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第5回 子ども✕教育タベリバ

本日5/12(日)、第5回 子ども✕教育タベリバ、開催しました! 

毎回、若者協力事業所Link Nextと日本ノマド・エジュケーション協会共催で行なっています。

今回のテーマは・・・
「遊びって何だろう」。

 子ども時代の遊びや大人になってからの遊びについて、
総合的に考えていきました。

 

はじめに日本ノマド・エジュケーション協会の藤本から、「子どもと遊びの意味」についてプレゼンテーション。

漫才とゲームを例にあげ、
「自分の好きなこと・遊びを深めると生き方や人生の知恵を
 学ぶことができます」
・・・とお伝えしました。 

続いてLink Nextの田中さんの、「遊びを分類しよう」というワークショップ。

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 グループで「遊び」を分類し、発表していきます。
その後、新たな遊びについてを考え、発表していきました。

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ここで考えた遊びを、また次回にやってみよう!というお話になっております。 

参加者からも、「いろんな人とディスカッションできて有意義でした」という声を頂いております。

 

次回は6/23(日)12:00-14:30、Link Nextで実施致します。

ご参加、お待ちしております!

いわさきちひろと「子ども時代」

いわさきちひろの絵は教育関係者にとっては「おなじみ」だ。

絵本を始め教科書の挿絵など、「どこかで見た」ものとなっている。

 

そんないわさきちひろだが、意外に子どもの「笑顔」を描いていないことに気づいた。

子ども時代のイメージとして、多くの人は「笑顔の子ども」を思い浮かべる。

しかしいわさきちひろは熱中する顔や子どもの悲哀を描くことで子どものリアリティを描いている。

子ども時代や若い時代は、
思っているほどバラ色ではない。

そんな当たり前の事実をいわさきちひろの絵は教えてくれるように思う。

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GWなので行った、札幌の「いわさきちひろ展」の感想です。

 

いわさきちひろ展https://event.hokkaido-np.co.jp/chihiro/outline/index.html

「ちゃんと」は「ちゃんと」は伝わらない〜人間は「ちゃんと」という言葉を理解できない。〜

あなたは今日、何回「ちゃんと」という言葉を聞いたでしょうか?

「食事の前に、ちゃんと手を洗いなさい」

「明日はもっとちゃんとした服装にしてきなさい」

「ちゃんと話を聞いていたのか?」

「仕事くらいちゃんとしないとダメだぞ」

「ちゃんと」という言葉は、日常会話で「死ぬほど」使われます。

そして困ったことに、大部分の「ちゃんと」は、言う側の裁量で決められます。

例えば、

「食事の前に、ちゃんと手を洗いなさい」

の場合、言う側は、

「食事の前は石鹸でゴシゴシと手を少なくとも10回くらいはこすり、水で綺麗に洗い流して、清潔なタオルなどで手を拭くこと」を想定しています(たぶん)。

でも言われる側にとっては、「水を流しながら2回ほど手をこする」ことが「ちゃんと手を洗う」の範囲なのです(たぶん)。

 

「明日はちゃんとした服装にしてきなさい」の場合、言う側は、

「明日はアイロンのかかったワイシャツを着て、ネクタイも左右対称・ベルトの上くらいまでで締め、折り目の着いたスラックスを履いて、光沢のある革靴を履いてくること」を想定しています(たぶん)。

そのうえ、「頭は寝ぐせを直し、七三分けにはしなくとも自己主張のある髪型にはしてほしくない」というのが「ちゃんとした服装」の範囲です(たぶん)。

でも言われる側にとっては「とりあえずワイシャツとスーツであればなんでもいいんでしょ」という意味になるのです(たぶん)。

「ちゃんと話を聞いていたのか?」「仕事くらいちゃんとしないとダメだぞ」も、言う側にとっては「目を見て、メモを取って頷きながら話をきく」ことや

「勤務中は携帯電話を開かず、黙々とPCに向かい、少なくとも5秒に1回くらいはクリックの音かキーボードの音がして、目はディスプレイに釘付けになっており、会社のアドレスで社用メールを送る」ことが「ちゃんと」の範囲なのです(たぶん)。

でも言われる側にとってはもっとゆるい状態が「ちゃんと」の範囲なのです。

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具体例ばかり出してしまいました。

でも大事なことをここでは伝えています。

それは「ちゃんと」の範囲は伝わることはない、ということです。

世にいる親や教員・部下と接する上司たちは「ちゃんと」を使いたがります。

 

でもその「ちゃんと」は伝わることはないのです。

つまり、「ちゃんと」は理解されないのです。

「ちゃんと」は禁断の言葉です。

使うと、相手が100%「理解できなく」なります。

自分の思っている範囲の「ちゃんと」を、聞き手が理解することは100%、ありません。

であれば、親・教員・上司は「ちゃんと」を使ってはいけないのです。

「ちゃんと」の代わりに、自分の考える「ちゃんと」の範囲を具体的に伝えなければならないのです。

英語で「チャント」は「祈る」という意味。
日本語の「ちゃんと」はお正月の初詣同様、「叶わない」意味の「ちゃんと」なのです(わかりにくい)。

これからは自分の考える「ちゃんと」の中身・範囲を、「ちゃんと」伝えていくことが必要ですね。

PCはアイデアを殺す道具?

さいきん、というよりここ数年、紙よりもPCでメモを取ることが多くなりました。

 

おそらく、皆さんもそういう方が多いと思います。

 

昔は起動時間が気になりましたが、MacBook Airはパッと開いてちょっとするとすぐ打てる。

実に便利なものです。

 

そのためもっぱら文字を書くのはPCで行なっています。

 

そのことに「弊害」があることに、ようやく最近、気づきました。

 

『プレゼンテーションZEN』を読んだためです。

 

世の中、見ていて眠くなる・ツラくなるプレゼンテーションが多いのはなぜか?

それをテーマに書かれた本です。

 

その理由として本書は、

〈いきなりPCでプレゼンテーションのデータを作ってしまうため〉と説明します。

 

PowerPointやKeynoteといったプレゼンテーションソフトはたしかに便利。

でも、プレゼンのやり方を考える際からいきなり使ってしまうと、

プレゼンソフトのテンプレート通り「箇条書き」だらけのつまらないプレゼンになってしまいます。

 

本書は写真の活用や「シンプル」を極めるなど、

実に実用的なテクニックが満載。

 

でも印象に残るのは、〈いきなりPCを使ってしまう〉ことの弊害の大きさ、です。

 

冒頭に書いたメモの話もそうです。

いきなりPCに打つと、その瞬間アイデアは「文字」の形に縛られます。

大体の場合、「箇条書き」の制約を受けます。

 

絵で書いたりキーワードを丸と矢印でつないだメモのほうが、

さらなるアイデアを生んだかもしれない。

・・・そんなふうに感じます。


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そんなわけで、いきなりPCにメモするのでなく、

さいきんは紙にマインドマップなりフィッシュボーン法なりで書くようにしています。

 

PCをいきなり使う時よりも、アイデアの自由度が広まったように感じます。

 

マクルーハンという学者は「メディアはメッセージである」といいました。

文字で書くか絵で書くか。

紙に書くかPCに書くか。

こういった書字形式も「メディア」である以上、

「アイデアの書き留め方」がアイデアのメッセージ性を強めも弱めもするのです。

 

この点、「アイデア」が命である職種の人は気にかけるべきかもしれません。

 

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【日曜バー】寿司ナイト、大好評!

本日4/14(日)、Coworking Cafe 36にて寿司ナイトを開催!

普段はアルバイトで寿司を握るスーパー学生・木下隼(きのした・はやと)さんに
料理を担当してもらいます。

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アクティブな学生をはじめ、行動派な人々がCoworking Cafe に来ています。

その人達が自然につながりあい、Facebookの申請をしている様子が印象的でした。

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こんなとき、「日本ノマド・エジュケーション協会としてイベントをして来てよかったなあ」とおもいます。

来て下さった方からも、「高い寿司屋はいくらでもあるけど、こうやってアットホームな場所って、いいですねえ」としみじみ語ってもらえるなど、やりがいのあるイベントとなっています。

気骨ある生き方

さいきん、明治から昭和期の実業家の本を読むのにはまっています。

出光公三、

松下幸之助、

本多静六、

渋沢栄一etc,etc.

彼らのバイタリティは、やっぱりすごいです。

「明治人の気骨」というわけではないけど、

「何もない」時代に何かをなそうとした気概。

これ、僕も欲しいなー、と思います。

人には、年寄りだとか若いとかに関係なく、誰でもわたしのように「これだけは譲れない」というところがぜひあって欲しいものである。そうでないと、人の一生というものが、まったく生き甲斐のないものになってしまう。(渋沢栄一『現代語訳 論語と算盤』

 

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こういう生き方、したいものです。

『「ふり」の自己分析』

石田春夫『「ふり」の自己分析 他者と根源自己』講談社現代新書(1989)

〜今日は名言集的に、抜粋を掲載します〜

「「よい人間」であることを教えこまれた人間は、「よい人間のふりをする」人間に、容易に騙されてしまうのである」(158)

「うつ病者の多くは人一倍よい人間であろうと努めてきた人々であり、事実真面目なよい人間であるから、そのような人が自分から死を選ぶというのはいかにも残念なことである」(176)

「生きているかぎり、よく生きること、そして死が来たらよく死ぬこと。生きるときは生ききること、そして死ぬときは死にきること。生を学び、死を学ぶ。それが独りとして生まれ、独りで死ぬべき「私」の生死なのであり、私の最後の「ふり」である」(178)

ゴールを設定しよう

この間、ある人と飲みに行きました。

地域活性化について語り合うというひととき。

その中でふと気づいたのが、「地域活性化って、何を持って言うのだろう」ということです。

 

「地域活性化」。

多くの人が言うわりに意味・狙いが「あいまい」な言葉です。

 

「地域活性化」。

コミュニティカフェを運営することが地域活性化なのか、

大卒の若者がその場で働く場所があるのが地域活性化なのか。

工業団地を誘致するのも「地域活性化」ならば、

「葉っぱを売る」のも「地域活性化」です。

 

でもみんな一緒くたにして「地域活性化」と言っています。

 

なんでも言えてしまう状態だと、「何をやっていいかわからない」になります。

 

教育についてもこれが言えます。

「教育を良くしよう」という際、

学力の全体的な引き上げをいうのか、

地域とつながる授業をすることをいうのか、

「情報科」を入試科目にすることなのか、

特別支援教育にもっと金を出すことなのか、

みんなあいまいです。

 

ゴールを決めなければ、有効な手立てが取れません。

 

逆にゴールさえ決めれば、後は簡単です。


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私の「地域活性化」とは、「大卒の若者がとりあえずその町に住んで、

住民税を納めること」をいいます。

雇用をその町に作らなくても、そこから通勤出来ればそれでよし、の立場です。

 

ここに「コミュニティ・カフェ」などを入れるから話が見えなくなります。

 

いったいゴールはどこなのか。

明確化することが必要ですね。

去りゆく一切は…

「去り行く一切は比喩にすぎない」シュペングラー

 

比喩とはつまり、想像の産物。

人間が頭でつくったもの。

 

これは「ユーモア」と同じだ。

すべてはユーモアだ。

 

去り行く一切はユーモアの一幕。

 

そう考えると、仕事の大変さも、

人間関係の煩わしさも、

観客から見た時は「楽しい」ユーモアの光景に過ぎなくなる。

 

「去り行く一切はユーモアだ」。

それこそ人間に必要なこと、だ。

「あえて金子みすゞ批判」への追記。

この前、ある方から本ブログの「あえて金子みすゞ批判。」へのコメントを頂きました。

拙文、お読み下さり、ありがとうございます。

プライバシーの関係上、そのやり取りを直接は書けないのですが、

返信を書いていると少しテンションが上がってきたので、その文面を「追記」として以下に書きます。

・・・・・・・・・・・・・・

「あえて金子みすゞ批判」、お読み下さりありがたいです。

 

教育現場には「みんなちがって/みんないい」を引用してばかりの人が多く、なんか「イヤ」になってしまうのです。

思うに、金子みすゞというのは決して詩の世界のメインストリームにいてはいけない人なのです。

 

あくまで何か部屋の隅っこで、「でもこんな考え方もあるよ」と言い続ける、代案提示人なのです(たぶん)。

 

おそらく、私が感じる暴力性の淵源は、金子みすゞにはないと思います。

 

むしろ、「みんなちがって/みんないい」と言いたがる、偽善的な教育現場の「暴力性」を感じるわけです。

 

金子みすゞではなく、金子みすゞを「語りたがる」人の暴力性とでもいえばいいのでしょうか。

 

「みんなちがって/みんないい」という人に限って、

「えー、でも小鳥と鈴とわたしを〈同格〉にしちゃうのって、詩の表現方法としてどうなの? わざわざ当たり前のメッセージを、こんなに白々しく表現しないといけないの?」などという意見を「認めない」構図があるようです。

 

「みんなちがって/みんないい」。

ちょっと考えてみる必要が有るようです。