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フランク・スミス『なぜ、学んだものをすぐに忘れるのだろう?』より。

「学校での問題は、「生徒が学んでいない」ということではなく、「彼らが何を学ぶのか」である」(13)

「役に立つ学びというのは、普段の生活から時間を割いて真剣な学習に取り組む時に起こるものではない。学びとは、私たちの普段の生活に不可避な行為であり、役に立つ学びは、私たちが普段の心構えでいる時にのみ行われる」(19)

「逆説的だが、暗記しようとする努力は理解を破壊してしまうので、結局は暗記を妨げてしまう」(143)

「どんな学校であれ、自由化された学校の本質は、「コミュニティであること」です。校長、教師、アシスタント教師、そして生徒といった階層社会ではなく、おもしろい活動に取り組むために人びとが集まる場所であるべきなのです」(168)

 

意外と知らない教師の日常。

書評:上田浩『壊れかけた教師たち』グラフ社(2008)

 

教員稼業をやり始めて3ヶ月。

私の勤務先は「私立通信制高校」という、教員業界ではマイナー中のマイナー。

どちらかというと「」に近いような場所であるため、「ふつう」の教員の発想形態やハビトゥスが「よくわからない」のである。

その点、この『壊れかけた教師たち』はサブタイトルどおりの内容だ。

 

意外と知らない教師の日常」。

 

こういう内容を謳う本は多いが、たとえば「教師とAV」(77ページ)や「教師のズル休み」(92ページ)まで扱うものはほとんどない。

 

「よく出せたなあ」という内容だ。

共感できるのは「誉められたがりの教師たち」(103ページ)。

教員なんて、勉強だけできて(出来ない人もいるけど)「嘘がつけない」ような人が多い職種だ(と私は考えている)。
そのため、 「誉められたがり」な人が多いのはある意味で「幼い」ということなのだろう。

 

教師って本当はすごく孤独な職業なのではないかということです。日々、多くの生徒と先生に囲まれて、一日中人間相手にしゃべり続ける教師ですが、「だれも本当の自分の気持ちを理解してくれない」という気持ちも人一倍感じやすいのかもしれません。だからこそ、ウソでもいいからだれかに褒めてもらわなければ、やりきれないというところもあるのかも。(105)

 

 

教員自身が「子ども」なのかもしれませんね。

簡単に学校を作るための、ただ1つの方法。①

みなさんは「学校を作りたい!」という思いになったことはありませんか?

かくいう私自身も、

「学校とは全く違う教育機関を作りたい!」との思いに

高校時代から引きずられていた経験があります。

さて、日本においてすごく簡単に学校を作る方法が幾つかあります。

1,フリースクールを作る

自由な学び舎を作る、という方法です。

「不登校の子どもに対し何かをしたい」という人や

「自由な学び」を提供したい、という人にオススメです。

 東京シューレなど、フリースクールの大手はいくつかあります。

ノウハウを学ぶには「フリースクール全国ネットワーク」の合宿などに参加されることが近道であると思います。

具体的なアドバイスには、「登校拒否を考える親の会」など、
学びの場を求めている保護者の集まりに参加し、
要望を聞いていくという方法があげられます。

この方法のメリット・デメリットを見ていきましょう。

メリット 費用が安い/「子どものためになる!」という思いに簡単に浸れる
デメリット 顧客が少なく、経営が安定しない/確固とした経営方針が弱いため、持続性が少ない

この方法、何の方法論的・経営論的裏付けが必要ないため、
ごく安価に始められます。

顧客がいなくても始められます。
私の知っている人で「生徒が一人もいないフリースクール」をやっている人は何人もいます。

やったもんがちなのです。

NPO法人格を持つなら別ですが、
個人でやる場合なんの裏付けもいりません。

そのために子どもにとって不適切なフリースクールが登場することもあるくらいです。

丹波ナチュラルスクールの事件、覚えてますか?)

当然、すごく子ども思いのフリースクールがほとんどです。

ですが、一部には暴力・虐待が横行するところもあります(ないことを祈りたいです)。

もっと問題なのは「学校をやりたい!」「子どものために何かやりたい!」人の「善意」のみが溢れ、結局なんにもならないという事例があまりにも多いのです。

(生徒ゼロのフリースクールってどうよ?、という話です)

それでは子どものためになり、
なおかつちゃんとした「学校」を、
「ちゃんと」作るには、どうしたらいいでしょう?

続きはまた明日!

お楽しみに!

☆フリースクール設立のご相談は、こちらまで!

高校生とKJ法

今日、実はいつも以上に学校で仕事するのが楽しみでした。

新たな試みをやろうと思ったからです。

 

それは、高校生とKJ法の授業をする、ということです。

 

KJ法とは、アイデアを出す方法。

川喜田二郎氏によって『発想法』で提唱された方法です。

私も中公新書で読みました。

 

付箋などに思いつくフレーズを書き、
周りの人の付箋を共有し、
近いものを重ねていって、
その固まりのタイトルを書く、というものです。

以下のサイトが参考になると思います。
https://www.atmarkit.co.jp/aig/04biz/kjmethods.html

 

厳密にはKJ法は文章で書き、方法を守りながらやっていくものです。

 

ですが、「厳密すぎると誰も出来ない」ため、あえて崩して今日は授業をしました。

kaigi_shifuku_brainstorming

さて、今日「携帯電話のいい面・悪い面」をテーマに、グループごとにKJ法で話し合いをしました。

 

通常、学校ではとにかく「話し合いをしよう」と呼びかけるばかりです。

その結果が、「声の大きい人の意見が通る」現状と、
「なんでも多数決で意見をまとめてしまう」現状の氾濫です。

 

声が出しにくい人にも、
じっくりものごとを考えたい人にも 適切な議論の方法はないだろうか?

 

考えた答えとしてのKJ法の授業でした。

 

通常の「とにかく話し合いをしよう」形式よりも意見が出やすかったのを実感しました。

他人の意見と「近い」点を探していくので、話を聴き合う練習にもなりました。

なによりも、話し合いの際、楽しそうな雰囲気のあるディスカッションになりました。





 

 

よく「いまの子どもは話し合いが出来ない」ということを聞きます。

ですが本当に大切なのは「話し合いが出来る方法論を伝えているか」という教員の側の問いかけです。

 

 

無論、今日の授業も課題点がないといえば嘘になります。

議論の仕方の方法論も含め、自主的に話し合いができる環境設計をやるのが教員の仕事だなあ、と思った今日一日でした。

 

創造性を日常に設計する

人々は日常の中で習慣ハビトゥスが形成され、それによってその人の価値観や「実践感覚」が形成されていく。

 

一般的な職場は創意工夫といった「創造性」が失われていくように「設計」されている。

 

であれば、「創造性」が習慣として成立する環境を作るなら、組織は拡大していくはずである。

学校現場における「スティグマ」と「ラベリング」

最近とみに「スティグマ」理論や「ラベリング理論」を思い返すことが多い。

 

それは、日常的にLDやADHD、高機能自閉症などという診断のついた生徒と関わる機会が多いことに由来している。

 

生徒の行動がゆっくりだったり、間違いが多いものだったりした場合、

「やっぱりADHDだからね」と教員は言ってしまう。

教員の「慣習行動」になっているのである。

 

しかし、教員のそういった「決め付け」は事実だろうか?

普通の高校生にとっても、難しい内容ではないのか?

こちらの説明が不足しているだけではないか?

そして自分の側を正当化しているだけではないのか?

 

教員のみる「日常」は、常日頃の「習慣」(ブルデューの言う「ハビトゥス」)的な行動の積み重ねで形成される。

 

特別支援教育的な実践を行う学校ほど、実は自己の「学習障害」観を強化するにとどまってしまっていることが多いのではないか。

こう思うことが最近多くなった。

 

懸命に特別支援のもとづく教育を行おうとすればするほど、逆にその生徒の「スティグマ」を強めたり、「学習障害」というラベルを強化するにとどまってしまう側面がある。

 

そのことに自覚的になっていくことが必要であろう。

アルキメデスのもう一つの「法則」

昔から、露天風呂に入るといいアイデアを思いつく傾向がある。

特に「イベント」の企画を思いつくことが多い。

 

これはアルキメデス以来の人類の普遍的「法則」なのかもしれない、と思っている。

 

ツライ時に温泉に行くほうがいいのは、

おそらく発想がクリアーになるからだろう。

 

露天風呂という「非日常」こそが人々に知恵をもたらす。

 

なんだかんだ、「非日常」性こそが人間にとって必要な要素なのだろうと思う。

夢と、思いと、今の自分と。

私は学生時代から「フリースクールで働きたい」という

思いがあった。

いま私の本業はそれに近い

通信制高校の教員。

結果的に、学生時代の思いが叶っているわけである。

しかし、職場の「バタバタさ」に適応していると、

自分の夢が叶っていることに気づけなくなる。




学生時代、私は

「どこでもいいから遠くで働きたい」思いから

高校教員の試験を受けまくった。

 

(それは大学の研究者の道の険しさへの挫折でもある)

 

 

結果的にそれが叶い、札幌にいる。

 

ただ、「贅沢」なことに、その進路に若干の

不満を持っていることも事実だ。

「なぜ自分は東京でなく札幌にいるのか」

「なぜ遅くまで働くのか」

ときどき、わからなくなる。

 

でも。

いまの状況は自分が願って勝ち取った進路であることを

思い返さなければならない。

どんな状況にいる人も、

その職場・環境を選択したのは「自分」であることを

思い返すべきだ。

 

 

いまの自分は過去の自分の「思い」が現れた姿である。

 

案外、自分の目標・思い・夢は知らない間にかなってしまっている。

でも、多くの場合、バタバタしすぎて気づかないだけだ。

 

いまの自分の状況は、過去の自分の「思い」の結果。

そう思うと、どんな状況も乗り切れそうな気がする。

 

こちらもオススメ!!

  1. 学校現場における「スティグマ」と「ラベリング」 (2)
  2. 山本ケイイチ『仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか』幻冬舎新書 2008 (2)
  3. 「定義」すること (2)
  4. 苫野一徳, 2014, 『「自由」はいかに可能か 社会構想のための哲学』② (2)

ひとつより、ふたつ。〜人生をより豊かにするために〜

大人になると、子ども時代の文化を忘れる。かくれんぼをしたこと、ゲームをしたこと。大人になると、大人文化のみの世界に生きることになる。たとえば飲酒、たとえば喫煙。大人と子どもとの間に、文化の格差がある。

大人か、子どもか、二者択一。そうではなく、両方の要素を楽しめるほうが人生、より豊かになるのではないか。楽しめるものの幅が広がるのではないか。

同様に、二者択一ではなく、両方を選ぶほうが、より豊かに生きることのできるケースが多い。たとえば方言と標準語である。標準語だけ、方言だけでは味わうことのできない微妙な違いや雰囲気を、両方知ることで実感することが可能になる。日本語と外国語もそうである。どちらか片方よりも、両方できるほうが幅広いものの見方をすることができる。大学の専門もしかり。専攻は1つより、2つのほうがいい。今の学術界は学際的学問が普及しつつある。1つの専門知のみでなく、2つの専門知。両者の組み合わせでしか、見ることのできない事実があるはずだ。

 

ひとつより、ふたつのほうがいい。しかし、両者のバランスを取ることは誠に難しい。時間と体力は無限でないからだ。受験生時代の「勉学と部活の両立」に似ている。どこかで折り合いをつける必要がある。下手をすると両方とも身に付かず、中途半端になってしまう。単にちゃんぽんになってしまう。両者あいまって、価値を止揚させていく。その絶妙な関係性を保つためには何が必要か。それには確固たる哲学が必要だ。場合によっては、哲学というよりも「何のためにそれをするのか」という目的意識でよいのかもしれない。「何のためにするのか」問いかける。そしてその結論をもとに、「絶対に両方やりきるのだ」と決意する。両立には何らかの精神性が必要なのだ。

 

1つの視点だけでなく、2つの視点のあるほうが豊かにものを見ることができる。また、人生を2倍楽しむことができる。右か左かだけでなく、右も左も。分かつよりも、選択するよりも、統合を目指す生き方のほうが、豊かに生きられるだろう。会社だけ、家庭だけでなく、会社も家庭も。授業だけ、サークルだけでなく、授業もサークルも。ついでにバイトも、ボランティアも。多くのことをやりきったほうが、見方も豊かになる。友人も多様になる。人生を何倍にも楽しむことができる。

ひとつより、ふたつ。二者択一より、統合。根底に精神性。これこそ、人生を充実させるヒントでないか。