学校教育現場でも、
自己啓発の分野でも、
金子みすゞはおおく取り上げられる。
「私と小鳥と鈴と」は、定番中の定番。
「みんなちがって、みんないい」
これが定番なのであるが、私はどうしてもこの詩が好きになれない。
むしろ、嫌っている。
そもそも前提がおかしい。
この詩では「私」と「小鳥」と「鈴」の同格性がまとめられる。
しかし、こんな論理性の飛躍を許していいのであろうか。
金子みすゞのこの詩を引く時、引用者は「他者を認め合う」ことを訴える。
「それぞれの個性を認めよう」と述べる。
この金子みすゞの詩は「他者」ですらない「小鳥」と、無生物の「鈴」を「私」と同一視する。
このことを「他者」の比喩として使うのはいかがなものか。
詩心(ポエジー)であるからそれでいい。
そんな視点もあるであろう。
けれど、明らかに異質な「私」「小鳥」「鈴」を一緒くたにする「暴力性」を私は感じてしまう。
「私」と「あなた」と「あの人」のような三者を述べる場合、この詩の問題性はなくなるであろう、とかんがえられる。
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