2011年 8月 の投稿一覧

動物園

一瞬、感染に見えた。

寺山修司, 2009, 『寺山修司著作集 第3巻 戯曲』クインテッセンス出版株式会社。より「邪宗門」

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寺山修司「邪宗門」に見られる構築主義的発想。

山太郎 だとすれば、その黒衣を操っていたのは一体誰なんだ?
新高 それは、ことばよ。
佐々木 じゃあ、そのことばを操っていたのは一体誰なんだ?
新高 それは、作者よ。
そして、作者を操っていたのは、夕暮れの憂鬱だの、遠い国の戦争だの、一服のたばこの煙よ。そして、その夕暮れの憂鬱だの、遠い国の戦争だの、一服のたばこの煙だのを操っていたのは、時の流れ。
時の流れを操っていたのは、糸まき、歴史。いいえ、操っていたものの一番後にあるものを見る事なんか誰にも出来ない。|
たとえ、一言でも台詞を言った時から、逃れる事の出来ない芝居地獄。
終わる事なんかない。どんな芝居えも終る事なんかない。ただ、出し物が変わるだけ。さあ、みんな役割を変えましょう。
衣装を脱いで出て来て頂戴。
(寺山修司, 2009, 『寺山修司著作集 第3巻 戯曲』クインテッセンス出版株式会社, pp.220-221「邪宗門」)

 寺山修司の戯曲「邪宗門」のラストは、意外に構築主義的。我々は言葉に縛られている。その意味では日常も「逃れる事の出来ない芝居地獄」。ゴフマンのいう表局域の社会的役割関係から逃れられない。でも、「役割を変え」ることはできる。それが主体の抵抗可能性だ。

Cicero, 44 B.C., Laelius de Amicitia.(=中務哲郎訳『友情について』岩波書店, 2004.)

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Cicero, 44 B.C., Laelius de Amicitia.(=中務哲郎訳『友情について』岩波書店, 2004.)

 キケロの友情論。友情論の古典である。3人の男の会話体のなかで友情論が交わされる。警句集として読むことができ、なかなか興味深い書物である。
 ただ、いまの時代、寺山修司が茶化して語る以外、友情について大真面目に語ることは一種のパロディになってしまう。そのあたりにポストモダンの「哀しさ」がある。
 この本を読もうとしたのは、帰省時に持ってきた本のうち『言葉と物』以外に読む選択肢を設けるためである。あとはルネサンスについて勉強しているので、ルネサンス期に評価された「人文主義」の代表人物の本を読もうと思ったためである。
 気になる点は一つ。当時の「友情」というのは同性愛的な意味もあるのだろうか、という点である。
 以下は抜粋から。
「つまり友情とは、神界及び人間界のあらゆることについての、好意と親愛の情に裏うちされた意見の一致に他ならない、ということだ」(25)
「まさにこの徳が友情を生みかつ保ち、徳なくしては友情は決して存在しえないのである」(25)
「友情は数限りない大きな美点を持っているが、疑いもなく最大の美点は、良き希望で未来を照らし、魂が力を失い挫けることのないようにする、ということだ。それは、真の友人を見つめる者は、いわば自分の似姿を見つめることになるからだ。それ故、友人は、その場にいなくても現前し、貧しくとも富者に、弱くとも壮者になるし、これは更に曰く言いがたいことだが、死んでも生きているのだ。その者たちを友人たちのかくも手厚い礼が、思い出が、哀惜の念が見送るところから、逝く者の死は幸せなものと、残された者の生は称えるべきものと見えるのだ」(27)
「大抵の人は、恥知らずに、とは言わぬまでも理不尽にも、自分ではなれないような友人を欲しがり、こちらからは与えないものを友人から期待する。まず自分が善い人間になって、それから自分に似た人を求めるのが順当なのに」(67-68)
「愛してしまってから判断するのでなく、判断してから愛さなければならない。それなのにわれわれは、注意を怠ってひどい目に遭う場合が多いのだが、とりわけ友人を選び敬う場合にそうなのだ」(69)
「友人の語る真実が聞けないほど真実に対して耳塞がれてしまっている者は、救われる見込みがない」(73-74)

映画『おじいさんと草原の小学校』

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映画『おじいさんと草原の小学校』

 ある日(2004年)、ケニアにおいて、教育の無償化Free Educationが実現される。「すべての人に」教育を受ける権利がある、との宣伝文をもとに、地方の小学校にマルゲという老人がやってくるという物語である。実は彼がケニア独立の立役者、マウマウ団であったということがこの物語の鍵を握っている。
 映画内で、何度も回想シーンが出てくる。イギリスからの独立にあたり、妻と子どもを殺されるシーンが繰り返される。その象徴たる大統領府からの「手紙」を読むために、マルゲは学校に入る。それには、自分の過去の苦しみの精算をしたい、との意志があったことだろう。過去を乗り越えるためには勉強が必要なのだと思う。
 本作から思ったことは次の2点。

①教育の輝きと教育の持つ夢を再確認できた。別にマルゲは「一人」で学べばよかったのでなく、小学校的なコミュニティというか、公共圏の中での「学び」を志向していたように思える。

②Free Educationということが希望だった頃のことを観ることが出来た。
 こんな「輝き」のあった教育も、一部の生徒にとっては「牢獄」や「不自由」の象徴になってしまう。マルゲが止めようとした子ども同士のいじめも、学校が重荷になる一つのきっかけとなった。
 「学校」の持っていた輝きは、まさに自分たちが獲得した権利と認識された瞬間にのみ、存在するものなのかもしれない。それが制度化し、普遍的なもの・自明なものとなった瞬間に、「輝き」は失せるのだ。
 イリイチを好む私のような人物は、学校の「輝き」を否定する。しかし、教育を受ける権利が体制側から勝ち取ってきたものであるという点は忘れてはならないであろうと思った。
 さて、私はこの2日の間に、妙に似た映画を2本見ている。今日の『おじいさんと草原の小学校』、昨日の『かすかな光へ』である。『かすかな光へ』は教育学者・太田堯(おおた・あきら)のドキュメンタリーである。『おじいさんと草原の小学校』の主人公・マルゲは84歳で「学に志」した。太田堯は92歳の現在も教育サークルに関わったり、地元埼玉での環境教育活動や講演会・現場の見学などに余念がない。老いたとしても学ぶ態度を、自分も見習いたい、と強く思った。
 最後に一点だけ。タイトルと違い、言うほど「草原」は出てこない映画である。
(神保町・岩波ホールにて)