essey

アメリカのヒーロー、日本のヒーロー〜藤野英人, 2013, 『投資家が「お金」よりも大切にしていること』星海社新書.①〜

アメリカ映画にはヒーロー物の伝統がある。
バッドマン、アイアンマン、サンダーバードなどなど。

これらは基本的にマンガのヒーローを映画化したものだ。
ちなみに、これらのヒーローの特徴はなんだろう?

バッドマンはウェインカンパニーの社長の御曹司。
大金持ちのいわば余暇として、人助けをしていく。

9k=

サンダーバードは土木建設事業で一旗揚げた一家の慈善事業。
資産をもとに自分の家族を訓練し、世界中のトラブル解決を目指す。
511DSDJNYXL

チャーリーズ・エンジェルのチャーリーは実業家の大富豪。
「チャーリーがスポンサーになって、3人の女の子(エンジェル)たちを支援し」(52頁)、事件を解決していく。

Z-1

アメリカのヒーローたちは、基本的に「民間人」なのです。それも、事業を成功させてお金持ちになった実業家が多い。(52頁)

では、日本では?

日本のヒーローといえば?
ウルトラマンや◯◯レンジャー、などなど。

9k=-1

 一方、日本の場合はどうでしょうか?
同じように日本のヒーローを思い描いていただければわかると思いますが、面白いことに、そのほとんどが「公務員」なんですね。
たとえば、ウルトラマンの科学特捜隊は、国際科学警察機構の下部組織で、パリに支部があり日本に支部がある公の期間です。
ウルトラマン自身も、宇宙警備隊員ですね。(54頁)

日本人の場合、ヒーローは公務員。
それは「「なぜ国がやらない!」と怒り出すのが日本人」(70頁)である証拠かもしれない。

テレビや映画から生まれた日本のヒーローは、ほとんどが公務員です。実業家や大富豪が世の中の悪を倒す、みたいなものは、ほとんどありません。(55頁)

NPOやNGOのやることに「うさんくささ」を感じるのが日本人。

でも、昔はそうでなかったはず。

たとえば角倉了以は私費を投げ打って運河や河川の整備を行ったヒーロー。
いつからかヒーローは国などが公務員として働くもの、というイメージが付いてしまっている。

注 ◯◯レンジャーのシリーズには、国の秘密組織などの前提で作られたものもあれば、太古からの守護神の化身、というものもある。しかし、そのへんの大金持ちが私費で運営しているような◯◯レンジャーシリーズは存在していない(と思います)。

Z

見田宗介『現代社会の理論』読書会を終えて・・・

本日5/23(土)、『現代社会の理論』読書会を実施。

東大社会学で長らく日本の社会学を引っ張り続けてきた見田宗介(みた・むねすけ)。

その1996年の著書『現代社会の理論』は、素朴な情報化社会賛美も見られるが、「消費社会」を乗り越える方向性を示す点で得るものの多いものだった。

url見田宗介

 

見田宗介の本は、論理一本槍ではなく、ところどころに「詩的」部分が存在する。




「ちょっといいこと」を言っているのだが、そこがグッとくる。
東大社会学の見田門下生が見田を慕うのも、なんとなく分かる(ような気がしてくる)。

 生きることが一切の価値の基礎として疑われることがないのは、つまり「必要」ということが、原的な第一義として設定されて疑われることがないのは、一般に生きるということが、どんな生でも、最も単純な歓びの源泉であるからである。語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいるということ、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受しているからである。このような直接的な歓喜がないなら、生きることが死ぬことよりもよいという根拠はなくなる。
どんな不幸な人間も、どんな幸福を味わいつくした人間も、なお一般には生きることへの欲望を失うことがないのは、生きていることの基底倍音のごと歓びの生地を失っていないからである。あるいはその期待を失っていないからである。(141)

こういうことをサラッと、理論文の中で言ってのける。
そこに私は「グッ」ときてしまう。

Z

問題解決型学習(PBL)とは、何か?

問題解決型学習、通称PBL
オリジナルはProject Based Learning。

教育業界の悪い癖で、教育関係者は何事も「大げさ」に言ってしまう。

プロジェクト学習や問題解決型学習というと、
なんだか「すごそう」な問題を解くイメージがある。




例)「環境問題の解決!」

例2)「貧困の撲滅!〜いま私たちにできること」 などなど。

 
・・・しかし、デューイが言ったような意味の問題解決型学習はもっと単純。
250px-John_Dewey_in_1902

例)「今日の晩ごはんは、カレーか肉じゃがか、どっちにしよう?」

例2)「お腹痛い・・・。きょう学校行こうか、行かないか、どうしよう?」

 

・・・どちらの例も、ある意味「しょうもない」。
しかし、まぎれもなく、「どちらにするか」という問題を解いている

その意味でまぎれもない「問題解決型学習」なのだ。

 

・・・こんな話を、大学院で教授から教えてもらった。
それ以来、おおげさでなく、日常の延長でできる問題解決型学習について、思いを馳せるようになった。

 1976年に設立されたマーストリヒト大学は、設立当初から、独自に「問題解決型学習方式(PBL方式)」を取り入れてきた大学です。このPBL方式は、採用後30年を経た現在、国内外の大学からも注目されています。(…)
PBL方式は、学生の〈自立性〉〈起業精神〉〈問題解決への指向性〉を養うことを目的とするものだと大学は説明しています。
大学生たちは、入学後すぐに10人未満の小グループで共同学習を始めます。それぞれの科目では指導段階ごとに、学生たちが〈問題解決〉研究に取り組むためのきっかけとなる事例がいくつも用意されています。この事例というのは、私生活の中で、あるいは、学生たちが将来就く仕事の現場で生じると考えられる様々な問題の場面や状況を設定、表記したものです。この事例の中に示された問題を解決するために、学習中の科目の知識を駆使して、小グループのディスカッションのなかでブレーンストーミング(創造的集団思考法)をし、問題となる店を絞り、それを元にして自主研究をしていきます。
小グループのディスカッションには、それぞれチューターと呼ばれる指導者がついており、学生たちのグループ討議のプロセスを監視し、討議の進む方向やレベルによっては、必要に応じてコメントを加えます。(リヒテルズ直子, 2006, 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか』平凡社.52頁)

 

ポイントは「学習中の科目の知識を駆使して」という部分。
こういうと、さも「いま学んでいることを、問題解決に役立てているなんてスゴイ!」と思ってしまう。





でも、考えてみたら、それはある意味「あたりまえ」の話。

 

新聞を読んでいて、よく知らないニュースが出てきた場合、私達はどうするか?

普通は「きっとこんなことだろう」と推測をする。

・・・これはこれまでに学んできたこと・学んでいる途中のことをもとに推測をすることにほかならないのではないか?

 

つまり、「学習中の科目の知識を駆使して」とは、社会経験の中で得られた知識・経験を総動員して、「よくわからないニュースを解釈する」行為それ自体を指すのではないか?

 

こう考えた場合、「問題解決型学習(PBL)」というのは、「なんかスゴそう」な教育とは言えなくなる。

 

むしろ生きること自体が問題解決学習なのだ。

 

ふつうに生き、ふつうにものごとを考えていたら、それがそのまま問題解決型学習になるに決まっている。

そうならないからこそ、「ふつうの」学校教育は終わっているわけである。

2Q==

 

こちらもどうぞ!

  1. 佐々木常夫, 2010, 『働く君に贈る25の言葉』WAVE出版.①(3)
  2. 『ヒーローを待っていても世界は変わらない』? (3)
  3. 中高生が「ちくまプリマー新書」を投げ出すのは、どんな時か? (3)
  4. おおたとしまさ『ルポ塾歴社会 日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体』③ (3)
  5. 【お知らせ】ポストモダン思想が分かりやすく学べる『高校生と語るポストモダン』販売中です! (2)

張燕, 2014, 『ジャック・マー アリババの経営哲学』ディスカバー・トゥエンティワン①

 

売っていないものはない、といわれるサイト・アリババ

その創業者ジャック・マー(馬雲)の一代記。
わりと名言の多い本だし、経営者の「哲学」のよく現れた本である。

「強欲資本主義」が中国では多く立ち現れていることを危惧する声が多いが(井沢元彦『逆説の世界史1』など)、そんな人ばかりではないことを伝えている本である。

成功とは、どれだけやったかではなく、何をやったかである。(35)

 

怠けるといっても、ただ怠けるのではない。仕事を減らしたければ、怠ける方法を考え出すことだ。怠けることを極めれば、怠けの境地に達する。私のように子供の頃から怠けていれば、太ることさえ面倒になる。それが境地というものだ。(38)

 

「理想を持ったときに、一番大切なことは自分に約束をすることだと思う。必ずやり遂げてみせると自分に約束するのだ。あれが足りない、この条件がない、その条件も揃っていないと考えている起業家も多い。ではいったいどうすればいいのだろうか。起業家に最も大切なのは、創造的な環境だ。機が完全に熟すころには、私たちには順番は回ってこない。人々が絶好の機会だと思っていても、もうチャンスは失われている。必ずできると信じ、自分に約束する。5年、10年、20年かけてでもやってのけると覚悟すれば、ずっと歩き続けていられるはずだ」(53)

 

「最初の日の理想を絶対に忘れるな。その夢は世界で最も偉大なものだから」
馬雲はそう自分に言い聞かせ、そのプラスにエネルギーを傍らにいる人に伝えているのだ。(55)

 

Z

自分機密費を持とう。

機密費、というのをご存知でしょうか。

内閣府や外務省などで支出の内容を示す必要なく、使えるお金のことです。

imgres

よく賄賂に使われたり、私的流用があったりと問題のあるこの機密費。
(例えば、https://blogos.com/article/94794/

国家レベルでは問題となりますが、個人レベルでは実は大事なのではないか、と思います。

例えば、誰かになにか言われることなく、ノーチェックで使えるお金。
それを「自分機密費」としましょう。

自分機密費として、将来やキャリアアップ、および勉強のために使用するお金を、毎月一定額用意しておくのです。

サイフの中のポケットに、毎月決めた額を入れておき、勉強会・書籍代・セミナー代などにどんどん支出する。

url

通常の「機密費」同様、締め日の前に「使い切る」のがポイントです。

お役所は予算を消化しきらないと、来年度の予算配分が減ってしまいます。
「自分機密費」も、決めた額を使いきらないと、来年度の自分の成長がその分減ってしまいます。

よく誤解している人がいますが、勉強するにはお金がかかります。
学校教育・塾だけでなく、自分の成長にもお金がかかります。

端的に言えば、「高いからこの本買うのやめよう」というのを無くすのに、この「自分機密費」の発想は役立つ、ということです。

自分の成長にかかるお金を、毎月予算として別途計上しておく。
そして毎月使いきり、自分の成長につなげる。
そんな自己投資の積み重ね、やっていきたいなあ、と思います。

 

見田宗介『現代社会の理論−情報化・消費化社会の現在と未来−』(岩波新書)

インターネットが一般に普及したのは1995年。
この年はWindows95が発売され、一般家庭にようやくインターネットの存在が知られるようになった頃である。

それ以前の「パソコン通信」時代に比べると、使いやすさ・利便性が格段に変化した時である。

インターネットの可能性と恐怖を扱った映画『ザ・インターネット』も、1995年の上映。
この時代は、専門家のものだったインターネットが「ふつうの人」に扱えるようになったギリギリの時代である。

41aAnSr+9eL

本書『現代社会の理論』は、1996年の出版。

インターネットによる情報革命の初期の著作である。

そのため、素朴な形での「情報化社会」の可能性を描いている。
それがいまの我々からすると逆に新鮮である。

見田宗介は現代の社会はガルブレイスのいう「ゆたかな社会」となった、と言及する。
「ゆたかな社会」はこれまでの消費社会のあり方とは異なる。
「喰うものがないから喰う」「着るものがないから服を買う」のではなく、「流行り(=モード)だから服を買う」という消費社会である。

この社会では、常にモノを生産し続けることとなり、地球の有限な資源がどんどん消費されていく。
経済成長とはいうものの、資源がなくなっていく点で「成長の限界」を迎えることとなる。

見田宗介は、資源を消費する「モノ」ではなく、「情報」に注目する。
情報により、人間がミニマムに幸せを実感できる社会として「情報化社会」を想像しているのである。

 子どもは成長しなければならないけれども、成長したあとも成長が止まらないことは危|険な兆候であり、無限に成長しつづけることは奇形にほかならない。まして成長しつづけなければ生存しつづけられないという体質は、死に至る病というほかはない。
成長したあとも成長しつづけることが健康なのは、「非物質的」な諸次元−−知性や感性や魂の深さのような次元だけである。社会というシステムに対応を求めるならば、この広義の〈情報〉の領域というコンセプトによって、今日とりあえずその名を与えられている諸次元だけである。「情報化社会」の理論のうちのこの大きい射程をもった発想がわれわれの前に開いているのは、社会のシステムの、〈成長のあとの成長〉の可能性についての、このような見晴らしであるように思われる。(162-163)

 

「成長のあとの成長」の鍵が情報化社会である。
実際、見田の主張はこのあとの「IT革命」「携帯電話・スマホの普及」によって一部達成している。

「情報化」により、例えばネットからの収益で生活をできる人びと(アフィリエイター、デイトレーダーなども含む)を生み出したのは、まさにその一例である。

でも、それでよかったの?
見田の主張は、情報化により人間の「幸福」が達成される点を指摘している。
現実にインターネットは人に「幸福」を実感できるようにしたのだろうか?

本書のラストにおいて見田は物質的(マテリアル)なものに付随する「消費」を、「情報化」が乗り越えていき、物質的豊かさを超えた豊かさを我々に与えてくれる可能性を示唆する。

 「情報化社会」というシステムと思想に正しさの根拠があるのは、それがわれわれを、マテリアルな消費に依存する価値と幸福のイメージから自由にしてくれる限りにおいてであった。〈情報〉のコンセプトを徹底してゆけば、それはわれわれを、あらゆる種類の物質主義的な幸福の彼方にあるものに向かって解き放ってくれる。
けれども消費の観念は未だ、現在のところ、情報というコンセプトの透徹がわれわれを解き放ってくれる以前の、マテリアルな消費に依存する幸福のイメージに拘束されている。
われわれはなお〈情報化/消費化社会〉の、過渡的な、矛盾にみちた入口に立っている|ということができる。(170-171)

見田の夢見た「情報化社会」は、IT革命・スマホなどにより、すでに到来している。
しかし、物質的な「消費」の次元は未だに超えられていない。

逆に言えば、見田のいう「情報化社会」は未だに到達していない「見果てぬ夢」ということができる。

IT革命もWeb2.0も死語になった現在。
今一度見田の「夢」を見ていくことに、情報化社会の次なるヒントがあるかも知れない。Z

動かない、という不思議さ。

昨日は4/1。
年度が変わるタイミング。

毎年、私は勤務先の住所が毎年変わってきていました。
札幌市の桑園駅そば→新札幌→帯広。




でも、今年は【初めて】、同じ場所での2年連続勤務となります。
毎年、行く場所が違うと、気持ちが切り替わります。

でも、今年はそうではない。
そのため、どうしても「前と同じ」日々が続くような感じがしています。

そういう場合、自分で区切りを意識する、ということが必要でしょう。

illust2960

自分で区切りをつけ、線を引く。

そして新たな思いを出していく。
その繰り返しを、私は今後もやっていきたい。

そう思っています。




「あの人にできるんだから・・・」考。

この前、あるセミナーで「ノミの話」を聞いた。
ノミの体長は3ミリ。
でも、身長をはるかに超える2メートルくらいジャンプすることができる、という。
mushi_nomi
単純計算すると、2000ミリ÷3ミリ=666.666・・・
つまり、自分の身長の667倍もの高さまでジャンプできる。

そんなノミを小さな箱に入れておくと、はじめは壁にぶつかるまでジャンプするが(自分の身長の667倍まで飛ぶのだから、朝飯前)、だんだん壁にぶつからない程度まで手加減して跳ぶようになる、という。
そんなノミは、箱のフタをとっても、「壁にぶつからない」レベルまでしかジャンプしなくなる。
では、そんなノミを再び667倍まで跳べるようにするにはどうするか?
セミナーのテーマはそこにあった。
どうすればいいだろうか?
それは、【ふつうのノミを箱に入れ、そのノミが普通にジャンプするのをみること】である。
「もうこれ以上跳べない」というのを否定してくれるのが、新たに入ってきたノミである。
教育もまた、同じ。
「跳べない」と思っている人には、「跳べる」「カンタンにできるよ」という仲間を見せること。
松下村塾もそうだけど、案外狭い所・知り合い同士のコミュニティから、「すごい人」は頻発する。
それは「あのあいつが上手くいったんだから、オレもできるだろう」という思い込みである。
img_0
spt-hagi-2-sonjuku-8451
進学校で有名な学校から、なぜ東大合格者・京大合格者が出るか?
それは「あのバカな先輩でも東大に受かった」というのを後輩が見ているからである。
実際、私の高校時代も、「あの人も合格したんだから、私も・・・」というのを感じたことがある。
身近にいる「上手くいっている人」を見て、「あの人にできるんだから自分もできる」と解釈をすること。
実はこれ、すごく大切なことだと思う。
「上手くいっている人」を「ずるい」「悔しい」「腹立たしい」と思うと、「自分もできる」とは思えない。
「上手くいっている人」を見て、「自分もできるはず」と思えること。
これこそ大事だ。
箱以上にジャンプするノミを見て「ずるい」「悔しい」「腹立たしい」とノミは思わない。
ただ自分も真似てみるだけである。
人間はムダに「思考」があるから、できるはずのこともできなくなる。
あの人にできるんだから自分もできる」。
なにげに大事な言葉だと思います。

久々の東京と、東京論。

というわけで、いま東京に来ています。

よく考えると、平成26年度はけっこう東京に行きました。

修学旅行、生徒会研修、帰省ついでの東京訪問、日本通信教育学会への参加、文科省のフリースクールフォーラム&フリースクール全国ネットワークの文化祭。
そして今日、3月に訪問しています。

それぞれ仕事プライベートの別はありますが、札幌時代以上に東京に行ってる気がします。

東京は楽しいところ。
東京はエネルギーが溢れるところ。
東京はムダにデカいところ。
東京はどこに言っても満員&混雑するところ。

高校大学大学院のころ、東京こそホームで、「故郷は遠きにありて想うもの」(室生犀星)でした。

ですが仕事を機に北海道の札幌帯広で生活するようになると、北海道こそホームになりました。

東京は「どこか遠い世界」になりつつあるように思います。

いまは亡きやしきたかじんの「東京」は、関西人だからこそ胸に響きます。

いとしさも 憎しみもすべてすべて ぎゅっと抱きしめ祈るように 今日も灯がともる東京(「東京」)

9k=

これは東京人が見た東京ではなく、関西人も入れた地方人が見た東京です。

輝いていると同時に、嫉妬の対象としての東京の姿です。

自分がなんだかんだ東京に行くのは、行くたびに東京と自分とのギャップ、東京に染まりきれない自分を身体で感じるためなような気がします。

「地方活性化」「地域活性化」と言う声がよく聞かれます。
その活性化した姿が「ミニ東京」だった、というのもよくある話です。

東京とはなにか?
東京とどう関わるか?
いまの私のテーマです。

『ヒーローを待っていても世界は変わらない』?

ヒーローって、なんだろう?
ウルトラマン?
仮面ライダー?
それとも007のジェームス・ボンド、
あるいは大阪の橋下市長?

本日3/21(土)、「読書会@札幌-帯広」にて、
反貧困ネットワークの湯浅誠氏の『ヒーローを待っていても世界は変わらない』読書会を開催しました。

index_pic

>本書についての私の書評はこちら

さて、今回の読書会の議論をまとめた部分が以下に当たります。

読書会の大きなテーマは「これからの市民活動のあり方とは?」。

大きくわけて2つの立場が出ました。

(A)自分たちのために社会を変えていく組織・団体をイチから作るパターン

(B)既存の組織で活動をしていくパターン

(A)は、例えば湯浅誠氏の反貧困ネットワークやこの日本ノマド・エジュケーション協会のように、「なにもないところから」「ゼロベースで」作っていった組織のこと。
ここには今回のような読書会のほか、自発的なボランティアなどが入ります。

(A)の立場はラクでなおかつ楽しいこと。
(B)と違い、「〜〜月には・・・をしないといけない」というのが無い。
なおかつ、自分たちの好きでできる。

その一方、自分に全く関係を感じられない人、言ってしまえば社会的弱者に活動が届かない。

一方、(B)の立場には町内会や行政組織、学校のPTAなど、歴史と伝統あふれる組織が当てはまる。

ある意味、企業で働くのも(B)のパターン。

(B)は決まり事だらけ。
やりたくないこともたくさんある。

でも。
昔からあるし、歴史と伝統、そして信頼があるため、社会的弱者にも届きやすい。

誰かが「やらなけれればならない」からこそ、本当に助けが必要な人に届く。

その代わり、「やらなけれればならない」と決まっていることをわざわざやるのは、いくら社会貢献のためとはいえツラいし楽しくない。

(B)の立場を取る人が「楽しい」と思える仕組みづくりが必要でしょう。

例)PTA会長になると、「入学式でスピーチしてください」がよく来るが、それを言い訳に学校にいき、いろんな教員と関わり、学校の様子が分かる、等。

私は昔から、(B)の立場に何の魅力も感じていない。
どうせなら、「必要とされそうなことをイチからやっていく!」ほうが楽しい。

でも、この場合、「必要とされそうなこと」が、本当に「必要とされそうな人」に届かない場合がある。

難しい。

だからこそ、市民活動には(A)のものも(B)のものも必要なのでしょう。

でも私はやっぱり(A)がいいなあ。

10922421_668737609904570_6784784055713123612_n