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就職は恋愛と同じ!

書評:鈴木健介, 2011, 『就活は子どもに任せるな』中公新書ラクレ.

高校教員をしていると、就職活動のための面接練習を多く行うこととなる。
そんなわけで、私は最近、面接者役として高校生相手に面接練習をけっこう行っている。

「あなたの志望理由を聞かせてください」
「学校生活で一番頑張ったことは何ですか」

これまで私は、自分がいまの学校に「内定」を受けた時と同じ面接戦略で面接練習を行ってきた。

ただ、
自分一人だけの面接経験で練習をして、本当にいいのかな」とも思っている。

そんなわけで、『就活は子どもに任せるな』というタイトルに惹かれ、本書を手にとったわけである。

結論から言うと、【就職は恋愛と同じ】という本。
このメッセージの重要性を常に感じる本である。

「就職は結婚と同じだと理解してください。そうすると行動の仕方、アプローチの仕方が自ずから変わってくるでしょう。
「モテる人」というのは顔かたちが秀でているのではありません。「マメ」なのです。何に対してマメなのかといえば、それはもちろん恋した相手に対してです」(84)

「就職活動の下手な人は、募集をかけている会社が求めている要件を無視して、自分のメリットばかりを売り込もうとする人です」(87)

自分の好きな人に、一方的に自分の思いを伝えるだけでは相手は振り向いてはくれない。
そのためには相手について、まず知る必要がある。

(ものの恋愛本では、「彼女にしたい人の友だちを5人以上知っているか?」というチェックリストがある。入りたい会社と関わりの深い会社は一体どこか?)

その上で、相手にとって自分が魅力的(=戦力となる、貢献できる)なのはどこかを適切に、ウソなく、誠実に伝えていくことが必要だ。

誰も、自分以外に浮気をしている人と付き合いたいとは思わない。
首尾一貫して相手と付き合いたい思いを、適切に相手に伝えることが必要となる。

そのためには服装もふさわしいものとし、
言葉遣いもふさわしいものとする。

大事なのは相手への「一貫性」である。

一貫性を見る、とは、要するに、会社が求める「5つの質問」(182-185)への答えが適切かつ首尾一貫しているかということである。

①「なぜあなたは応募したのか」

②「何を訴えたいのか」

③「躍進するためには何が必要か」

④「そのためにはどうすればよいか」

⑤「あなたの話を信用してよいのか」

・・・これらに対し、きちんと答えられているだろうか。

恋愛と同じく、面接相手とのコミュニケーションのなかで、相手の求めることを察知していくのがセンラy区となる。

「面接官と話すときには、|
①応募目的がはっきりと表現されているか
②どんな人を採用したいと願っているか、企業側の目的をつかんでいるか
③採用対象者として自分が条件を満たしていることを的確に伝えているか
④面接官は、あなたが伝えようとしている「話の内容」を理解しながら聞いているか
などを、面接官の態度や返事から確認しながら続けることです」(185-186)

その上で、恋愛や結婚同様、結婚後(=入社後)の自分のビジョンが明確であることも見られている。

「基本は将来目標を明確にして就職活動に取り組んでいるかどうかになるでしょう」(186)

就活は恋愛と同じ。
幾多の恋愛本は「相手にとって受け入れやすい自分になる」ことを奨めている。
一方的に「私はあなたを好きだ!」といっても、相手が受け容れないならば、それはストーカーへの入り口となる。

田原総一朗『ウン・ドン・コンがぼくの生き方』(1997)

「ウン・ドン・コン」を漢字で書くと運・鈍・根。

 

「ものごとに成功するには、運が必要だ。だが、運は待っていて来るものではない。
まず、鈍になる。つまりバカになるということだ。小賢しくて、何とか手を抜き、近回りをしようなどと思っている人間は他人に信用されない。信用がなくては商いはできない。
そして根。根気である。何度も何度も諦めずに粘る。京セラの飯盛会長も”世の中に失敗はない。挑戦を諦めたときに、それを失敗というだけだ”と語っている。鈍に徹し、根に徹すれば、やがて運は開ける。運は開くものだということである」(4)

 

テレビで華々しく活躍しているように見える割に、苦労人な田原総一朗。

大学の「先輩」として、あこがれの対象であった。

 

 

そんな彼の「生き方」論。
意外に実直で、不器用な彼の姿がよく浮かぶ。

 

さすがにワセダな人だなー、と思う。
(泥臭いという意味を込めて)

 

「日本人が要求されてきたのは、忍耐や妥協、神頼みであって決断ではなかった。しかし横並びの妥協は、いまの国際社会では通用しない。
感情に流されないクールな目と、企業なら基本コンセプトの徹底見直し、個人なら「オレは何をしたいのか」考え、こだわり続け、そして状況に対応できる柔軟性というものが必要なんだよね」(95)

「20代にやっておくべきこと・・・。友だちをたくさん作れ、本を乱読しろ、外国語を1か国語以上マスターしろ。いろんなことがいわれるけど、そんなことじゃないんだね。
 無視してもいいんじゃなく、もっと大切なことがあるんだ。それが失敗体験だと僕は思うんです。失敗することで新たなエネルギーが生まれてくる。 つまり、失敗っていうのはマイナスなんじゃない。
 自分の道を切り開く絶好のチャンスにさえなるんだね」(102)

 

本書の裏テーマは「発信型人間」。

 

「自分のやりたいと思うことを会社にさせればいい。自分の着想を会社に押しつけて、会社にやらせることが可能になったわけだね」(56)

 

単にものを書くだけが「発信型人間」ではない。
自分から動き、
自分から企画し、
自分でものごとを成し遂げる。

そんな人物が発信型人間だ。
私もそうありたい。

「僕は、人生は面白探しだと思っているけど、本当の面白さなんて簡単に見つかるものじゃないんだ。だからこそ、本当のきつさを体験して次のステップである面白さを探さなきゃ。自分で手を伸ばして取りに行かなきゃダメなんですよ。
まだ本当の面白さも知らないのに、探す努力もしないでシラけたなんていうのは、10年早いですよ。10年早いって、自分にいってみることね」(173)

「本」の田原総一朗は、意外にも温かい。
会社帰りの電車内で、しみじみ胸にしみた。

 

9k=

情報は「外」からやってくる!

私のこれまでを振り返ってみると、
ほんとうに役立つ情報は自分の「外」からもらってきた気がする。

 

職場でも住んでいる場所でもない「外」の人。
つまり「なんとなくつながっている人」・
「親しくなりかけの人」・「たまにしか会えない人」。

 

久々に会う人から刺激や情報を受け取ることが多いのはどうしてか?





社会学者・グラノベッターは「弱いつながりの強さ」という言い方をする。

 

 

「弱いつながりの強さ」。

 

 

なんのこっちゃ?

 
英語だと分かりやすい。

「弱いつながりの強さ」、つまり
Weak-tie’s strength。

 

「いつも会う」(=強いつながり)のではない

「なんとなく知っている」という「弱いつながり」。
「弱いつながり」のある人から、役立つ情報がやってくるという理論だ。

 

グラノベッターが実証したのは就職に関する情報の研究からだ。

役立つ就職情報は「いつも会う」人でなく、「知り合い」や
「知り合いの知り合い」のような人から多くもたらされる、と述べたのであった。

 

「いつも会う」人は、自分が持っているような情報しか持っていない。

 

「知り合い」や「知り合いの知り合い」は自分の知らない世界からの情報を持っている。

 

本当に有益な情報は「外」の人が持っているのである。
だからこそ、「外」とつながっていく努力が必要なのだろう。

 

こちらもどうぞ!

  1. ノマド・スタディ考。 〜「いつでも・どこでも」学ぶことの陥穽とその対策①〜 (2)
  2. 「教員と『テキスト』」論。 (2)
  3. 心理的サヨナラ主義の考察。 (2)
  4. 赤玉ポートワインと「マッサン」。 (2)

「教員と『テキスト』」論。

最近、知人と読書会を始めました。

 

1回めは岡倉天心『茶の本』を読むという正統派・読書会です。

 

読書会を久しくやっていなかったワタシにとって、「再開」した読書会は、とってもテンションが上がるできごとです。

 

大学院生の時は、それこそ毎週のように何らかの読書会をしていました。

 

ルソーの『人間不平等起源論』も、

ブルデューの『再生産』も、

イリイチの『脱学校の社会』も、

自分の思想的背景はたいてい読書会のディスカッションで出来上がっています(たぶん)。

 

読書会には、当然ながら「テキスト」が必要です。

「テキスト」があるからこそ、話が脱線しても戻ってこれます。

 

…ところが、巷のディスカッションや議論は「テキスト」がないため「戻ってこれない!」ことが多いのです。

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教員の仕事をするようになって、

困ったときにいつでも助けてくれる「テキスト」のありがたさに、「逆説的に」気づきました。

 

なぜ「逆説的」かというと、ワタシの勤務校ではほとんど「テキスト」を使わないからです。

 

「テキスト」のかわりに「レポート」という名のプリントを毎回まいかい用意しています。

 

「レポート」を用意しないと、「ノートが取れない!」生徒がいるからです。

(というより、そもそもノートを用意する必要はない、と学校では説明しています)

 

「これ、分かりません!」の質問に対し、

「教科書を見なさい」と言えることは、いかにラクか。

 

「お前の説明、分からない!」とのツッコミに、

「いやいや、教科書を見ればいいだろ」と返せるアリガタさ。

 

…「テキスト」という名の教科書に頼れないことで、

いかにワタシは苦労していることか。

 

でも、これは世の教員への警鐘(炭鉱のカナリア)でもあるのです。

 

「テキスト」という「絶対的に正しい!」(とされている)ものを

「あえて使わない」選択肢。

 

間違いなく、教員のスキル向上につながります。

 

「教科書を見ろ」は、教員が使えるおそらく最強の「ワザ」でしょう。

ワタシの職場は、教員のもつ最強「ワザ」を自ら封印しているのです。

 

教員的には大変でしょうが、ワタシは「説明力をあげよう」と(ケナゲにも)思うようになりました。

 

「テキスト」を使うと、授業は締ります。

余計な説明も不要となります。

 

でも、それが本当に「授業」なのか。

いまの職場に来てから思うようになっています。

 

世の中には思っている以上に「本を読めない」「文章を読めない」人はいるものです。

これ、大学院を出て、社会人になって初めて気づきました。

 

教科書の文字をたどれない人は、いっぱいいます。

そういう人を相手に「教科書を見なさい」というのは、

はっきり言うと「暴力」でもあります。

 

いまのワタシの授業の進め方。

 

レポートを配って、それに従って授業をして、

「気が向けば教科書も見てみてね」というストーリー。

 

これが「いい」のか「悪い」のか、

判断は皆さんにお任せします。

 

でも、「テキスト」の扱いについては教員として一度は真剣に考えてみる必要がありそうです(たぶん)。

ロン・クラーク『親と教師にとって、すごく大切なこと』

ウォルト・ディズニー主催「全米最優秀教師賞」を取ったロン・クラークの本。

現場教員にとって役立つ知見の多い書である。

「ここぞという学習の好機がやってきたときには、決められた計画を無視したり、授業をほうりだしたりすることを恐れてはならない」(77)

「規律のために利用できる一時しのぎの方法はいろいろあるが、長期的な結果を生む最高の方法は、先生をがっかりさせたくないと生徒たちに思わせることだ」(81)

「すぐれた教師の最高の特質は、いつも自分の授業から何かを学びとれるということだ」(95)

「子育てにおける苦闘の半分は、子どもに自信をもつよう教えることにある」(157)

「整理整頓をするというのは、まったく単純で常識的なことであることのように思えるが、子どもたちの多くには異質な考えなのだ」(199)

 

私は、あんまり教員による「教師論」は好きではない。

あんまり役に立たないし、自己満足の内容が多いからだ。

しかし、たまに読みたくなる。

自分の行動が正しいのかどうか、客観的基準のないのが教員業だからである(そしてこれはすべての営業職の宿命でもある)。

教室では、常に「単独者」として教員は生徒と向き合う。
営業の際、「単独者」として顧客と向かうのと似ている。

ダメな人は参考物がないから永遠に学びがない。
だからこそ、似た立場の人物の著作が「鏡」として必要になる。

乗り物と自己の実存との関係に関する、一考察。

私は乗り物に乗るために、旅に出る。

 

別に鉄オタとか、乗りオタというわけでは、ない。

 

バスの中でずーっと本を読んだり、

景色をぼーっと見つめたり、

ひたすら寝入ったりするあの「ひと時」が好きなのだ。

 

一番なのは長距離バス。

どんな都市でも1時間してしまえばもう田園地帯か森林が現れる。

 

車窓の変化と、「静かにしていれば何をしてもいい」という自由な時間。

これがいい。

 

飲み物を片手に、ただ流れ行く景色を見る。

 

PC相手に、よしなしごとを書き綴るのもいい。

 

何をしていても、必ず目的地には着く。

あの安心感がたまらない。

 

アドバイスがある。

 

基本は「一人」で乗ることである。

別に私は寂しい人間ではない。

 

ただ乗っているのが好きなのだ。

 

深夜バスは疲れるが、あれも味わい深い。

フェリーというのも、一人でウイスキー持ち込みで乗ると「グッ」とくるであろう。

 

「定義」すること

何事も大事なのは「定義」をすること。

このことを私は『無印良品は仕組みが9割』で学びました。

 

例えば、サービス業で身近な「接客」とは何か?

考えてみると難しいものです。

 

「接客」とは単に「レジ打ち」や「お客に関わる」ことなのか。
「気持よく買い物をしていただくためのサービス全体」なのか。

「ホスピタリティ溢れる対応で、〈また来たい!〉という思いを持っていただく」ことなのか。

定義によって、やるべきことは大きく変わります。

 

「接客」を明確に定義することにより、「接客」の意識が変わります。

 

「接客」を単に「レジ打ち」と認識している人と「ホスピタリティ溢れる対応で…」と認識している人とでは、
行動が違ってくるのです。

 





以前、「地域活性化とは何か、定義することが必要」との文章を本ブログで書きました。

実は「地域活性化」に限らず、仕事においても大事なことだったのだと思います。

では、私の仕事である「教育業」で「定義」を考えてみましょう。

 

まず「授業」とはなにか。

 

「授業」…「教員-生徒、あるいは生徒間、またはそれ以外の他者のかかわり合いの中で、必要とされる知識・スキルを伝達・共有し、授業時間の中で習得できるようにすること」

 

では「学校」は。

「学校」…「教員-生徒、あるいは生徒間、またはそれ以外の他者のかかわり合いの中で、コミュニケーションおよび生活スキルの習得、あるいは学校生活の思い出を築く場所。卒業後も「あの学校は良かった」と回顧されるような場所であり、進路について生徒が自分で考え、卒業までに確実に進路保障を行うべき空間」

 

両者にある「教員-生徒、あるいは生徒間、またはそれ以外の他者のかかわり合いの中」は、教育の基本となる点です。

 

この部分は自学自習では出来ないところです。

せっかく「学校」に来るのならば、この部分の価値を見ていく必要があります。

 

こちらもどうぞ!

 

  1. 学校現場における「スティグマ」と「ラベリング」 (2)
  2. PCはアイデアを殺す道具? (2)
  3. 斎藤環『承認をめぐる病』 (2)
  4. 『ヒーローを待っていても世界は変わらない』? (2)

マレビトとしての転入生(フィールドワークとしての通信制高校)

私の勤務校は、ありがたいことにイジメが少ない社会となっている。

その理由には「転入生」の存在がある。

 

私の担任する学年は、ほぼ毎月転入生が増えている。

これは社会集団の流動性・異質性をあげるのに役立っている。

 

例えば過度にくっつきすぎた集団に転入生がやってくることで、刺激が与えられる。

特に不登校などを経験した生徒は「ベタベタ」というほどくっついてしまうケースが有る(男女限らず)。

その「ベタベタ」に、「ちょっとツライな」「きついな」というタイミングで転入生という名のマレビトはやってくる。

 

 

転入生が来ると、みな一定期間「よそ行き」の顔になる。

ある意味、人間関係の中和材となっている。

転入生というマレビトの出現は、新たな人間関係の網の目構築に人を向かわせる。

 

 

マレビトは、しかし危うい状態に置かれる。

私の勤務校でも、「あいつら」として転入生が語られるケースを何度も見てきた。

「同質性」「凝集性」の高い集団へ「違和」を与える存在こそ、マレビトである。

 

転入生はチヤホヤされる(=歓待)反面、「自分たちのクラス」に入れられるかどうか、駆け引きがある。

うまく「俺たち」という関係性に入ることが出来れば万々歳、できなければ「前の学校」コミュニティに生き甲斐を感じるしかない。





はっきり言って「転入生」という立ち位置は非常にヴァルネラブルである。

しかしそこを経験することで、マレビト(=転入生)としての人間的成熟もあるのであろう。

 

転入とは圧倒的アウェイに立たされた側の立場である。

転入生としてうまく立ちまわる力を身につけるのは、「アウェイに負けない」心理を学ぶことにほかならない。

 

こちらもオススメ!

 

  1. 夢と、思いと、今の自分と。 (2)
  2. 意外と知らない教師の日常。 (2)
  3. 「定義」すること (2)
  4. 苫野一徳, 2014, 『「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学』② (2)

【日曜バー】たこ焼きナイト!

本日4/28(日)、Coworking Cafe 36にて「たこ焼きナイト」を開催しました!

今回はたこ焼きの本場・Juso Coworking様と中継でつなぎ、
本場の味・ノウハウを学びながら参加者でたこ焼きを焼いて行きました。

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関西だと、たこ焼きは家庭で気軽に作る料理です。

一家に一台くらいはたこ焼き器があるんですねー。
「たこ焼き粉には出汁をいれたり、ナガイモを入れたり。
お好み焼きと同じ感覚で作るといいですよ」などと実践的なアドバイスが有りました!

あとはどんどん焼いていきます。

写真

 

中継終了後も、札幌のCoworking Cafe 36では「こうやると美味いんじゃないか」
オリジナルたこ焼き作りが繰り広げられています。

「韓国のりを巻くと美味しいのでは?」
「油であげてみよう!」
…いまも創意工夫が繰り広げられています。

たこ焼きをただ食べるだけでなく、
大阪と繋いだり、
参加者同士が交流したりと
楽しいものになりました。

「ちゃんと」は「ちゃんと」は伝わらない〜人間は「ちゃんと」という言葉を理解できない。〜

あなたは今日、何回「ちゃんと」という言葉を聞いたでしょうか?

「食事の前に、ちゃんと手を洗いなさい」

「明日はもっとちゃんとした服装にしてきなさい」

「ちゃんと話を聞いていたのか?」

「仕事くらいちゃんとしないとダメだぞ」

「ちゃんと」という言葉は、日常会話で「死ぬほど」使われます。

そして困ったことに、大部分の「ちゃんと」は、言う側の裁量で決められます。

例えば、

「食事の前に、ちゃんと手を洗いなさい」

の場合、言う側は、

「食事の前は石鹸でゴシゴシと手を少なくとも10回くらいはこすり、水で綺麗に洗い流して、清潔なタオルなどで手を拭くこと」を想定しています(たぶん)。

でも言われる側にとっては、「水を流しながら2回ほど手をこする」ことが「ちゃんと手を洗う」の範囲なのです(たぶん)。

 

「明日はちゃんとした服装にしてきなさい」の場合、言う側は、

「明日はアイロンのかかったワイシャツを着て、ネクタイも左右対称・ベルトの上くらいまでで締め、折り目の着いたスラックスを履いて、光沢のある革靴を履いてくること」を想定しています(たぶん)。

そのうえ、「頭は寝ぐせを直し、七三分けにはしなくとも自己主張のある髪型にはしてほしくない」というのが「ちゃんとした服装」の範囲です(たぶん)。

でも言われる側にとっては「とりあえずワイシャツとスーツであればなんでもいいんでしょ」という意味になるのです(たぶん)。

「ちゃんと話を聞いていたのか?」「仕事くらいちゃんとしないとダメだぞ」も、言う側にとっては「目を見て、メモを取って頷きながら話をきく」ことや

「勤務中は携帯電話を開かず、黙々とPCに向かい、少なくとも5秒に1回くらいはクリックの音かキーボードの音がして、目はディスプレイに釘付けになっており、会社のアドレスで社用メールを送る」ことが「ちゃんと」の範囲なのです(たぶん)。

でも言われる側にとってはもっとゆるい状態が「ちゃんと」の範囲なのです。

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具体例ばかり出してしまいました。

でも大事なことをここでは伝えています。

それは「ちゃんと」の範囲は伝わることはない、ということです。

世にいる親や教員・部下と接する上司たちは「ちゃんと」を使いたがります。

 

でもその「ちゃんと」は伝わることはないのです。

つまり、「ちゃんと」は理解されないのです。

「ちゃんと」は禁断の言葉です。

使うと、相手が100%「理解できなく」なります。

自分の思っている範囲の「ちゃんと」を、聞き手が理解することは100%、ありません。

であれば、親・教員・上司は「ちゃんと」を使ってはいけないのです。

「ちゃんと」の代わりに、自分の考える「ちゃんと」の範囲を具体的に伝えなければならないのです。

英語で「チャント」は「祈る」という意味。
日本語の「ちゃんと」はお正月の初詣同様、「叶わない」意味の「ちゃんと」なのです(わかりにくい)。

これからは自分の考える「ちゃんと」の中身・範囲を、「ちゃんと」伝えていくことが必要ですね。