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ノマド・スタディ考。 〜「いつでも・どこでも」学ぶことの陥穽とその対策①〜

「ノマドというのはこの本の冒頭でも説明したように、昔は単なる「遊牧民」を意味していました。しかし社会がだんだん固定化され、産業革命を経て人々が工場労働などに携わるようになって自由な生き方が難しくなってくるにつれ、ノマドは別の意味を持つようになっていきました。つまりは自由の象徴、この圧政と隷従の社会からの闘争の象徴としてのノマドなのです」(223-224)
佐々木俊尚, 2009, 『仕事をするのにオフィスはいらない――ノマドワーキングのすすめ』光文社.

1,ノマド・スタディとは何か

「いつでも・どこでも」学べるという記述。この「いつでも・どこでも」という言葉は、ビジネス書における「ノマド・ワーキング」を思い起こさせる。ドゥルーズ/ガタリのリゾームのように、無限に拡散していくイメージの中で、場所性を超えた働き方のことこそ「ノマド・ワーキング」。このイメージでいくと、「いつでも・どこでも」学ぶということは「ノマド・スタディ」と言えるのではないか。本稿では「いつでも・どこでも」の学習を「ノマド・スタディ」と定義し、それが意味する内容の概念化の分析を試みたい。

2,ノマド・ワーキングとは何か

ノマド・スタディについて考えるにあたり、参照枠組みとしてノマド・ワーキングについて考察することにしよう。「ノマド」はドゥルーズ/ガタリが『千のプラトー』において用いた発想である。ツリー型の知・組織のあり方に対し、リゾーム型のあり方を提唱する際、リゾーム型の主体として想定されたものが「ノマド」である。
浅田(1983)もノマド型のあり方をネットワーク構造として析出している。一般化された「ノマド」の概念は黒川紀章がはじめ「ホモ・モーベンス」の概念を用いていたものを、黒川(1989)から使用し始めている。ノマド・ワーキングを謳う各種文献・雑誌から、ノマド・ワーキングの姿を析出することが本節の課題である。

中谷(2010)は佐々木(2009)を引きつつ、「働く場所を自由に選択する移動型の働き方」(中谷 2010: 6)としてノマドワーキングを定義する。具体的には「パソコン片手に街をオフィス代わりに働くというワークスタイル」(中谷 2010: 7)が想定されている。
「ノマドワーキングとは、仕事をする場所と、活動のフィールドを自分で自由に選択するという働き方です。無駄なストレスや時間の浪費をなくし、ネットワークを広げ、仕事の質を高める仕事術といえます。(…)ノマドワーキングは効率マニアの仕事術とは大きく異なります。仕事は、自分の会社の肩書きでオフィスにこもってやらなくてはいけないという常識を捨て、仲間とつながりながら楽しく仕事に向き合う手法なのです」(中谷 2010: 26)。

この「ノマド」という言葉に対し否定的な論者もいる。斉藤(1999)は「人びとは地域・階級・家族・国家など、みずからが帰属する伝統的な組織から根こぎにされ、ばらばらの個人として資本の蓄積過程へと動員されるようになるからである。この浮遊する個人は、もはやおのれのアイデンティティを伝統的な組織への帰属によってたしかめることができない。人びとは自力で自己のルーツをたどり、自己の喪失を自覚し、自己の存在を確かめるように強められる。二〇世紀の動員体制が生み出した最終的な帰結が、このようなノマド的個人であった」(斉藤 1999:255)。斉藤のみるノマド観は、「自由」というノマド・ワーキング論者のそれでなくデラシネ(根無し草)としてグローバリゼーションの世界の中で孤立する個人像であった。

ここまで見たのは「ノマド・ワーキング」への賛成・反対の声である。「いつでも・どこでも」働けることの利点を述べる中谷に対し、斉藤は「ばらばらの個人」に分けられてしまうことの問題点を指摘しているのである。この両者の立て分けは、これから見ていく「ノマド・スタディ」にも当てはまるのか否かを次で見ていく。

「アンケート」に隠された、3つの法則

私が高校教員として職場で一番学んだのは、「振り返り」の大事さだ。

私の職場ではイベントでもなんでも、何かの後には「必ず」といっていいほど、「振り返り」を行う。

 

「振り返り」、すなわち「リフレクション」である。

端的に言って「アンケート」と述べることにしよう。

 

授業のレポートに「アンケート」的な「感想」欄があるほか、「学校祭」や何かの後も振り返りをする。

その点を日本ノマド・エジュケーション協会のイベントでも行うようになった。

 

その結果、見えてきた法則が3つある。




 

1,リフレクションをすると、イベントの内容が内面化される。

 

これはまあ、当り前。

学んだこと/目にしたことを書き留めると、記憶に残る。

アンケートを書くと、人間は嫌でも「言語化」する。
言語化することは、記憶に残すための第一歩だ。

 

人間、「読めない」英単語を覚えることは出来ない。

Newspaperという単語も、「ニュースペーパー」という読み方と、「新聞」という意味を聞いているからこそ記憶に残るのである。

 

何かを記憶に残すには、アンケートなり日記なりで「言語化」することで、自分のなかで情報が整理される。

アンケートは究極の記憶定着装置なのである(おおげさだけど)。

 

 

2,アンケートを書く/書いてもらうと、結果的にイベント自体が「よい」ものに美化される。

この2の部分,実は一番「アンケート」をやる意味なのじゃないか、と(密かに)私は思っている。

 

 

「今日のイベントはいかがでしたか?」の質問に対し、

「4 とてもよかった 3 よかった 2 悪かった 1 とても悪かった」と書いてあれば、大体の人は「4」を選ぶに決まっているのだ。

特に少人数のイベントの場合、大体の人は遠慮から「とてもよかった」に丸をしてくれる。

 

人間、自分の行動から逃れることは出来ない。

心では「ああ、このイベント、いまいちだったな」と思っていても、アンケートを手渡され、「感想」を書く段になると、「とてもよかった」に「うっかり」丸をしてしまうに決まっているのだ。

 

そうすると、来て下さった人に対しても「ああ、なんか良かった点もあるかも知れない」と「合理化」してくれる。

 

世の中の数あるイベントには、やはり数あるアンケートがある。

アンケートをやっていながら、「読まない」という主催者を、私は多く知っている(私は全て読んでいます)。

「読まない」アンケートも、実はアンケートを書いてくれる参加者に、「このイベント、良かったかもしれない」という「誤解」や「解釈」をもたらしてくれる側面がある。

主催者側にとって、アンケートに1つでも「悪かった」の丸があると、ガクッと来る。

 

 

しかし、大体は「とてもよかった」に「だけ」、丸がついている。

そうすると、世のイベント主催者たちは「俺たち、頑張ったぜ!」とアンケートを見ながらガッツポーズをするのである(たぶん)。

 

 

3,イベントという「贈与」への「反対給付」となる

 

授業とは、単に一方的に与えられる「贈与」である。

しかも、送られる「贈与」を「断る」ことは出来ない(やりにくい)。

 

いやいや聞かされている人にとって、この「贈与」の一方性は「暴力」である。

何かを相手に「返礼」する義務が生じるからだ。

 

 

 

…これがバタイユの言う「贈与」の発想(『呪われた部分』)。

人間、一方的に贈与されると、なにかお返しをする必要があるという、隠れたルールをまとめたものだ。

もうすぐ来る年賀状も、来た以上、大部分の人が「返事」を書く。

そして郵便局だけが儲かる。

 

 

…それはともかくとして、一方的な「贈与」は「反対給付」をする機会がなければ、人間、落ち着かない。

 

授業やイベントの「アンケート」欄は、この「反対給付」を行なってくれる効果がある。

 

 

 

私にはこんな経験がある。

演劇を見た後、何故か「何もやっていない」自分に対し、虚しさを感じることがある。

舞台の役者は汗ダラダラで、全力を尽くして我々に演技を「贈与」してくれている。

でも私は涼しい部屋でただ見るだけ。

おまけに私は基本的に演劇は一人で行くため、誰かと話して虚しさをごまかすことも出来ない。

そんなとき、「虚しさ」を解消するのが「アンケート」なのである。

 

 

自分も何かやりたい。
自分も何か騒ぎたい。

イベントのあとの高揚感は、向かう先がないとすぐに「虚しさ」と軽いうつ症状をもたらす。

そんな現代人の悲しさを解消してくれるのが、「アンケート」という文明の利器なのである。




山本ケイイチ『仕事ができる人はなぜ筋トレをするのか』幻冬舎新書 2008

学校にいると、どうしても「サービス」という発想が弱くなってしまう。

これは学校特有の現象かと思っていたが、そうでもないらしい。

本書はフィットネスクラブでのフリーのインストラクターの本。

フィットネスクラブのパーソナルトレーナーには2種類あるという。

1つはフリーランス、もう1つは内部スタッフとしてのアルバイト。

出来高払いのフリーランスのほうが概してモチベーションと能力が高く、「プロ意識」をもっている。

 

学校の教員とフリーの予備校講師の違いはそこにある。

 

学校の教員は「教える」のが日常化する。
そこで創意工夫をしてもしなくても、報酬は変わらない(変に工夫することで、組織内評価が大きく下がることもある)。

私は教員でもあるが、(自称)社会学者でもある。
社会学で私が好きなのは「合理的選択論」である。

これは「人間は必ず合理的な選択を取る」、という理論である。
一見「奇妙」な習慣も、元は共同体や個人が利益を得るために行うのだ、と考える理論である。

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例えば、未開部族の「雨乞い」を見てみよう。
雨がふるように皆で儀式をすることは「雨」をもたらすこととつながりはないため、「不合理」にみえる。
しかし、雨乞いが必要なほど危機的な干ばつの状況のなか、皆で集まって儀礼をすると、「みなで苦境を乗り越えよう」意識が高まる。
結局は「合理的選択」なのである。

 

学校経営者は必ず、次のように考えています。

「良い教員を揃えたい」
「良い実践を継続的に行わせたい」

そのためにはどうすればいいのだろうか?

「合理的選択論」的には報酬やモチベーションを適切に提供するシステムが必要なのだ。

報酬とは言っても、お金だけではない。
石田淳がいうように「お菓子」を出すだけでも意味がある。

 




本書でも筋トレの持続には「目的意識」の明確化が必要だ、という。
そうでなければキツイ筋トレをするモチベーションが低下する。
「合理的選択論」的には、トレーニングをサボるほうが「合理的選択」になるからだ(「楽をしたい」ということだ)。

そうではなく、例えば次のような目標を立てるほうが筋トレの持続性が上がる。

 

「12月24日までに3kg体重を落としたい」

 

こんな風に具体的数字・日付を入れた目標を立て、モチベーションを出す工夫が必要なのである。

私は昔ながらの根性論は好きではない。
自分や他者のモチベーションの維持をする方法を、常に自覚的に考え続けること。
それこそ、今後もっとも必要とされるスキルである。

(そしてこれが、今後の教育のテーマでもある)

人生は「具体的に」でうまくいく!④

場がないなら自分で作る、将来やりたいことの準備を今日からする

この3月まで、ネコワーキングというコワーキングスペースでインターンをしていました。

その中で学んだことは、①「場がないなら、自分で作れ!」ということでした。

また②「将来やりたいことの準備を今日からする」ということでした。

この2つは密接につながっています。

例えば、インターン時代の私の夢は「いつか教育団体を作り、その中で講演会・勉強会をやりたい」でした。

はじめのうちは「教員になって実績を作り、結果を出しているといつかお声がかかる」という事を考えていました。

「棚からぼた餅」期待パターンです。

これは「いつかアーティストになりたい」人に多いパターンです。
ずっと絵を描いていても、個展もやらなければ店に頼んで飾ってもらうこともしない人、結構います。

研究者もそうです。
自分の研究の売り込みをせず「いつか教授に」を目指す「のんびり院生」はたくさん、います。

私がネコワーキングで学んだのは、「いつか発表をしたいのなら、
来月辺りに場所を借り、宣伝をして、自分で場を作ればいいじゃない」ということです。

「実績がないから…」とか、「不勉強だから…」と言っていても、はじまりません。

とにかく「やってみる」ことが道を開いていくように思います。

 

私も今年の8月、札幌勤務でありながら東京で講演会をやりました。
その模様はこちら

あんまり教員1年目でやる人はいないと思います。

実績も何もないですが、精一杯発表しました。
すると思いの外、よい反応を頂きました。

やってみると、案外簡単なものでした。
こんな簡単なことを「将来の夢」、あるいは「一生の夢」にしていた自分がバカらしく感じてきました。

夢があるなら、「今日」から「具体的に」できる何かを考える。
そして「来月辺り」にやってみる。
その大事さを、私はネコワーキングで学びました。

 

ちなみに、ネコワーキング時代の別の夢は「教員バーを作る」ことでした。

「30歳になったら仕事をやめ、独立して作る」という夢です。

実はこれ、もう叶ってしまっています。

Coworking Cafe 36というバーでの日曜バーテンという形です。

「30歳になったら」「仕事をやめ」「独立して」「作る」という4つの条件がありましたが、すべて条件を揃えずにやっている次第です。

自己資本でバーを作るより、相当少ない負担でやらせていただいています。

この辺りも、「将来やりたいことの準備を今日からする」ということや「場がないなら自分で作る」ということの結果であると思っています。

 

「具体的に」生きるために…「将来の夢」は今日できることからやってみる。

「人生は「具体的に」でうまくいく!」③〜「〜〜してはいけない」と言ってはいけないわけ〜

私の実家そばに、公園がありました。

 

その公園には、トイレが二つ付いています。

 

不思議な事に、両方のトイレに似たような張り紙がありました。

 

1つは「トイレを汚すな」。

 

もう1つは「トイレをきれいに使いましょう」。

 

この2つのトイレ、どちらも似たようなトイレでした。

ですが、「トイレを汚すな」は常に汚く、

「トイレをきれいに使いましょう」の方は常にきれいでした。

 

清掃の回数はどちらも同じです。

 

なぜ、「トイレを汚すな」の方は汚くなってしまうのでしょう?

 

その謎解きをしていきます。

 

そのために、私の学校の話をしましょう。

 

私の学校には「〜〜してはいけません」という張り紙はありません。

 

「自分の傘かどうか確かめましょう」(「傘を間違えないでね」ではなく)や、

「カップラーメンの汁は三角コーナーに捨てましょう」(「ここにラーメンの汁を流すな」ではなく)と

書かれています。

 

なぜでしょうか?

 

それは「具体的に」の逆の効果が働くからです。

 

 

以前、映画『インセプション』を観ました。

レオナルド・ディカプリオが

 

「ゾウのことを考えるな」

 

…と指示をします。

そして、

 

「いま何を考えた?」

と聞きます。

 

相手は「ゾウ」と答えるわけです。

 

この話は心理学の教科書にも必ず書かれています。

 

なぜ相手は「ゾウ」と答えるのでしょう?

 

それは「〜〜してはいけない」という指示が

「具体的」であれば「具体的」であるほど、

相手の意識に強く刻まれてしまうからです。

 

「廊下を走るな!」といえばいうほど、

子どもにとっては「廊下を走る」という具体的なイメージが

明確な形で刷り込まれてしまうのです。

 

「相手が嫌なことをするな」というスローガンも、

無意味なことがこれで分かるでしょう。

 

「〜〜してはいけない」は、世の中にあふれています。

 

「悪を許すな」(正義感ドラマとかによくあります)

「ドラッグ、ダメゼッタイ」(ドラッグをなぜダメか言わないため、イメージが強烈に伝わります。ポスターも強烈に伝わります)

「やめよう、電線のそばの凧あげ」(「電線のそば」と「凧あげ」が具体的であるため、イメージが強烈に伝わります)

 

「〜〜してはいけない」は、強烈なメッセージです。

ですが、人間の脳は「否定形」に慣れていません。

 

 

ベイトソンの『精神の生態学』という本があります。

その中に、「動物は否定語を使わない」という話があります。

 

たとえば犬は「私は仲間だから噛まないよ」というメッセージをどう伝えるか、とベイトソンは説明します。

「噛まない」という言葉は、犬にはありません。

 

そのため、相手の犬に近づき、「あま噛み」することで、敵意の無さをアピールするのです。

 

つまり、「〜〜しない」を示すには、「〜〜」をやって見せないといけないのです。

動物って、大変です。

 

でも、人間もまだまだ動物の一部。

であれば、「〜〜してはいけない」というメッセージは、かなり難しいメッセージであると言えましょう。

 

リンゴを見せて「これはリンゴです」というのはカンタン。

でもミカンを見せて「これはリンゴではありません」と伝えることは難しいことです。

 

「〜〜ではない」「〜〜してはいけない」は、けっこう複雑なメッセージなのです。

だからこそ、「〜〜」の部分の方が簡単に伝わります。

 

 

結論です。

 

「〜〜してはいけない」を言うのをやめましょう(この言い方自体に問題があることは、本文のとおりです)。

なぜなら、「〜〜」が具体的であればあるほど、脳に強くイメージされるからです。

 

これは「具体的に」表すことの効果を、逆説的に示すものです。

なぜなら、具体的であればあるほど、相手に強くイメージされることがここからもわかるからです。

 

「具体的に」生きるために…

これからは「〜〜しましょう」をキーワードにしましょう。

人生は「具体的に」でうまくいく!②

中谷彰宏さんのCD,好きでよく聞いています。

彼をみていると、「007」シリーズを思い出します。

「こんにちは、中谷彰宏です」

これはちょうどジェームス・ボンドの
「My name is Bond. James Bond.」
に通じるものです。

初めに「具体的に」、下の名前まで言ってしまう。

その瞬間から、
どこかにいる「ボンド」さんでも「中谷」さんでもなくなります。

目の前にただ一人存在する(=実存)、中谷彰宏ただ一人として
自己紹介を出来るのです。

私も自己紹介の際、必ず「藤本研一です」と伝えています。

何故か?
それは「具体的に」いうことが、「ただ一人」性を高めるからです。

苗字しか言わない人は、ある意味集合名詞を自己認識にしている人です。

あるいは会社名を頭につけて、なおかつ苗字しか言わない人もいます。

「パナソニックの齋藤です」

この場合、集合名詞が二つもあり、何も引っかかりがなくなります。

具体的に言う場合、脳は単なる「パターン」としてではなく、
新たな事象として認識しようとします。

既存のパターンや既存のカテゴリにはめることを脳が諦め、
その人「ただ一人」という意識が強化されるのです。

だからこそ、今日からは自己紹介の際、フルネームを言いいましょう。
そのほうが、相手の引っかかりが強くなります。

高校生の頃の私は、人の名前を覚えるのが苦手でした。
「確実に覚えた」と思っている人に対しても、
「間違っていたらどうしよう」と思い、「ねえ」とか「そういえば」とか、
その人の名前を呼ばずに済ます方法をたくさん「発明」していました。

これ、よく考えると相手と全く仲良くなれない方法だったなあと反省しています。
誰であれ、「ねえ」としか毎回呼ばれないと嫌になります。

だからこそ、ちゃんと名前をフルネームで呼ぶことが大事なのだと思います。

「具体的」のヒント…フルネームで互いの名前を呼ぼう。

人生は「具体的に」でうまくいく!①

「いろいろ」では伝わらない!

 

私は現役の高校教員です。

そのため高校生の文章をよく読みます。

彼ら/彼女らは「いろいろ」とか「たくさん」とか、抽象的・曖昧な言葉を多く使います。

 

そんな文章を書いてみましょう。

 

「きのう、いろいろな人に会い、いろいろなことをしてとても楽しかった」

 

小学生レベルの作文となってしまいましたが、「いろいろ」がいかに人に「つたわらないか」、よくわかります。

 

「小学生レベル」と思っている人、いるかと思います。ですが、就職活動中のエントリーシートでも、同じようなミスを散見することがあります。

 

「私はテニスサークルで幹事長を務めました。あるとき、サークル内で部員同士の派閥の闘いがありました。幹事長として、この衝突を解決したい。そのために色々行動をしました。いまでは幹事長の経験は宝物になっています」

 

どうでしょう? 一番肝心なところに「色々」を使っています。

読み手としたら「え、こんなところで使わなくても…」とがっかりしてしまいます。

 

読み手である企業の人事係は「きっと殴りあったり、反目したり、懐柔したり、なにかおもしろい展開があるに違いない」と「期待」して読んでいます。

それが「いろいろ」ときた瞬間、ガクッとしてしまうものです。

 

「具体的に」のために…「いろいろ」を使わない。「いろいろ」が役立つのは「人生いろいろ」のみ。

私がネコワーキングで学んだこと。

私の大学院生時代は、1年生の頃と2年生の頃で大きく異なる。

 

1年目の私は、怖いもの知らず。
めちゃくちゃ社会学の本を読みまくり、
「新たな社会学の1ジャンルを作る!」と意気込んでいた。

2年目の私。途中で挫折する。

「研究に意味があるのか」
「進路は大丈夫なのか」

考えすぎて欝気味になる。

そんな私にも「転機」があった。

 

たまたま友人の紹介で、大学そばの商店街
「地蔵通り商店街」(文京区)に行った。

そこで地域活性化に取り組んでいたのが
広瀬さんであった。

 

 

東京なのに、「地域活性化」。

しかも、言うことが変わっている。

 

「東京・文京区の活性化には人口を減らすことが必要。東京の人口を地方に送り、人口を適正規模にすればいい」

シンプルでわかりやすい説明であった。

 

そんな広瀬さんがコワーキングスペースである「ネコワーキング」を作っている動きを知った。

 

ちょうど翌日、漆喰塗りをする、という。
会って早々にその話になり、「面白そうだな」と思った。

そして翌日も漆喰塗りを広瀬さんと行った。

 

漆喰を塗っていると「インターンシップをやらないか」とリクルートされ、そのまま大学院卒業までインターンとして働かせていただいた。

 

広瀬さんから学んだことは3つある。

 

1,どんなことでもイベントに出来るということ

 

広瀬さんはネコワーキングでの壁塗りも、
ネコワーキングの主たる猫たちの名付けも、
なんでもイベントにしている。

 

利用者同士をつなげ、新たな発想が生じるように工夫をしている。

 

2,今の時代、すぐに動かないと意味が無いということ

 

大学院生の頃の私は「いつか、〜〜をする」という夢をいくつも持っていた。

バーの経営やフリースクールを作るなど、「いつか〜〜しよう」というはかない夢だった。

ネコワーキングで学んだのは「いつか」は来ない、ということだった。

 

「フリースクールを作りたい」といった際に返ってきた内容。

ならば週に1度はどこかのフリースクールに見学に行け! フリースクールをつくった人の話を聞け! どこかのフリースクールでインターンシップをしろ!

 

強烈なメッセージである。

 

学生気分の私にとって、どんどん動き、形を作ることに、はじめは戸惑いがあった。

しかしものごとがどんどん進んでいくのは非常に楽しい。

だからいまの私にははかない夢はなくなった。

「いつか〜〜する」という夢もなくなった。

日々の行動で「〜〜歳の時に〜〜する」という夢に変わっていった。

 

3,やみくもに就職活動や研究をするくらいなら、その業界トップのクリエイターや社長、NPOやフリーランスの話を聞きに行くほうがよっぽど役立つということ

 

しょうもないOB訪問や会社訪問をするくらいなら、
学生時代に業界トップの話を聞きに行くほうがいい。

実際、ネコワーキングのインターン中、広瀬さんの紹介でいろんな人にお会いした。

フリーランスやノマド・ワーカー、NPO関係者など、普段会わない人とお会いする事となった。

実際、広瀬さんのお知り合いは面白い人が多い。

 

金を出してでも「すごい人」に会いに行く事の大切さを学んだ。

 

この3つ以外にも実践的な内容もお教えいただいたが(猫の世話の仕方なども)、
広瀬さんとの出会いがなければ、いまの自分は札幌で働いてもいないし、

休日にバーテンやイベントもやっていないし、
札幌に住んで2週間後に市民活動団体を立ち上げることもなかっただろうな、と思っている。

 

 

・・・広瀬さんから教わったことを忘れないため、
私のFacebookのTop画像はネコワーキングのインターンシップ時代のものです。

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いまから何年も前のインターンシップ経験ですが、
いまだに(そして「学校」をやめてしまいフリーランスになった今こそ)役立っています。

 

金を出してでも、学生時代のインターンシップはやるべきだな〜、と思います。

 

 

大学時代の…

最近、学生団体の運営に携わっている人とよく話す機会がある。

その方と話すに連れ、自分の大学生時代の記憶がフッと浮かんでくる。

大学時代の私は、4つのことをしていた。

1つは高校の寮のボランティア(これ、今思うと相当ハードでした)。

2つ目は講演会サークル。

3つ目はバイト(出版社のアルバイト)。

4つ目は教育について考えること(図書館、各種学校や団体への訪問などなど)。

1つ目と2つ目は、私に「組織」に関する知見を提供してくれた。

ネガティブな面もかなりあるが、ポジティブな面ももちろんある。

よく「変わってますね」「変ですね」と呼ばれることが多い私は、
なかなか組織の中で「やっていく」のがすごく苦手だった。

だんだん組織に多く関わるにつれて、組織にコメントすることも出来るようになったが、どうも折り合いがうまくつかないことが多かった。

しかし、私は「逃げる」ことはいけないことだと思い、しつこく行き続けた。
それはなかなか「しんどい」ことだが、得られたものは本当にその「しんどさ」を投資するに値するものであったか、いささか疑問であった。

その頃の私は、「参加している組織に関わり続け、少しずつ変えていく」方法論を取っていた。

この方法論は、うまく行くと組織と自己の関係性を両立させるということが取れるものである。

でも、逆に言えば「両立できない」場合は必ず組織とぶつかるというデメリットがある。

私は同じ組織に4年関わり続けた。
組織の辛さを実感していたが、「逃げ」ないでやっていた。

頑張ったつもりではある。
かなり自分の時間を「投資」した。

しかし、これらの組織から得たものは本当に「投資」を回収するだけのものだったのだろうか?

この疑問が残り続けている。

むろん、楽しい思い出も、
いろんな人と関わった喜びもたくさんあった。
感動の涙を流したこともある。

でも、いまだに私は組織への投資分を回収できたかどうか、疑問を感じている。

なぜ私はそう感じるのか?

その理由はただひとつ。
私が、過剰に/一方的に組織への過剰な思い入れを持ち続けていたため」である。

本当なら、私は「組織」以外のものでも自分を保つ空間や「場」を作る努力をもっと行うべきであったのだ。

本当なら、いくつかの「組織」への参加にこだわらず、もっと複数/多数の関係性を作る努力をすべきであったのだ。

この努力を怠っていたために、「組織」への一方的/独善的な思い入れを行い続け、最終的には「私の投資分を回収できていない」実感につながっていたのだろう。

依存的な関係性は、あまりうまくいかない。
これは個人のみならず、組織に対しても当てはまる。
(勝間和代の『まじめの罠』でもある)

今後の自分の生き方も含めての、結論。

1,ある組織への過剰な思い入れをやめる。

2,いろいろな組織・団体・ひと・場所に移動し、「自分」を形作り続ける努力をする。

3,いろんな組織・個人を見ながら、自分にとって居心地のいい組織・コミュニティを「作る」努力をしていく。

…そういうことに思い至った。

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やる気の出し方。

「やる気」というのは、全てに通じます。

「やる気」のある人は、明るいです。
「やる気」のある人は、仕事を楽しめます。
「やる気」のある人は、すべてを前向きに捉えます。
そんな「やる気」のある人に、憧れたことはありませんか?

何かを始めてその「やる気」を保ち続けるにはどうすればよいでしょうか。やる気を出すには「まず、やってみること」です。勉強も練習も、はじめるまでが難しいのです。
やり始めると案外やる気が出続け、うまくいくものです。

「まず、やってみる」ためには、例えば「それ以外、やることがない」状況を作り出すと簡単に出来ます。
たとえば読書をするなら電車に書籍を持ちこみ、到着するまで読み続けるという方法があります。自分の家が勉強しにくいなら図書館に行くなどがあげられます。

どちらにしても、「やる気がでない」のは自分自身が悪いわけではありません。
自分を責める必要は全くなく、やる気を出しにくい状況に自分がいるのが理由です。

だからこそ、「やる気」が出やすい環境を自分で作り出すことが重要です。
まずは環境づくりからやっていきましょう。自分の家や部屋を掃除すると、気分も良くなりますよ!