2008年 11月 の投稿一覧

書評『超「超」整理法』(野口悠紀雄)

 中公新書の名作に『「超」整理法』がある。「押し出し式ファイリング」という整理法を世に提唱した本である。梅棹忠夫の『知的生産の技術』の次くらいに読んだ本だ。当時私は、中学生であった。「超」整理法とは、《紙媒体の情報は、大きな封筒にいれ、本棚の端から順に入れていく。使用するたびに、使った資料を再び端に入れる》という整理法である。項目ごとに袋を作る事をしない。一見、整理しているように見えない。けれど、使ってみれば利便性がよくわかる。
 野口は『「超」整理法』以外にも、多くの著書を持つ。そのなかでは常に、《無意味な事はしない。誤解を起こさない》という原則に従った理論を立ててきたようにみえる。『「超」整理法』では無駄な整理を批判し、『「超」発想法』ではKJ法のような機械的発想法の限界を指摘し、『「超」勉強法』では伝統的学習法を批評した。そしてそれぞれについて、新たな方法論を示した。
 『超「超」整理法』は、情報社会の現代に合う形で、野口が『「超」整理法』を書き直した本である。『「超」整理法』は今から15年前の発行。開いてみると「FAXの活用法」やウインドウズ以前のパソコンを用いた文書作成法について言及されている。
 『超「超」整理法』は、これから研究者を目指す人や知的生産を行っていきたい人にとって、福音の書となる。それは今までの「論文の書き方」や「研究の仕方」といった書籍に書かれていない技法が大量に書かれているからだ。《Gメールを使用し、データをメールするようにすれば、デジタル・オフィスは知らぬ間に完成する》、《「検索力」の重要性》、《これから必要とされるのは、問題設定・仮説構築力・モデルでものを考える力である》などなど。
 個人的に興味深かったのは、次の部分である。

問題を捉え、仮説を立てるには、「考え抜く」しかない。では、考え抜く能力を高める事は可能だろうか? 私は可能だと思う。
 確実に言えるのは、「知識が増えれば、この能力が高まる」ということだ。社会科学、人文科学の分野では、明らかにそうである。ビジネスにおいても、そうだろう。広く、日常的なことについてもそうである。
 検索で得られる個々の「情報」が断片的なフローであるとすると、それらが集積したストックが「知識」だ。その体系は「理論」と言ってもよい。たとえば、経済問題であれば、経済学の知識がこれに該当する。(pp244〜245)

 いくら「検索能力で差がつく」という時代になっても、基本的にはきちっと体系だった学問をしていく必要がある、というのだ。気軽にググれば「情報」は簡単に手に入る。しかし、それらの情報をどのように活用できるかは、体系だった知識があるかどうかによって変わってくる。
 真に「考える」ためには、体系だった勉学が必要なのだと気づいたのであった。
/野口悠紀雄『超「超」整理法』(2008年、講談社)

紅白

今年の紅白は、民放関係のアーティストが多く出る。

ポニョ、羞恥心、相棒・・・

ニュースでは「大連立紅白」としていた。

視聴者が楽しめるなら、自社ブランドにこだわる事なく、各社で協力していく。この発想が、これから重要になるだろう。

そうでないと、テレビ離れはますます進むこととなる。

人間原点に回帰せよ!

書評 神野直彦『人間回復の経済学』(2002年、岩波新書)

 大学に3年間もいれば、いろいろなウワサを耳にする。楽勝授業、「ためになる」授業のほか、アルバイト情報もかなり集まってくる。嘘か本当かは分からないが、「山崎パン」バイトの話として、次の内容を聞いたことがある。《ベルトコンベアの上を流れてくる菓子パンの上に、ひたすらゴマを振っていくだけ》。きいた瞬間、チャップリンの映画『モダンタイムス』を思い起こした。「発狂して人間ではなくなるまで、機械の指示にしたがわざるをえな」(『人間回復の経済学』75項)い仕事、とてもじゃないがやっていられない。しかし、現代の労働実体を調べていくうち、その「やっていられない」仕事をしている人々が実際に存在していることを知った。本書『人間回復の経済学』にも、言及されている。苦痛を感じるほどに非人間的な仕事を要求する、現代の企業。考えるにつれ、「就職したくないな」との思いが強くなる。
 リストラやフリーターの存在無しに、現在の経済を語ることはできない。先日もTVをマレーシア料理店で観ていると「シティ・グループが5万人のリストラ」と報道していた。《現在というきびしい時代においては、「経済」的に見てそれは仕方のないことだ》。私たちは無意識にこう考えているのではないか。著者の神野は「否!」と叫ぶ。

人間が利己心にもとづく経済人だという主流派経済学の仮説は、人間のある側面を純化した理論的仮説にすぎない。人間が経済人として生きなければならないという行動規範ではない。人間は悲しみや苦しみを分かちあい、やさしさや愛情を与えあって生きている。ところが、いつのまにやら、その理論的前提が、人間は経済人として生きなければならないという行動の規範に仕立てあげられている。(ⅱ項)

 この指摘は非常に興味深い。村上ファンド事件の際、村上氏が「金儲けしちゃダメなんですか?」という発言をしていたのは記憶に新しい。村上氏の言葉には《「経済人」であるのが正しいことだ》、との思いが込められている。村上氏のみならず、現代の資本主義や市場システムを見ていると、社会を動かすのは「儲けたい」という人間の利己心であるかのように感じる。けれど、実際のところ、それは「人間のある側面を純化した理論的仮説にすぎない」のだ。
人間原点という言葉。私の好きな言葉の一つである(余談だが、海外翻訳を読むと「最も~なもののひとつ」という言葉が多用されている。個人的には断言を逃げているようで嫌なのであるが、これも否定的意味での「大人」ワザのひとつであろう。つい使ってしまう)。神野は端的に言えば《経済システムを、もっと人間的なものとすべきだ》と主張する。
 この「人間的」という言葉は、非常に定義しづらい言葉なのである。暉峻淑子[1](てるおか・いつこ)のいう、生活面の「豊かさ」を実現すること、とでも言おうか。
人間が人間らしく生きられる社会の建設を、経済を用いて行う。これが神野のテーマである。そのために「産業社会」を超えた「知識社会」建設を行っているスウェーデンに、日本の未来の方向性を見ている。
 もともと経済という言葉は、「経世済民の術[2]」を縮めて用いられるようになった言葉である。「世の中をよく治めて人々を苦しみから救うこと」が元の意味である。人々を不幸から救うため、との意味があったのだ。現状の《リストラや搾取労働の正当化のための経済学》とは真逆である。本来は人間のため(端的には「苦しんでいる庶民のため」)に経済学があるべきであるのだ。
 経済という言葉が、人間のために作られたのであるならば、今の経済も原点に帰る必要がある。より人間的な経済システム構築を図っていくべきだといえよう。
 次に示す神野の言葉は、人間原点の経済構築を図る上で思想的支えとなるものである。

経済システムの創造主は、人間である。人間は経済システムを、人間の幸福に役立つ方向にデザインすることも、逆に人間を不幸へと導いてしまうこともできる。(185項)

人間は経済人ではない。人間は知恵のある人であることを忘れてはならない。人間の未来を神の見えざる手にゆだねるのではなく、知恵のある人としての人間が、人間のめざす未来を創造しなければならない。(187項)

 神野の姿は、私に《現状の問題を見て、「これは学問的に見て、仕方のないことだ」と思ってはならないこと》を教えてくれた。また《学問は、究極的には人間のため(人間中心主義とは違う!)であること》も伝えてくれた。教育の現状の悲惨さに対し、「仕方がないことだ」と思ってはならない。どうすればより「人間のため」の教育にしていけるのか。このテーマは私のこれから先の問題意識としていこう。(了)

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神野直彦『人間回復の経済学』(2002年、岩波新書)
[1] 岩波新書『豊かさとは何か』の著者。バブル期の日本と西ドイツとを比較し、《日本は物質的には豊かかもしれないが、生活の質の面では豊かであるといえるのか》と問題提起をした。
[2] 『新明解四字熟語辞典』では、次のように説明されている。〔世の中をよく治めて人々を苦しみから救うこと。また、そうした政治をいう。▽「経」は治める、統治する。「済民」は人民の難儀を救済すること。「済」は救う、援助する意。「経世済民」を略して「経済」という語となった〕。

じっくり学ぶ、ということ

私は、じっくりと学んでいきたい。熟読すべき本、初めて読む分野の本は、意味を理解しようと読む。インターネットを辞書とする。そして血肉にするため、打っていく。ブログや書評にしていく。そうして、教育学の本質を捉え、自ら学校を作り、教育実践を本格的にしていきたい。

本屋に並ぶ「勉強法」の本は、こういった「ゆっくりとした学び」は意図していないようだ。「すぐに結果が出る」勉強、「試験に受かる」勉強本が流行する。『収入10倍アップの勉強法』なる本があるが、高度経済成長の時代でもないのに、あたかも「学べば収入が上がる」という風に思えてしまう。思うに、学んだ結果というものはそんなすぐに出るものではない。個人的思いだが、カネのためには勉強したくはない、と思うのである。学ぶのは自分のためである。その「自分のため」とは、純粋に貨幣のための学びではない。

社会的アンバランス。

あの右翼新聞たる産経に、ほのぼの漫画『ひなちゃんの日常』が載り、主義主張の不明瞭な「中間」を自称する毎日に、風刺が強めの『アサッテ君』が載っている。同様の傾向は続き、左翼の強い朝日には『ののちゃん』という関西弁のキツい「日常」系の漫画が連載されている。読売はいわずと知れた『コボちゃん』。これは『ののちゃん』的要素と『アサッテ君』的要素が混在している。
 漫画と新聞は、必ずしも連動していない。いわば「社の良心」であるか、「無法地帯」かのどちらかである。

子どもであることの損さ

「子どもである」というだけで人間はだいぶ不利益を被っている。しなくてもいい苦労をすることになる。
例えば夜の外出。子どもを「保護しよう」としすぎると、子どもの自由は吹き飛んでしまう。中高生の不満の大部分は、電車や映画館では「大人」扱いされるにもかかわらず、社会において、また家庭においては相変わらず「子ども」と扱われるために発生する。これはどうしようもない事なのだろうか? 「大金を子どもが持つな」というのもそうである。大人は、普通に会社でジュースを飲むけれど、子どもは授業中に飲んではいけないというものそうである。
子どもであることへの不満が、非行や反社会的行動として現れる。子どもの非行は、大人を目指すだけの事なのではないか。酒・タバコは大人もする。犯罪は普通の大人が行う。万引き主婦すらいる中で、なぜ子どもだけは必要以上に処罰されるのだろうか? 大人が同様の事をしても、「この人の行く末が心配だ」とはならない。その分、社会的信用はなくなる。子どもは社会的信用のみならず、「この子の将来が心配だ」と時にはその子どもよりも道徳性の低いように見える教員によって罰される。
どうも子どもが子どもである事が難しい時代のようだ。俺はどちらかと言えば戦後までの「子どもを放っておいてくれる時代」の方が気楽であった気がする。中世的な「小さな大人」である方が楽そうである。
こういうことを西武バスの中で思った。子どもが優先席に座っており、「なんでそこに座っているのだ」との大人の視線が感じられた瞬間の着想である。

ウェブ時代のメモ術

ウェブ時代、こまごました報告メモは主語をはっきりさせてGメールに携帯から送る。

検索ワードをかければ必要な情報がすぐにでる。この日、どこにいったか、誰とあい何を話しか。

仕事の終わる度にメールすれば、PDCAサイクルもまわり始める。書く段階で思い出すからだ。

往々にして、せっかくの報告書は活用されずに死蔵される。

しかし検索できるGメールなら全ての情報が検索とともに蘇るのである。

切る喜び

この言葉には言外に「着物の着付けをマスターできないような人は『切る』という喜び」がある。