名言

佐々木常夫, 2010, 『働く君に贈る25の言葉』WAVE出版.①

久しぶりに、心が震えるビジネス書を読んだ。
それが本書『働く君に贈る25の言葉』。

そうか、君は課長になったのか』の著者で、
東レの取締役を務めた佐々木氏の著書。

この人の話、私はDVDで見たことがあるけれど、
それはそれはすごい人。

 

息子さんが自閉症で、奥さんが鬱病+自殺未遂数度。
仕事でも忙しい部署の部長。
しかも、家族が東京にいるのに、大阪勤務
毎週、関東に戻り、家事をやり、月曜には大阪に出勤。
もう、「考えたくない」生活。

 

私の人生にも、苦しい時がありました。
覚悟を揺るがせるような試練が、次々と襲い掛かったのです。
長男の俊輔は自閉症という障害をもって生まれました。自閉症とは先天的なもので、育て方で治るものではありません。私たち夫婦は、ほとんど毎日のように、彼をサポートするために走り回らなければなりませんでした。(・・・)|
さらに、試練は訪れました。
妻の浩子が肝臓病を患い入退院を繰り返すようになったのです。しかも、俊輔にまつわる心労に加え、自分の病気のために家族に負担をかけていることを気に病んだことから、うつ病を併発するに至りました。
この間、会社ではまるで私の力を試すかのように、さまざまな部署への転勤が繰り返され、東京と大阪を6度も移動せざるをえませんでした。
妻のうつ病がひどかった時機には、経営企画室長という重責を担っていました。経営と現場の結節点に位置する要の役職でしたが、何人もの役員を上司とする立場でしたから、極めて大きなストレスを私に強いるものでもありました。
ときに叫び出したいような思いを抱えながらも、私は家族と仕事を両立させるために必死の思いで耐えていました。




しかし、決定的な出来事が起こります。
3度に及ぶ妻の自殺未遂です。
3回目のときは、もしも娘がたまたま発見しなけれな、妻は命を落としていたでしょう。(・・・)|

この直後の私はほとんど限界に来ていました。「何のためにこんなに苦労しているのか」と思い、「これはいったい何なのだ」「私の人生はどうなっているんだ」と、ほとんど自暴自棄の気持ちでした。
それでも、朝は訪れ、夜は来ます。私の気持ちも、少しずつ落ち着きを取り戻していきました。そして妻が、「ごめんな、お父さん、迷惑ばかりかけて」と心底情けなさそうに言うのを聞いて、「いちばん苦しんでいるのは彼女だろう。私ではない」と思い至ったのです。
「何のためにこんな苦労をしているのか」といった「何のため」という問題ではないのだ。要は、自分が出会った人生であり、自分が選んだ人生なのだ。それは運命として引き受けるしかない。恨んでも愚痴を言っても、事態は変わらないのだ−−。
私は、そう自分にいい聞かせて、再び人生に立ち向かう気力を取りも出したのです。(175-177頁)

 

その結果、奥さんから
この人からは、親よりも深い愛情をいただきました」(178頁)と言ってもらえるに至る。
この一言が、どれだけ嬉しかったことか」(178頁)。

 

いつも思い出すのは、「運命は引き受けよう」と言って微笑む母の姿です。26歳で未亡人になって、男4人兄弟を育てるために働きづめに働いた母です。しかし、母は愚痴を言うことなく、どんなときでもニコニコ笑っていました。
母は、いつも私の心の中にいました。そして、こう語りかけてくれたのです。|
運命を引き受けて、その中でがんばろうね。
がんばっても結果が出ないかもしれない。
だけど、頑張らなければ何も生まれないじゃないのー。(178-179頁)

 

不覚にも、涙してしまったところです。
運命を引き受けることこそ、生きるということなのです」(179頁)の名言は、いつまでも覚えていたいと思っています。

特にいいのは、『それでもなお、人を愛しなさい』からの引用部分。
孫引きですが、これは名言です。

1 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しなさい。

2 何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。それでもなお、良いことをしなさい。

3 成功すれば、嘘の友達と本物の敵を得ることになる。それでもなお、成功をしなさい。

4 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。それでもなお、良いことをしなさい。

5 正直で素直なあり方はあなたを無防備にするだろう。それでもなお、正直で素直なあなたでいなさい。

6 最大の考えをもった、もっとも大きな男女は、最小の心をもった、もっとも小さな男女によって打ち落とされるかもしれない。それでもなお、大きな考えをもちなさい。

7 人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていかない。それでもなお、弱者のために戦いなさい。

8 何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。それでもなお、築き上げなさい。

9 人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。それでもなお、人を助けなさい。

10 世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちをうけるかもしれない。それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。(39-40頁)

 

しみじみ、ジーンとくる。

9k=

 

こちらもどうぞ!

  1. 上阪徹, 2013, 『成功者3000人の言葉』飛鳥新社. (4)
  2. 湯浅誠, 2012, 『ヒーローを待っていても世界は変わらない』朝日新聞出版。 (4)
  3. 藤野英人, 2013, 『投資家が「お金」よりも大切にしていること』星海社新書.② (4)
  4. 中高生が「ちくまプリマー新書」を投げ出すのは、どんな時か? (4)

『「自由」はいかに可能か』読書会、開催!

本日2/28、『「自由」はいかに可能か』読書会を、読書会@札幌-帯広にて開催しました!

本書『「自由」はいかに可能か』は、私・藤本にとっては大学の学部・大学院の先輩にあたる苫野一徳さんの初の「哲学」著作。

奇しくも誕生日が同じという偶然も有りますが、その日に開催したことに(なんとなく)運命的なものを感じます。

それはさておき。

本書は自由の原理論を説いたもの。
私のような社会学くずれの人間にとって、「自由」や「正義」などはいくらでも/延々に議論できる対象です。

例)「人を殺してはいけないという反-自由権はいかに規定できるか」
例2)「教育によって人間は人間社会という暴力に侵され、それゆえに不自由である」

本書はそんな「不毛」な議論を断ち切ってくれます。

社会構想のための「原理」と認められうるのは、わたしの考えでは次の三点だけである。
①「欲望・関心相関性」の原理
②「人間的欲望の本質は『自由』である」という原理
③各人の「自由」の根本条件としての、「自由の相互承認」という社会原理(150)

 

読書会中、不毛な議論を終わらせるものとして「自由の本質を問うこの本は役立つよね」という意見が出ました。

ただ、「哲学者の引用によって【自由】を規定するのは、理論としてわかるけど、納得するのは難しい」との意見も出ています。

「自由」というのは日常語。
だからこそ哲学で議論する際は厳密さが必要。

カントやヘーゲルの言を引いて説明するのは、日常語としての「自由」と距離があるので、「腑に落ちた感」を出すというのはなかなか難しいなあ、と実感しています。

さて。

本書ではあまり気づかれていないけれどすごく大事なのは後半の「職業集団」に関するところ。

人は、何らかの職業を通して「現実的普遍のなかに位置を占る」、つまり人との関係において自己を自己たらしめる。わたしたちが”Who”(だれ)として現れ出ることを最も可能にするのは、多くの場合、このようなわたしたちの職業世界においてなのだ。
それはつまり、職業世界こそが、わたしたちにとってのより充実した「現われの空間」になる必要があるということだ。(242)

「現われの空間」とは、アーレントが『人間の条件』において示した、パブリック(公共圏)の条件である。

対話的関係性により、自己を認識し、対話により自己を変容する。
その過程の中で「自由」を実感できる場。

読書会の中では、事例として「奨学金制度」をもとに話しています。
奨学金制度。
要は低利子の借金をして大学に通う制度ですが、4年間フルで借りると数百万の借金

それを背負って社会に出ることは本当に「平等」「フェア」といえるのか?

学生個人としてだと、【まあ仕方ない】と思ってしまいます。

でも、学生団体のなかで奨学金制度について議論したり、
世間一般の人の意見を聞くと【これでいいの?】と思える制度です。

個人がいきなり「社会」と接すると、「まあ、仕方ない」「つらいけど、こんなものだろう」と思ってしまう制度も、「職業集団」的な学生の集まりや他の「大人」との議論に加わることで、
「これって、本当に自由の実質化なの?」と問題提起できます。

個人は、ハッキリ言って弱いです。
特に、日本のような「空気」全盛の社会にとっては、なおさらです。

だからこそ、「職業集団」的な対話の場・公共圏を用意していくことは必要なのでしょう。

「読書会@札幌-帯広」も、こうした公共圏を提示する場でありたいものです。

2Q==

化石になるのは、どれくらい?

化石。

例えば自然界で動物の骨が化石になって残る割合は、だいたい10億本のうち1本だろうと考えられています。人間のからだの骨は、一人あたり206本。いま日本に生きている全員の骨のうち、化石になれるのは全部で二十数本という計算になります。二十数本というと、一人の人間の骨の一割ほどにしかならない数なのです。(左巻健男『面白くて眠れなくなる地学』61頁)

化石になるのって、すごい確率!

9k=

久世浩司, 2014,『なぜ、一流の人はハードワークでも心が疲れないのか』SB Creative.①

私の周囲では「心が折れる」「つぶれる」「やられる」という言葉をしばしば、聞く。

仕事のなかで、やる気が極度になくなるとき、そういった言葉が出てくる。

かくいう私も、学生時代はあまり心折れない方だった。
しかし、大学院生以降、しばしば心折れることが、ある。

本書は、心折れても、あるいは「心折れそうなとき」、もとに戻す・元気になるための方途を説明している。

 1005330

心折れそうになっても「立ち直る」力。
それを本書では「レジリエンス」という。

このレジリエンスは、学習可能なものである。
(そうでなければ、本書を読む必要はなくなってしまう)

レジリエンス。

「変化や危機は避けられないもの」と捉え、「変化に適応できるように自分たちが変わらなくてはいけない」という積極的な姿勢がグローバルな政界・経済界のトップの主流になりつつあります。(4)

時代や状況、職場・人間関係が変化しても、その変化に自分が対応して適応していけることがレジリエンスの基本のようだ。

レジリエンスの高い人の特徴としては、大きく次の3つが挙げられます。
1つめが「回復力」で、逆境や困難に直面しても、心が折れて立ち直れなくなるのではなく、すぐに元の状態に戻ることができる、竹のようなしなやかさをもった心の状態です。
2つめが、「緩衝力」で、ストレスや予想外のショックなどの外的な圧力に対しても耐性がある、テニスボールのような弾力性のある精神、いわゆる打たれ強さを示します。|
3つめが「適応力」で、予期せぬ変化や危機に動揺して抵抗するのではなく、新たな現実を受け入れて合理的に対応する力です。道路の亀裂から芽を出して生存し、花を咲かせて繁栄するタンポポが「変化適応力」のひとつのメタファーとなります。(5-6)

では、具体的にはどのような人がレジリエンスのある人であるか。

ハードに仕事をしながらも、心が疲れにくい人は、レジリエンスを鍛える|習慣をもっていることでした。
その習慣とは、以下の3つです。

①ネガティブ連鎖をその日のうちに断ち切る習慣
②ストレス体験のたびにレジリエンス・マッスルを鍛える習慣
③ときおり立ち止まり、振り返りの時間をもつ習慣(7-8)

具体的には、レジリエンスを身につけるため、散歩などで体を動かすこと、「ありがとう」ということ、などなど、(この手の本としては月並みな)解決策を提示する。

その辺のオチが残念な本ではあるが、心折れずに元気に過ごすことを「レジリエンス」能力として日本語において定義した点において、本書には価値がある(ように感じる)。

2Q==

苫野一徳, 2014, 『「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学』②

哲学。
もともと私は哲学を〈世界観をそれぞれの視点に基づいて理論化したもの〉だと思っていた。

そのため、知り合いから「教育の原理論・目的論を現象学を用いて哲学を確立した人がいる」と聞いた時、「そんな人はいない」と即座に思った。

ちょうど私がラディカルな思想家イバン・イリイチ研究を大学院でやっていこう、と思っていた時期のことである。

220px-Ivan_Illich_artwork_1ちゃぶ台返しの得意なイリイチ(写真)は、「学校」を否定し、晩年には「教育」を否定する。
そして資本主義社会が、貨幣化出来ない「シャドウ・ワーク」によって支えられている点で、本質的に不平等であることを明らかにした。

イリイチにかぶれていたからこそ、よけいに教育の原理論・目的論の確立などということは「不可能」と思っていた。

しかし。

本書の著者・苫野一徳氏はそれをやってのけている。

方法論は現象学。
「自由とはなにか」
「誰もが納得できる原理論はなにか」
「教育で言うならば〈ゆとり教育か詰め込み教育か〉という〈あれかこれか〉の議論よりも、〈教育の本質的な目的はなにか、そのために何ができるか〉を目的状況相関的に判断することが必要」

・・・明快さを備えた議論を繰り広げる『どのような教育が「よい」教育か』を読んだ際、目が覚める思いがした。

9k=

さて、本書は「教育」ではなくさらに範囲を「そもそも」論に持って行き、「自由」について議論する内容。

『どのような教育が「よい」教育か』は、「自由の保障と自由の相互承認」をキーワードに教育を解き明かしていたのに対し、本書では「自由の原理論」それ自体をさぐっていく。

しかも哲学のジャーゴンを抑え、解明に。

わたしたちは、諸欲望によって規定されながらも、なおそこにおいて「我なしうる」と感じられることがある。わたしたちが「自由」を感じるのは、まさにそのような時なのだ。(81)

 

日々、わたしたちは様々な規定性の中を生きている。しかしその上でなお、この諸規定性を乗り越えた時、あるいは乗り越えられるかもしれないと感じた時、わたしたちは「自由」を感じる|ことができるのだ。(82-82)

 

 欲望の対象は様々だが、どのようなものを欲するにせよ、わたしたちはそのような欲望を持ってしまっている時点で、常にすでに「自由」を欲している。諸欲望に規定されているということは、つまり同時に、この諸規定性から「自由」になりたいと欲しているということなのだ。
これが、人間的欲望の本質は「自由」であるという言葉の意味である。(89)

「自由」の本質は特定の状態にではなく、わたしたちの”感度”にあるのだ。繰り返し述べてきたように、「諸規定性における選択・決定可能性」の”感度”、これこそが「自由」の本質なのだ。(102)

「自由」について考察するだけでなく、政治・経済などの分野での社会構想に「使える」原理を出していく。

2Q==

このことは、やっぱり凄い、と思う。

☆余談ですが、苫野さんとは大学の学部学科、大学院の研究科も同じ、文字通りの先輩にあたります。うちの教育学部も、なかなかやるもんです。

 

自習室の哲学

自習室に居ると、なぜか勉強が進むのはなぜだろう。
高校時代、よく学校の自習室に行っていた。

imgres

図書館だと、「本」の誘惑がある。
家では「布団」の誘惑がある。

そんなわけで、自習室のカビ臭い香りを嗅ぎながら勉強をしていたものだった。

昔から私は一人だけではあまり勉強する気が起きなかった。
でも、近くに誰かが勉強している自習室では学習が進んでいた。

最近には「有料自習室」も多く存在しており、「月8000円で使い放題」というところもある。

study-1

社会人になってからも自習室は求められている。

なぜ、一人では学習は進まないのだろう?
なぜ、近くに勉強している人がいると学習が進むのだろう?

images

私がよく言う話だが、勉強の困難さは「インプットと結果が出るまでの期間の長さ」によって起こる。

英語を勉強した翌日、英語がペラペラになっていれば誰でも英語を勉強する。
漢字を1日でも勉強しないと、翌日漢字が書けなくなっているのなら、誰でも漢字を学習する。

なぜか?
それは「インプットと結果が出るまでの期間の長さ」が短いからだ。

1日真剣に勉強しても、結果が出るのは先である。
手応えがない。
そのため、「まあ勉強しなくてもいいか」となっていく(行動分析学)。

一人では学習が進まないのは、一人で学習するよりも遊んだり寝たりするほうが楽だからである。

「自習室」は、そこに「ただ近くで勉強している他者」を与えてくれる。

一人で勉強することはつまらない。
しかし、他者がいることで「自分はこれでいいのか」という視点が入る。

自習室でただ他者が近くにいる(=共在状況)ことにより、視点がメタ的になるのである。

自習室で勉強が進むのは、自分をより高い場所から見つめた「メタ視点」が提供されるためである。

他者がただいる。
それだけで人はメタ視点が内包される。

images-1

自習室はそんなことを教えてくれる。

 

 

教育名言集④〜姿を消すことの大切さ〜

差し出がましい熱意と同様に、教育過剰はどんなものでも慎むべきだろう。教育学者の悪い癖の一つは、教育学を振り回しすぎることであるから。潮時を見て姿を消すことを知るべきである。われわれの生徒たちにとっては、これから個人的な生の冒険が始まろうとしており、それはそれなりに一つの教育となっていくだろう。そして今や生きることそれ自体が、彼らの偉大な教師となっていくのである。

(モーリス・ドベス『教育の段階』202頁)

フランク・スミス『なぜ、学んだものをすぐに忘れるのだろう?』より。

「学校での問題は、「生徒が学んでいない」ということではなく、「彼らが何を学ぶのか」である」(13)

「役に立つ学びというのは、普段の生活から時間を割いて真剣な学習に取り組む時に起こるものではない。学びとは、私たちの普段の生活に不可避な行為であり、役に立つ学びは、私たちが普段の心構えでいる時にのみ行われる」(19)

「逆説的だが、暗記しようとする努力は理解を破壊してしまうので、結局は暗記を妨げてしまう」(143)

「どんな学校であれ、自由化された学校の本質は、「コミュニティであること」です。校長、教師、アシスタント教師、そして生徒といった階層社会ではなく、おもしろい活動に取り組むために人びとが集まる場所であるべきなのです」(168)