書評:エーリッヒ・フロム『生きるということ』紀伊國屋書店 1977。
(原題:”To have or to be”)
丸山眞男は有名な論文「『である』ことと『する』こと」で、「である」価値と「する」価値とを立て分ける。
(岩波新書『日本の思想』所蔵)
誰かに貸した金を返す権利のある人物「である」状態であっても、請求「する」ことがなければ権利が失われる。
そういう、何もしない「である」の状態から「する」ことへ発想を切り替えていくことを訴えている。
エーリッヒ・フロムの『生きるということ』は丸山眞男の立て分けに近い。
エーリッヒ・フロムは「持つこと」と「あること」に立て分ける。
「持つこと(=to have)」は丸山眞男のいう「である」に近い。
何かを所有し、それで満足する状態。
エーリッヒ・フロムはこの状態が産業社会において発展したことをいう。
「あること(=to be)」は丸山眞男のいう「する」である。
所有ではなく、誰かと楽しんだり、自己の経験を重視する。
かつての人間社会は「あること」にあふれていたが、現在では「あること」は少なくなっている。
「私は〜〜を持っている」(持つこと)のではなく、「私は〜〜である」(あること)の方がより本質的である。
しかし、われわれは「私は教員免許を持っている」「医師免許を持っている」と「持つこと」の価値のみを見てしまう。
ブラック・ジャックは漫画の話だが、無免許の天才外科医よりもやる気のない勤務医のほうを重視してしまうのである。
「学校」で言えば、教え方の天才的にうまい塾講師(教員免許を持たない)よりも、やる気も授業力もない学校教員のやる授業の方が「単位修得」に関しては「価値」が高くなる。
われわれの生活は「持つこと」の価値を重視している。
さて、現在「シンプルライフ」という発想が広まっている。
これは「ノマド」に近く、何かを多く所有するのではなく、上質のものだけ・必要な物だけを所有し、自分の精神的を豊かさを重視するという生き方である(禅の生き方に近いものであるそうだが、そこまではあまり良くわからない)。
この「シンプルライフ」は、エーリッヒ・フロムのいうところの「あること」である。
ある様式(藤本注 あること)においては、私的に持つこと(私有財産)にはほとんど情緒的な重要性はない。なぜなら私には何かを楽しむために、あるいは使うためにも、それを所有する必要なないからである。ある様式においては、何人もの人が−−いや何百人という人々が−−同じ物の楽しみを分かち合うことができる。(159)
この発想は「シェア」の発想でもある。
さて、この「ある」ためには何が必要であろうか。
本書にはこのようにある。
シャバットには、人はあたかも何も持ってはいないかのように生活し、あること、すなわち自分の本質的な力を表現することのみを目標として追求する。すなわち祈ること、勉強すること、食べること、歌うこと、愛の行為を行うこと。(80)
何よりもまず、私たちは自分の物や自分の行為から自由にならなければならない。これは何も所有してはならず、何もしてはならないということを意味してはいない。それの意味するところは、自分が所有するもの、自分が持つものに、また神にさえも、縛られ、自由を奪われ、つなぎとめられてはならない、ということである。(96)
持つことは、何か使えば減るものに基いているが、あることは実践によって成長する。(154)
このヒントを実際に「する」ことで実践に生かしていくこと。
それが「ある」ためのヒントであろう。