノマド)、1点に逗まらないからこそ多様な図形を座標平面上に描くことが出来た。
彼らは、常人には先の読むことのできないグラフを描き続けたのである。
その座標平面上に描かれた図形こそ、「聖書」なり「経典」なりに結実したのであった。
他者救済の要は移動性にある。
要は1点のみに自己を固定せず、常に移動し続ける点Pで在り続けることが求められる。
その過程の中で、哲学的知見なり宗教的着想を得ることになるのだろう。
(カントを除く)偉人たちは点Pであった。
せっかく札幌に行く私も、気分だけでも点Pになりたいと思う。
岡田尊司, 2009, 『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)より「アスペルガー症候群の子を指導する際のポイント
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岡田尊司, 2009, 『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)より「アスペルガー症候群の子を指導する際のポイント |
岡田尊司, 2009, 『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)より「アスペルガー症候群の子を指導する際のポイント
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岡田尊司, 2009, 『アスペルガー症候群』(幻冬舎新書)より「アスペルガー症候群の子を指導する際のポイント |
生徒も「わくわく」を求めている。
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生徒も「わくわく」を求めている。 |
映画『だんらんにっぽん』
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私が早稲田で学んだこと。
私が早稲田で学んだのは「偽の二項対立をするな」ということだった。
たとえば高校生時代の「切実な」悩みは「部活と勉学をどうやって両立するか」だった。
この背景には、「部活もやりたい。でも受験で結果も出したい。どうやったら両方うまく行くのだろうか」という思いが存在している。
この「悩み」を解決する方法は、当時の私が考えたもので3つある。
①部活のみに力を注ぐ。
②勉強のみに力を注ぐ。
③部活と勉強、両方に力を注ぐ。
①の場合、受験勉強がうまく行かなかった場合、その「後悔」を感じないか、というリスクがある。
私の高校はある大学の「系列校」(付属校みたいなものだが、学校法人が違う)であった。
私の同期生はみなその系列の大学に「推薦入学」する。
それでいいのであれば、①の選択は可能であった。
②の場合。①の逆であるが、そもそも私の高校では「勉強」しかしない人に対する評価はあまり高くなかった。
むしろ生徒の委員会活動や部活動、文化祭などに強く関わることが評価されていた。
③の場合。両方やるというのはもっともリスキーだ。
なぜならば、両方ダメな結果しか残せない場合があるからだ。
プロセスに満足できるなら、③が薦められる。
結局私は、③をやる形となった。厳密には私は生徒会活動が「両立」の一方の軸であった。
③の解決策こそ、「たいへんだけど、自分を成長させる」ものだと信じたからだった。
じっさい、私の高校の友人達の間でも、③の選択肢がもてはやされていた。
早稲田に入って学んだのは、①②③とも違う④の選択肢の存在だった。
④部活も勉強も、両方やらない。
④の選択肢の「すごさ」は、①〜③の前提をすべてひっくり返すところにある。
はじめは④を「不真面目」と思ってしまうことと思う。しかし、「そもそも、部活も勉強も、そんなに大事なのか」という問いかけをする点に、意味があるのである。
①〜③は「何かをしないといけない」という強迫観念に駆られた選択であった。
しかし、④は「それ以外にもやり方があるんじゃないの」という思いを提示するものだった。
④の発想を一度することで、①〜③の選択肢が生きてくる。
それは、①〜③は「何かをしないといけない」というマイナス志向から発している点である。
①〜③すべて、「まわりの評価」を求めている点では共通である。
つまり、何かで結果を出し、「まわり」から評価されたい、という思いが表れているものなのである。
「自分が本当に何をやりたいのか」が問われていないのだ。
学習心理学では、「内発的動機づけ」と「外発的動機づけ」という概念を用いる。
昔、「テストで100点とったら、ゲーム機を買ってあげるわよ」と親に言われた経験を持つ人はいないだろうか。
残念ながら私の親はそうではなかったのだが、この場合が「外発的動機づけ」である。
つまり、「誰かに何かをもらえるから」勉強する、という態度である。
「誰かにほめられるから」「評価されるから」学ぶという態度だ。
この「外発的動機づけ」、はじめは効果を発揮する。
しかし、勉強して「ゲーム機を買ってもらった」あとには、効果がなくなる。
ただそれだけの効果しかない。
一方、「内発的動機づけ」は異なる。
自分が「これを学びたい!」という思いから発している。
「これを学び、仕事に役立てたい」という思いからの学習である。
心理学的には「外発的動機づけ」よりも「内発的動機づけ」の方が効果的だ、という。
④の選択肢を考えることは、「内発的動機づけ」について考えることでもある。
つまり、「本当に受験も部活も、やる価値があるのか」という問い直しが可能になる。
今だから言えるが、高校生の時の私はまわりの「すごい」友人にコンプレックスを持っていた。
自分も、まわりから「すごい」と言われるようになりたい。
そんな「他人からの評価」が欲しくてたまらない弱い人間であった(今もそうかもしれない)。
そのため、受験も部活も、「本当に」やりたいことだったかと言われると疑問を感じてしまう。
ただ「東大に合格する自分」が、友人たちから「評価」されることだけを求めて、私は受験勉強をしたのであった。
受験勉強で結果を出しながらも、部活でも結果を出すことで「すごい」と言われたかっただけなのであった。
生徒会活動に精を出したのも、もとはといえば「すごい」と評価されたいだけであった。
④を考えるまで、私は厳密な意味で受験勉強をやる意味や部活動をやる意味を考えていなかったことに気づいたのであった。
ここまで考えれば、①〜③の選択肢の「甘さ」が見えてくるはずである。
なぜ「部活」か「勉強」かということで悩まないといけなかったのか、という根本原因が見えてくる。
それが早稲田で学んだ④の選択肢である。
要は私は他者からの評価をもとめていたのである。
「外発的動機づけ」でしか動いていなかったのだ。
この文章を読んでくださっている方には、あまり④の選択肢の意味が伝わっていないかも知れない。
しかし、④を一度考えることはすごく重要なのだ。
④を考えた後、①〜③の選択肢を見ると、①〜③の内容をさらに深めることが出来る。
やってみよう。
①’ 部活が楽しいから、部活に力を注ぐ。
②’ 学習するのが楽しいから、学習に力を注ぐ。
③’ 部活も勉強も両方楽しいから、両方やって両方とも楽しむ。
要は他人の評価のために一生懸命やる必要はなかったのだ。
早稲田で学んだ④の選択肢は、①〜③の内容を豊かにしてくれたのだ。
④の選択肢のお陰で「部活か勉学か」という「偽の二項対立」を乗り越える事ができるんのだ。
④の選択肢の存在は、私の持つ、物事への見方を大きく変えてくれた。
これが「大学」に行く意味であるし、学問をする意味なのだなあ、としみじみ思う。
金銭やものを媒介にしての教授でなければ、人は学習しないのではないか仮説。
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金銭やものを媒介にしての教授でなければ、人は学習しないのではないか仮説。 |
デュルタイ『教育学論集』日本デュルタイ協会訳, 以文社, 1987。
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デュルタイ『教育学論集』日本デュルタイ協会訳, 以文社, 1987。 |
「教育学は「教育という現象そのものを提示し、これをできるだけ明らかに心理学的に分析する」学問であり、とりわけ「教師と生徒の関係の叙述」を事とする学問である。そしてまさにこのことがデュルタイの教育学体系の中心課題であった」(254)
リチャード・ワイズマン, 2002, 『運のいい人、悪い人 運を鍛える四つの法則』矢羽野薫訳, 角川書店, 2004。
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リチャード・ワイズマン, 2002, 『運のいい人、悪い人 運を鍛える四つの法則』矢羽野薫訳, 角川書店, 2004。 |