教育論

教育とは権力なり。

いま、卒論を執筆中。

教育と権力の関係が、頭に上ってくるようになった。
「教育しよう」という意思には、「他人を意のままにあやつる」という側面がつきまとう。たとえ被教育者である子どものことを考えていたとしても。
『オートポイエーシスの教育』の山下は、教育というものは子どもを社会化させる営みであると語る。多少強制的に教育を行ったとしても、それは絶対に必要なものだ、と考えているためである。私は山下のようには考えない。強制的に教育を行おうとする意思は、やはり権力作用であり、なるべくなくしていくほうがよいのではないか、と思うのである。
カール=べライターは、教員が「こんな風に子どもが成長するようにしよう」と教育することを批判する。ベビーシッターは他人の子どもの教育に口を出さないのに、なぜ教員は他人の子どもの教育、しかも精神面まで口を出せるのか、と。その後、次のように書いている。

信頼に値する公務員(注 教員のこと)は、教育するという権力を、人々を豊かにする権力と同じように重視する者でなければならない。この権力は濫用されてはならず、できるだけ公正、公平、かつ自制して行使されるべきである。(『教育のない学校』18頁)

教育は権力である。その自覚を忘れない教育実践こそが、近代成熟期の日本で必要なのだと思う。

「学びの共同体」は制度化された「学び」か?

 卒論に「学校化」論を書いている。

 「学校化」を通して主張すべきなのは、本来的な「学び」の復権である。
 「学び」概念を提唱したのは佐藤学だ。「学びの共同体」という実践を行い、着実に結果を出しているという(『現代思想』)。
 イリッチの主張する「学び」は、佐藤の「学び」とイコールであるのか、どうか。この考察が必要になってきた。
「学校リベラリズム宣言」の内藤朝雄も筆を取った『学校が自由になる日』の後半には、「学びの共同体」批判がなされている。共同体的な学びでなく、もっと学びを個人の営みだと考えていくべきだ、と主張している。もっとも、作者の一人である宮台真司は『日本の難点』など直近の本の中で、学びの共同体的な教育実践を評価するようにはなってきている(〈できる子もできない子もいるほうが、学びがすすむ〉などと書いている)。
 佐藤の実践は制度化された「学び」であるような気がしてならないように感じられる。「学びの共同体」は、確かに旧来の「学校」よりは「学び」が「学校化」されずに済んでいるだろう。けれど、より巧妙にプログラムされた「学校化」された「学び」になってしまってはいないだろうか。結局、〈学んだことは教えられたことの結果だ〉と考える「学校化」・「価値の制度化」が起こっているだけのように感じられる。
 

イリッチとフレイレ。

山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』は面白い。今まで書いていた卒論に、書き直しを迫る内容である。ある意味「もっと早く読んでたら、無駄足をしなくて済んだのに」と思ってしまい、悔しい本だ。けれど、あえて『脱学校の社会』のみを自分(とO君)で読み解く挑戦をしてきたからこそ、山本の指摘が響いてくる。ムダ歩きは無駄にあらずである。


 イリッチとフレイレの思想は本来違うにも関わらず、どちらも「脱学校論者」といわれる。山本はいう。両者は「脱学校論者」ですらなく、2人の思想もかなり違っている、と。

 少しまとめてみよう(『学校の幻想 教育の幻想』193頁より)。

フレイレは‘教育はいかなる時代にも普遍的にあった。現在、それが抑圧の教育となっている歴史的・イデオロギー的性格を把握する’といいます。しかし、イリイチは‘教育そのものが近代の構造的な産物であって、その本性からして商品である’とみなすのです。


 言ってしまえば、教育を「人類普遍の営み」とみなすフレイレに対し、「いや近代になってつくられたものだ」とイリッチは主張する。他の思想家で言うと、フレイレの立場は「人間は教育によって人間になる」と書いたカント、イリッチの立場は「教育は近代が要求する国民育成のために創られた装置」というアリエスに似ている。

Don’t feel. Think!

 試験会場で、試験官が「どうせ皆読まないだろうから」と試験の規定を棒読みする。それが公平な試験にとって必要なことだと思われている。受験生はボーっと話を聞く。これ、「学校化」された典型的な学校と同じだと思う。

 「どうせ自分では学ばないから、俺が教えてやるしかない」と教員が一方的に話をする。生徒は教科書に載っているような話まで、黙って聞かなければならない。少なくとも、聞いているフリをしないと評価が下がる。
 これでは知識を学んでも、知識にだまされる「考えない」人間になってしまう。
 ブルース・リーは映画で言った。「Don’n think. Feel!」と(『燃えよドラゴン』)。
 いま、学校の中では教員や生徒の出す空気を感じ取ることを重視し、自分の頭で考えることが少なくなっている(O先生の言う「他人の頭に頼る」「自分の頭で考えることに自信を持てない」)。
 いまの時代、ブルース・リーの逆が必要だ。「Don’t feel. Think!」と。

余湖三千雄『いまある自分を打ちこわせ!』泉書房、2003年

 筆者は予備校理事長・高校理事長。農業、運転手などを経て、30にして学に志す。通信教育で日大に通いはじめ、11年かけて卒業。予備校教師→独立して予備校を興す→私立高校設立。ただものではない。

 学に志した後も、始め数年は全く成績が振るわない。1年かけて「豆単」暗記に挑戦するも、覚えていたのはわずか20単語。けれど「一点突破法」で壁を破り、予備校で英語教師ができるほどの実力を付ける。生き方がカッコいい。こんな生き方をしたいものだ。波瀾万丈だからこそ、学問の意義を語る姿が粋に映る。

 印象的だったのは日大卒業後、早稲田大学の英語専攻科へいったときのワンシーン。早稲田大学生に対し、言及している場面である。忘れられないほど印象に残っている。

この類の学生(無責任で、他人の迷惑を考えない学生)や、教室の後ろに固まってお喋りする連中は高田馬場駅界隈で酒を飲み、気勢を上げ、スクラム組んで「都の西北」を歌って満足する。私も酒が好きなので誘われれば同行するが、「スクラム組んで都の西北」には、どうしても参加できない。
 とは言え、母校の校歌が嫌いなのではない。全国の校歌の中で最も素晴らしいと信じているし、運転中やアパートでは一人口ずさむほど好きである。だのに、彼らと一緒には歌えないのだ。彼らはやるべきこともしないで、「都の西北」さえ歌えば全て免罪されると考えていると思われてならなかった。私の好きな校歌を免罪符扱いすることには、どうしても我慢ならなかった。(178頁)

「彼らはやるべきこともしないで、「都の西北」さえ歌えば全て免罪されると考えていると思われてならなかった」。この言葉は恐ろしい。自分が「彼ら」にならないよう、自律した生き方をしていく必要性を感じる。そう生きることは、自己に身体化した「学校化」された生き方をはねのけることになるはずだ。
 

山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』 抜書き集。

山本哲士『学校の幻想 教育の幻想』 抜書き集。

教育の学校化は二重です。第一の水準では、「教授instructionが学習learningを生産するということを教えるteach」内容として現れています。第二のレベルでは、「学校の存在が学校化の要求を生産する」となります。これが、わたしのよぶ、制象化と制度化の二重の意味での‘インスティチューショナライゼーション’です。(232頁)

卒論の進み具合。

 早稲田大学教育学部教育学科教育学専修の卒論規定文字数は3万2000文字である。

 途中までではあるが、いま3万4000文字を埋めた。
 本ブログのリンクに途中までではあるが卒論を掲載したので、ご興味のある方は参照していただきたい。ちなみにここからも見ることができます。可能ならぜひコメントをお寄せ下さい。文章は随時更新していきます。
 なお、別のブログに掲載したのは果てしなく文字数があるからである。
 友人Oに聞くところによると、早稲田の場合卒論を出した後、本人の手元に提出した卒論が返されるようだ。この場合、卒論を読むのは①書いた本人、②担当教諭くらいである。合計、たった2人。ある意味で卒業論文を書くために4年間の歳月を費やしたのであるから、これでは苦労が報われる気がしない(卒論を「2日で」書き上げた場合は除外するものとします)。
 修士論文になると院生読書室に保管される。そのため、「何十年もした後、後輩が論文を読み研究に生かす」というプロセスが起きる可能性を期待できる(ほとんどこんなこと、発生しないだろうが)。
 卒論が本人に戻されるというのは悲しい。せっかく苦労して書いたものなのだから、いろんな人に読んでもらいたい(自己満足な研究である場合は除く)。
 そのため、ブログに掲載することにした。だれかがGoogleで発見してくれると、自分の苦労が報われる気がするからだ。 

諏訪哲二『間違いだらけの教育論』光文社新書、2009年

 『間違いだらけの教育論』において諏訪哲二は、映画『奇跡の人』に描かれたヘレン・ケラーとサリヴァン女史の関係を元に教育論を語る。「野生」的本能丸出しであった少女ヘレンに、サリヴァンはスプーンとナプキンを使うことを強制させる。ヘレンにとってそういったものは「不合理な文化(外部)」であった。

それでもサリヴァン先生は執拗にちからずくでその方式をヘレンに押し付ける。固体の外部に構築される文化(作法)は、個体にとって合理的ですらないのだ。その不合理な文化(外部)を受け入れさせられることによって、ひと(個体)はひと(個人)になるのであろうか。ここが「啓蒙」としての教育の出発点である。(諏訪哲二『間違いだらけの教育論』光文社新書、2009年、10頁)

 これにより「ヘレンは生まれてはじめて外部を積極的に認めざるをえなくなった」(同11頁)。ここから「奇跡」が始まり、ヘレンの人間的成長が始まっていく。

 この後、諏訪は「『啓蒙』の教育は上下関係のないところで成立するはずがないのだ」(同17頁)と述べる。教師-生徒という上下関係があるからこそ、子どもが近代的理性をもった近代人に「啓蒙」されるのだ、と説明している。

 

日本の子ども・若者たちのある特徴的な人たちは、物理的に「見えて」「聞こえて」「しゃべれる」にもかかわらず、ヘレン・ケラーのように外部や文化やルールを受容する手立てを精神的に奪われている。外部に一度屈服していないから、全能感的な「この私」的な自己感覚の支配下にあり、外に表示し生活する「私」(近代的個人)になっていない。彼らを取り巻く環境に「啓蒙」としての教育が強力に働いていないとも言える。(諏訪哲二『間違いだらけの教育論』光文社新書、2009年、25頁)

 ここまでが『間違いだらけの教育論』の「序論」に書かれている。近代的理性をもった近代的個人を生み出すのが学校の役割であるとして、諏訪は論を展開していく。 

 「おわりに」において諏訪は言う。

識者の多くが教育論において躓くのは、子どもが自ら学ぶ主体としてそこに「いる」ことから議論を始めてしまうからです。ひとは学ぶべきもの、子どもは本来的に学ぶことを望むものと固く信じているからなのでしょう。(…)学ぶ者となるためにはまず「啓蒙」としての教育の局面が理屈ぬきに必要です。そこから子ども(ひと)は「文化」としての教育、そして、「真理」としての教育に進んでいけるのだと思います。(諏訪哲二『間違いだらけの教育論』光文社新書、2009年、229頁)

 この「啓蒙」としての教育が、ヘレンがサリヴァンから受けた「外部」の存在に自覚し、「学ぶ」という意欲を持ち始めることなのである。諏訪のいう「啓蒙」としての教育も、ある意味でナショナルミニマムとしての義務教育に入るであろう。

 ただ、フリースクールを専門に研究している学徒として、筆者は諏訪の語りに疑問を持っている。この「啓蒙」を行う場所としてフリースクールを想定してもよいはずだが、諏訪は学校で教師が行うことに固執している点である。

 さらに気になるのは、本書の帯が観である。「小林よしのり氏推薦」として「彼らこそ、日本を貶めた5人の教育家だ!」とし、齋藤孝・陰山英男・義家弘介・寺脇研・渡邉美樹の5氏を名指ししている。本文を見ても、作者の諏訪は5人に「日本を貶めた」と言及する点はどこにもない。それに、本書は識者の教育論がいかにデタラメであるかを説いた本なので、「貶めた」はイイスギである(受験現代文の参考書では、よくこういう書き方をする)。また、本文ではこの5人に内田樹をプラスした6人を批判しているため、「貶めた」発言のためにはあと一人多く書かなければならないだろう。

NPO法人東京シューレ編『フリースクールとはなにか』教育資料出版会、2000年

『フリースクールとはなにか』より、印象的な部分を抜書きする。

●東京シューレでの教育プログラムを決めるのに、講師を探し、時間と場所やスタッフの関係を調整し、ミーティングで決めるなど、多くのステップを設けている理由について。

このような決め方をするのは、学びとは何をどのくらい、どのように学びたいかを、自分で決めるものであって他人が押しつけるものとは考えていない、という学習感があるからだ。また、やりたい、学びたいというものに取り組むのは、学習がすすみやすいが、やりたくないもの、なぜやるかわからないものをやらされるのは意味がなく、マイナスを生むということもある。うんざりしたり、学習ぎらいになるくらいならやめた方がよい。興味、関心を大切にすることを軸にしていくことをシューレでは原則にしている。(153~155頁)

●東京シューレでは、子ども達が自由に学び、自由に過ごし、自由に遊んでいる。子ども達が積極的に活動している。けれどそれは無理にさせていることではない。
探究心が育つとか、行動的な子になるから自由は大切だというような、教育的見地で、自由にさせているということではない。目の前にある時間を、必ず目的をもって行動しなければならないのはおかしいし、息苦しい。安心してなんとなく過ごせる場、たわいなく暇つぶしのできる場でありたい。(・・・)
何でもやれる自由、何もしない自由。シューレのなかで、時間の流れは人さまざまだ。(172頁)
●フリースクールに通っている子どもの手記から。

(フリースクールなどで)人と会話をしているだけで学びがあります。人と話していくなかで自分自身も見つめられるようになり、いまの私があるのもすべては会話から生まれたもので、人にとって聞く、話すということはとても大切で、たとえそれがテレビや音楽のことでも決して無駄な時間ではないことがよくわかりました。これからもたくさんの人と話し、自分を広げていきたいと考えています。(211~212頁)

*(  )内は石田。
●「やりたいこと」について。

やりたいことを見つけるには時間がかかる。しかし、自分の好きなことをやっていこうと思ったときが出発点である。何歳になっても、学校に行くことも、働くことも、ボランティアも始められる。ただ、不登校である自分を肯定していないと、いつまども苦しいプレッシャーにとらわれてしまう。それには、やはり親やまわりの理解であり、ゆっくりと過ごす時間がとても必要なのだと感じる。(233頁)

子どもの冒険の自由と、教育組織としての安全確保義務の軋轢。

 もうすぐ、私がボランティアをしているもう一つの組織の活動が始まる。中学・高校の寮のボランティアである。夏休みが終わり、新学期が始まるからだ。寮生の安全確保や見回りなどが仕事の内容。後は寮生と語り合って有意義な時間を過ごしている。

 いつも着任のたびに思うのは子ども(寮生)の「冒険」の自由と、教育組織としての安全確保義務との軋轢である。寮生は時々、かなりのムチャをする。行事前の徹夜、いまは減ったが寮の夜間抜け出しなどである。私はボランティアの立場からこういった行為を止めに入る。万が一、事故・怪我があった場合、学校組織としての責任が発生するからだ。けれど、それがときに寮生の「冒険」「挑戦」の自由を阻害しているように思うときもある。
 フリースクールの場合は少し異なるようだ。『フリースクールとはなにか』(NPO法人東京シューレ編、教育資料出版会、2000年)という本がある。フリースクール・東京シューレに通う子ども達の日常を綴った本である。サブタイトルの「子どもが創る・子どもと創る」にあるように、子どもの自発性に任せた活動を行っているのが東京シューレだ。子ども達が「やりたい」という自発性に基づいて、行動を行う。本書に載った内容を見ると、「危険じゃないのか?」と思うものもあった。それでも、「子ども中心の教育」を行うため、大きく抱擁する形で教育活動が日々行われている。
 無論、事故・怪我が起きたときのため、保険をかけたり、スタッフが付き添ったりしているのだろう。けれど、万が一事故が起きたとき、マスコミ沙汰になり「あのフリースクールは何をやっているのだ」という非難にさらされてしまう。
 私のボランティアをしている寮は、安全確保を何度も呼びかけ、事故を未然に防ごうとしている。
 教育において難しいのは、ここに書いた内容であろう。かつて親友のOがゼミにおいて「性教育でも、間違いから学ぶことが重要だ」と発言したところ、顰蹙を買ったと聞いた。「失敗から学ぶ」のは当然重要な考えなのだが、例えば実際に「妊娠中絶」を経験して学ぶというのはいかがなものか、とは思ってしまう。けれど、考え方としえては「失敗から学ぶ」という方向性は成立することであろう。いま参議院議員の「ヤンキー先生」は、公約として「子どもたちが安心して失敗できる社会に」と言っていたことを思い出す。
 教育組織としては子どもが失敗(事故や怪我)しないようにするが求められるが、失敗することから子どもは多くを学ぶ。子どもの冒険の自由とは、この「子どもは失敗からも多くを学ぶ」ということを理論化したものだ。また子どもが自発的に行動を行っていく、ということにもつながる発想である。大人が「安全確保」を行い、失敗をする危険性から子どもの行動を阻害した場合、子どもの成長するチャンスがつぶされてしまうのではないか、と思う。
 私の行っている寮は中学生と高校生の寮だ。ある程度、大人である。安全確保をするのは当然だが、もう少し寮生の自由の幅を広げてあげてもいいのじゃないか、と思うことがある。
 
 けれど、さきほどの「妊娠中絶」の話ではないが、「大失敗」的な失敗をしないよう、大人は子どもに接していくべきでもある。子どもの冒険の自由と教育組織の安全確保義務は、単純なゼロサムゲームではないのだ。片方を求めれば、もう片方が立たなくなるものではない。折り合いをつけながら、バランスを取ることこそが必要なのだ。どの程度まで「冒険」を認めるか否か、という点である。
 この問題はもう少し考えていきたい。
追記
 『千と千尋の神隠し』という映画がある。両親を助けるため、千尋は温泉宿で働くなかで、神様やカオナシのおこす問題を解決していく、というストーリーである。千尋の「冒険」が、物語を成立させている。
 重要なのはこの千尋の「冒険」は、両親には一切見えていないということだ。教員や、地域の大人にも見えていない(別の世界の話だから、当たり前といえば当たり前)。子どもの自主的な冒険はそもそも大人には見えないものではないだろうか。同じく宮崎アニメの『となりのトトロ』も、メイとサツキ姉妹の「冒険」はトトロやネコバス同様、大人には見えていない。
 おそらく寮の中でもフリースクールの中でも、大人(教員やボランティアの学生)には見えない「冒険」が繰り広げられていることだろう。表面化に出た「冒険」のみを、大人が認識する。
 本稿の中で「子どもの冒険の自由と、教育組織としての安全確保義務の軋轢」を問題にしたが、そもそも子どもは冒険をどんなに「安全確保のため、禁止!」されたとしても、大人の見えないところで冒険してしまう存在なのではないかと思っている。ちょうど、高校生のときの自分のように。