教育論

集団の健全性は、内部批判者への対応によって決まる。

 昨日、サークルの話し合いに参加。議題は、11月8日の早稲田祭企画について。企画の方向性や意義、今後のスケジュール等など。大体2時間半かかった。これから毎週続く。いつ故郷に帰るべきか、毎年タイミングを計るのが難しい。
 本サークルの特徴は、方向性を定める3〜4年生の「首脳」メンバーが、時を追うごとに減っていくという点だ。十数人から始まり、いまはヒトケタ。「次は自分がいなくなるかも…」との不安を、今でも持っているのが私である。

 そのサークル内では「来ないメンバーを何とか来れるようにしよう」という声が強い。以前の私はその声に同調する側だった。けれど、最近は疑問を感じている。無理にサークルに来させることに、いかほどの価値があるのか? 周りの「首脳」は来れなくなったメンバーが戻って来て、「僕が悪かった。ごめん」というシナリオを描いているようである。
 
 あれ、こんな構造、何かに似てるぞ? そうだ、学校組織だ。
 『学校が自由になる日』の内藤朝雄の文章を思い出す。日本の学校共同体の中では いじめられた側が「私が悪かった。性格を直すから、仲良くして」とすりよるため、陰惨な いじめが行われることがあるという。
 いじめられているなら、学校という集団に来ないという「不登校」という選択肢もある。けれど、日本の子どもたちは虐められるのが分かっていながら、学校に行ってしまう。「学校に行かないのは悪いことだ」と素直に信じている者も多い。 
 不登校は社会の健全性のバロメーターではないか。そんなふうに思う。いじめという「人権侵害」のある集団に、「NO!」を突きつける個人がいるかどうかが重要なのだ。理不尽な苛めがあっても、誰も不登校という選択肢を選ばない。そんな集団は個人に際限のない人権侵害を行ってしまう、「腐った」組織である。不登校を選んだ子どもがいるという事実が、集団から逃れるという選択肢の存在を、集団内メンバーに自覚させることになる。
 不登校は悪いことではない。不登校の存在が「不登校という道がある」と他の構成員に示すことになるからだ。

 不登校同様に、サークルに来れなくなったメンバーの存在を認められる集団は、「健全である」という評価をすることができるのではないか。皆が一律に同じ行動をする。そんなことは不可能だ。集団の力は個人よりも大きい。故に、しばしば集団は個人に人権侵害を行う。人権侵害が存在していても、「集団に参加し続けないといけない」と思うことが、さらなる侵害を招く。いじめの構造だ。

 集団の力は、個人よりも強い。そんな中、不登校という存在は「集団から出ることは可能なのだ」という、強いメッセージを他の集団内メンバーに示すことができる。

 学問の世界では、論文の評価は〈批判が来るかどうか〉で決まる。よい論文には、必ず反論がある。反論・批判がない論文は最悪の論文だ。同様に、集団に対して構成員から批判がないのは不健全な組織であることが多いのではないか。つまり、通常の認識とは逆に、学校における「問題児」や「不登校」の存在は、学校が「健全」であることの証明であるのだ。逆転の発想である。

《全員が》、《一人も残らず》、《一丸となって》、《団結する》。学校的共同体特有のキーワードである。本当に人々が「心を一つに」することはあるのだろ うか? 幻想である。内田樹は〈幻想であっても、幻想があると考えることに何らかの意味があるならいい〉というだろう。けれど、この問題に関し『サヨ ナラ、学校化社会』で上野千鶴子(内田の「天敵」)が語ったのは、「学校化社会とは、だれも幸せにしないシステムだということになります」(57頁)というメッセージであった。「学校化社会」とは、学校的共同体がもたらす「幻想」の別名である。
 無論、組織によっては本当に皆が「心を一つに」しているところも存在するかもしれない。けれど、それを当然視していると、集団が個人に持つ暴力性に対し、無自覚になってしまう。「心を一つにするのが当然だ」と、集団に批判的な個人を攻撃することとなるからだ。

 まとめをするなら、こうなるだろうか。集団は個人に対し、しばしば人権侵害を行う。そのため、「集団から逃れることができるのだ」という道(不登校など)を示している集団は、個人の人権侵害を極力減らすことができる。それゆえ、「健全である」といえる。逆に集団から逃れることができない組織(あるいは集団から出るということを誰も行っていない組織。不登校のない学校など)は、個人に対し人権侵害を行っていることがある。
 離脱者がいる集団こそ、健全な集団であるといえるのだ。
 

 

お札と切手の博物館

 夏休みは、何もすることがない。
 自宅そばにある「お札と切手の博物館」に行ってみる。
 夏休みということもあり(入場無料ということもあり)、親子連れが多かった。

 いままで日本のコインは「型に流し込む」という鋳造コインであると思っていた。本当は金属片に型をあて、上から叩いて模様を付けていたそうだ。打刻コインというらしい。

 教育社会学者を目指すものとして、本展示の「隠れたカリキュラム」を探っていきたい。国立印刷局が「お札と切手の博物館」を開く意図はどこにあるのだろう。

 国家は、さまざまな制度を「国家のみがそれを行うのだ」という強烈な意志を持っている。人々の商取引の際、なくてはならない存在である「貨幣」は、国家の信頼の証しである。古来より、洋の東西を問わず贋金づくりは極刑に処せられてきた。何故か? 貨幣の信頼は国家自体の信頼にもつながるからだ。
 「お札と切手の博物館」内では、何度も次の説明に出会う。
 《日本の紙幣の印刷技術が高いので、日本の紙幣は偽札をつくりにくいことで有名です》。
 まさに、偽札が出回らないことこそ、国家信頼の基であると、国立印刷局が語っているのだ。

 もう1点。博物館の中に海外の紙幣を展示しているコーナーがあった。聞いたこともないような国の、見たことのない人物の描かれた紙幣。よくニュースに登場する、ドルやユーロの紙幣。こういった様々なものを見ていると、各国それぞれ別の紙幣を使用していることが見学者に伝わる。それと同時に、「紙幣を出せるのは政府だけだ」というメッセージを見物人に伝えることができる。
 江戸時代、日本で使われていた紙幣は「藩札」であった。全国の藩が、領内のみでつかえる紙幣を勝手に発行していたのだ。明治政府以降、一時期は銀行が勝手に紙幣を出せた時代もあるが、発行するのは一貫して政府であった。

 貨幣の発行主体こそ、国家に他ならない。各国の様々な貨幣を目にした見学者は、知らず知らずのうちに「貨幣をつくっていいのは国家だけなのだ」ということを学んでいく。
 意図的か知らないが、この博物館には「地域通貨」の説明が一切ない。

注 「隠れたカリキュラム(潜在的カリキュラム)」について、田中智志『教育学がわかる事典』(日本実業出版社、2003)には次のようにある。

「潜在的カリキュラムの内容は、教師によって明言されることはすくないけれども、教育関係が成り立っているところでは、それは暗黙のうちに子どもに強要され、暗黙のうちに子どもに了解されている。それは、たとえば、教師を尊敬するという態度、衆人環視のなかでの自己表現・自己防衛する知恵など、教育関係を存立可能にしている基本条件である」(109頁)

早稲田に受かる人はどんな人たちか?

 早稲田大学で、オープンキャンパスが開かれている。道理で馬場下町の交差点に制服の高校生が多いわけだ。大学の受付で、オープンキャンパス参加者に配っている資料・プレゼントを受け取る。別に「悪いことをしている」実感はない。「ください」と言ったら、役員が渡してくれたんだから…。

 『入学データ集2010』を開く。受験のデータを見ると、いろいろ面白い。一緒にもらえる「早稲田大学案内」は読まないことにしている。読めば読むほど、「へー、早稲田ってこんなにいい大学なんだ。そうは全く見えないんだけど」とツッコミたくなる衝動を押さえにくくなるからだ。

 わが教育学部・教育学科・教育学専修の2009年度入試の倍率は5.8倍。私のとき(2006年度入試)とほぼ同じだ。一応、チェックしておく習慣がある。

 「出身高等学校所在地別状況」という項目に目が行く。早稲田に来る人たちの出身地がほぼ分かる、という便利な資料だ。
 最も数字が多いのが東京都。31.43%もの学生が東京にある高校出身だ。地域としては関東の高校出身者が全体の71.14%を占める。うーむ、早稲田はほとんど「関東人」のための大学といえそうだ。

 わが故郷・兵庫の出身者はわずか1.42%なり。みんな、ワセダになんか来ないんだ、と思うと寂しくなる。近畿地方までみると4.94%。早稲田生100人中、5人ほどが関西の高校出身。関西は少数勢力だなあ、と心もとない。

 リストの一番下に私の目は止まった。「高卒認定等」の欄である。なるほど、「出身高等学校所在地」であるわけだから「高卒認定」試験で入ってきた人は除外されているわけか。「高卒認定等」の受験者は1397名。合格者は134名。2009年度合格者全体に占める割合は0.92%である。
 ちなみに、北海道の高校出身者は0.97%である。「高卒認定等」で早稲田に合格した割合とほぼ同じ。早稲田大学内で北海道の高校出身者に会うのと同じくらいの割合で、「高卒認定等」合格者がいるのである。私のいるゼミに、北海道の高校出身の先輩がいる。この方と遭遇したのだから、案外「高卒認定等」でワセダに来た人はいるのだろう。

 フリースクール→高卒認定→大学進学、というルートが認められることを期待している私にとって、このニュースは非常に嬉しい知らせであった。

早稲田大学教育学部 自己推薦入学の裏側

 わが早稲田大学教育学部には、自己推薦入学試験制度がおかれている。自己推薦入学試験(いわゆるジコスイ)とは、部活の全国大会優勝などの実績をアピールし、受験する試験制度である。早稲田の全学部に自己推薦入試があるわけではない。そのために、「一芸」に秀でた人々は「教育」に興味がなくとも教育学部にやってくることとなる。

 ちなみに「一芸」入試で有名なのは亜細亜大学である。登山家の野口健はこれを使って入学した。彼の著書は『落ちこぼれてエベレスト』。私はそれをもじって『落ちこぼれて亜細亜大』と呼んでいる。
 閑話休題。その早稲田大学教育学部の自己推薦入試であるが、合格してきている人々はどんな「一芸」に秀でているのであろうか? やはり全国大会1位などが多くなるはずだろう。どんな人たちが合格しているのだろうか。
 そう思い、さっそく早稲田大学の教育学部の学部事務所に行った。そして「自己推薦入学のご案内」というパンフをもらった。以下はパンフに載っていた昨年度のデータである。
 なお、下の学芸系とは「全国書道展1位」などの文化系での実績、スポーツ系とは「サッカー全国大会3位」などの体育会系での実績、全校的活動系とは「生徒会長」などの実績で合格した人のことを指す。
 自己推薦試験、志願者は計390名。そして合格者は61名。
 では学芸系での合格者から。志願者128名、合格16名。倍率は約10倍。
 続いてスポーツ系。      志願者175名、合格23名。約8倍。
 最後に全校的活動系。    志願者87名、合格22名。約4倍。
 なんと、最も合格率が高いのは「生徒会長」「生徒会副会長」などの「全校的活動系」の実績で受験した人達なのだ。ときどき生徒会長になることを「大学入試のための点稼ぎ」と悪くいう人もいるが、「確かにそうともいえるよなあ」と思ってしまうデータであった。
 ちなみに、私は高校では生徒会長。ああ、ジコスイを使えば早稲田に簡単に入れていたのか・・・。あんなに苦労しなくても良かったのに・・・。悔やむ心が起きてくる。
 
 ところで、「いない」とは思いますが、これを読んでいる受験生で、かつ生徒会長の方へ。早稲田大学教育学部への自己推薦試験を受けてみることをお奨めします。「教育」への興味はなくて構いません(私も教育学部は第五志望。まさかここへ通うことになるとは)。だって倍率はたかだか4倍なのですから・・・。

「学校じゃ教えてくれないこと」批判

 よく、「学校じゃ教えてくれないこと」というキャッチ・フレーズを耳にする。先日買った本の帯紙にもそう書かれていた。「学校じゃ教えてくれないこと」というタイトルのテレビ番組もあった。『教科書にない!』という漫画もある。「学校では教えてくれないけど大事なこと」というような本を読んだこともあった。

 「学校じゃ教えてくれないこと」という言葉には、「もっと役立つことを学校では学びたかった」という思いが込められている。そんな思いを哲学的にはルサンチマンという。学校に対する「恨み」ということだ。この「恨み」はしかし、学校それ自体への批判ではない。「学校制度でこんなことを教えてほしかった」「もっと役立つことを教えてほしかった」との、ムシのいい思いが感じられる。学校で「教える」ということ自体には何も批判をしていない。また「教えられる」ことを無条件に「善」としている点も気になる。
 問題なのは「教えてもらいたい」「教えられたい」という受身の感情、「奴隷根性」が見え見えである点だ。自分で学ぶ、という自発性・能動性が感じられない。思想家・イリッチは『シャドウ・ワーク』などの著作を通して、「自分でやること」「自分で作り出すこと」「自分で学ぶこと」の大事さを訴えた。他者を頼りにする姿勢(ここでは「教えられるのを待つようになる」という「学校化」の様子)は本当の人間のあり方ではない。
 「学校じゃ教えてくれないこと」。この言葉、脱学校論者からみれば「当たり前じゃないか」と感じる。学校は何も役立つことを教えてくれはしない。そんな期待をしてもいけない。来年には私は「教員免許」を入手できるが、「先生」といわれるほど人格は高くない。「人生において大事なこと」を教えられる自信は全くない。
 人生で大事なことなんて、学校が教えてくれるわけないのだ。自分で学ぶしかない。そんな当たり前のことを、なぜ今さらキャッチ・コピーに使うのだろう。
 私は高校までは「優等生」であった。早稲田という場所は「優等生」を崩してくれる場所である。だいぶ不真面目になったなあ、とつくづく思う。
 こんな話を、非常勤講師をしたとき、中学・高校でしたいものだ。
追記
 イリッチの話を敷衍するなら、学校の「部活動」というものにも再考が必要だ。
 部活動は「勝利主義」的。勝つこと・プロになることを子ども達に押し付ける。「勝てなくてもいいから楽しくやろうぜ」とは決して言わない。「どうせ甲子園に出れるわけないんだから、紅白戦を毎日やって、楽しくゲームしようよ」という野球部のキャプテンは、おそらく吊るし上げられる。
 日本で健康のためのスポーツが根付かないのは、「部活」による「勝利主義」の存在が大きいのではないか。ゲームそれ自体を楽しむのではなく、「大会に出る」「根性をつける」「努力の大切さを学ぶ」という、汗臭い目標の達成が「部活」の目標になっているからだ。
 イリッチは「レコードよりもギターが、教室よりも図書館が、スーパーマーケットで選んだものよりは裏庭で取れたものの方が価値があるとされる」(『シャドウ・ワーク』52頁)社会の誕生を待ち望んだ。スポーツも同じだ。勝利することなど「結果」として得られるものよりも、過程を大事にする姿勢(「楽しむ」ということ)の重要性をイリッチは教えてくれる。

映画『マトリックス』(1999年)

映画『マトリックス』(1999年)
監督:アンディ・ウォシャウスキー、ラリー・ウォシャウスキー
主演:キアヌ・リーヴス
 表面上は1999年の社会。けれどそれは機械が人間に見せている虚構の現実であった…。主人公・ネオはモーフィアスの助けでその事実に気づく。機械用の生体熱エネルギーを得るために、人間が「栽培」される世界。これが「現実」の世界だったのだ。ネオのことを「救世主」と信じる仲間と共に、ネオは機械への戦いを開始する。こんなストーリーの本作、多くの方はもう見ておられるのではないだろうか?
この映画は社会学者・ボードリヤールの理論を基にして作られた。それだけに、非常に哲学的かつ学問的内容の示唆が多い映画である。見ていて、非常に勉強になった。少なくとも、あと2回くらいは観ると思う(ツタヤはそれまで待ってくれないが…)。
 箴言として残しておきたい文章も多い。「入り口までは案内した。扉は自分で開け」・「救世主であることは恋愛と同じ。それは自分でしか分からない」・「道を知ることと実際に生きることは違う」。
 特に気に入ったのは「マトリックスの正体は人から教えられるものではない。自分で見るものだ」との台詞。教育学に通じるものがある。思想家・イリッチは「教えられるのを待つようになる」という「学校化」現象を批判した。教えられるのでなく、「自分で見る」こと・自分で「学ぶ」ことの大事さを語っているように思う。
 もう一つあげるなら、「人生は自分で決めるもの」という言葉であろう。ネオも「予言者」も語ったこの言葉は、本作のキーフレーズである。本作ではネオは何度も選択を迫られる。真実を知るか否かも、ネオが自分で決めたことなのだ。
 本作のテーマは、機械に〈生かされる〉社会から、人間が〈生きる〉社会への転換の必要性についてである。真実を見つめず、〈生かされる〉生き方をするほうが容易である。けれどそれは人間の本来生きるべき道ではない。たとえ困難であったとしても、人間として〈生きる〉生き方をこそ選ぶべきなのだ。そのためには行動しなければならない。どんなにキツイ戦いになったとしても。真実を知ることには、行動する義務が付きまとうのだ。
 けれど、真実を知ることは辛い。途中でやっていられなくなる。ネオ達を裏切ることになるサイファーがいい例だ。寒くて食事も不味く、楽しいこともない現実社会を生きるくらいなら、仮想現実の作り出す夢の世界を生きればいいじゃないか。そして彼は「無知は幸福」と言ってのける。
 たとえそうであったとしても、現実から逃げないで戦い続けるべきことをネオ達は示している。宮台真司の著書に『終わりなき日常を生きろ』がある。現在は輝ける未来もなく、かといって世界の終焉もなく(ハルマゲドンは存在しない)、いまと同じ日常が延々と続く時代である。けれど、そうであったとしても生き続けなければならない、と主張する本だ。
 『マトリックス』の世界は、宮台の言っているような社会であるように思う。現実社会はキツくて辛い社会である。仮想現実の夢に戻りたくなるけれど、それでもネオ達は生き続けなければならない。
 現実が暗くてキツくてショボいなら、仮想現実の夢を見たくなる。あるいは現実から逃避(引きこもり、自殺など)したくなる。それであっても、生きなければならない。そんな現代の困難さを実感した映画であった。

映画『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』(SWEENEY TODD)

『スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』(SWEENEY TODD)

 宮台真司によれば近代初頭、人々ははじめて「見知らぬ他者への信頼」をしなければ生きられなくなった。
 たとえば床屋。見知らぬ理髪師にヒゲをそられる。切れ味鋭いナイフで。ひょっとすると、目の前にいる理髪師は殺人鬼かもしれない。けれど、信頼しなければヒゲをそることもできない。
 たとえばレストラン。何の肉かも分からない。それ故、日本にマクドナルドが入ってきたときも「猫の肉を使っている」「実はミミズの肉が使われているんだ」という噂が広まった(宮台の本より)。
 いまの社会は「見知らぬ他者への信頼」によっている社会である。けれど本来、「見知らぬ他者」は不安を感じさせる相手なのだ。人々の不安が、スウィーニー・トッド伝説を作り上げた。いかにも「ありうるかも知れない話」ゆえに、たびたびミュージカルで上演されてきた。
 本作はその伝統を踏まえたミュージカル映画である。主人公・スウィーニー・トッドの生きがいは美しい妻とかわいい娘であった。床屋の仕事にも熱がこもる。けれど、彼の妻の美しさに惹かれたターピン判事によって彼は無実の罪で捕らえられてしまう。15年後にようやくかつて暮らしたロンドンに戻ってくることができた。けれど、妻は死に、娘はターピンの保護下にあるという事実を知る。
 復讐のため、理髪店を再開させたトッド。判事を理髪店におびき寄せ、ヒゲをそるふりをしながら喉元をきって殺そうとする。待つ間、1階のミセス・ラヴェットと共謀して恐るべき犯罪を行い続けることになる。それは①2階の理髪店に来る客の喉元をカミソリで切り、②その肉を使ってラヴェットが1階のレストランでミート・パイを作り客に食わせる、というものだ。肉が新鮮なものだから、レストランは大繁盛なのだ。
 2階の床屋で殺した人間の肉が1階でミートパイになるという恐怖。ゾクゾクしてくる。観た後で、見たことを後悔する映画はたまにあるが、本作もそんな映画の一つのような気がする。しばらく床屋にいけなくなったからだ。
 映画を最後まで見て、いろんな意味で「見知らぬ他者への信頼」によって近代が成立しているんだな、と気づいたのである。だって、「見知らぬ他者」と思っている人が実は「最愛の人」であったのだから…。

 教育学徒として一言。 
 本作ではトビーという子どもがキーパーソンを演じる。彼はミセス・ラヴェットのレストランで働くことになる人物である。彼は孤児院出身。はじめに「引き取って」くれた人物はトビーを自分の商売のためこき使っていた。本作の舞台となった19世紀中葉のイギリスでは児童労働が当たり前だったのだ。
 この映画の舞台となったのは、子どもが結局損をする社会である。孤児院は「ひきとる」という名目で虐待的待遇で働かせる「大人」に孤児を渡す。その例が『オリバーツイスト』である。イギリスの子ども(特に孤児)の悲惨さを知れば、『子どもの権利条約』が成立した背景が分かる。マルクスも『資本論』で子どもの悲惨な労働の状況を批判している。
 イギリスは人権先進国という。たしかに「人間」に権利を認めた。しかしその「人間」は生物学でいう人間とは別物だった。はじめは貴族、つぎは資本家、つぎは平民男子が「人間」だった。女性や「子ども」が「人間」扱いされるようになるのは最近のことである。つまり、かっこつきの人権思想であったのだ。

自民党の日教組批判に思うこと。

ヤンキー先生こと義家弘介氏のウェブサイトを見ていた。
リンクに「あきれた教育現場の実態」という、自民党の意見サイトがあがっていた。
内容は日教組批判。
半分正しく、半分間違った内容がずらずら書かれている。
腹が立ったので、以下のコメントを送った。
恩師O先生も言っているが、民主主義の基本は「声を上げること」である。
昨日のゼミでも先生は「死刑執行のたび、執行した刑務所に死刑反対の手紙を書いている」と語っておられた。自身の信条は外に出さなければ社会に影響を与えることはできないのだと思う。
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日教組問題について、非常に勉強になりました。 ですが、1点、疑問を感じました。本文に、次の内容があります。

広島県の日教組(広島県教職員組合)は、卒業式での国旗・国歌の実施に激しく反対しました。石川校長は苦悩の末、ついに自殺という道を選ばざるを得なかった。そこまで日教組は石川校長を追い詰めたのです。 日教組による、良心的校長への常軌を逸した「いじめ」。

実際、石川校長の自殺には広島の日教組が何らかの原因になったことは事実でしょう。ですが、問題は日教組のみにあるのではなく、国旗や国家を卒業式の際に実施するよう指示をしてきた文科省や自民党の文教族にも原因があるはずです。 石川校長は日教組の「いじめ」によって自殺したのではなく、自民系の「国旗・国家を実施せよ」との指示と、日教組の言う「実施するな」との軋轢に悩んで自殺したのだと私は考えます。石川校長の自殺の原因を日教組のみに押し付けるのは責任転嫁もいいところではないでしょうか。

宮台と卒論。

イリッチの著作をもとに脱学校化を考えるのが私の卒論のテーマである。その中に、フリースクールの実践も「脱学校」の一つとして描きたい。

「脱学校」した学びの姿について、いろんな学者が意見を言っている。

⑴上野千鶴子:知育限定の小さな学校。社会での学びを中心とする。(『サヨナラ、学校化社会』)

⑵宮台真司ほか:教育チケットを用いた教育制度。子どもは塾で教育サービスを受けても学校でサービスを受けても、はたまたフリースクールに行っても「教育を受けた」ことになる。(『学校が自由になる日』から「学校リベラリスト宣言」)

これらを整理してみるのも大切だろう。

ちなみに、卒論を書く中で「宮台を読まないとな〜」と実感してきた。いま、いろいろ読んでいる。リストは下の通り。ずいぶん、食わず嫌いをしていたが、なかなかに面白い社会学者である。

●『終わりなき日常を生きろ』読了。これで宮台にハマった。
●『学校が自由になる日』読了。「学校リベラリスト宣言」が秀逸(宮台の文ではないけど。ちなみに内藤朝雄の文章)。佐藤学の「学びの共同体」をボロクソに言う。
●『野獣系でいこう!!』読了。宮台の私生活、こんなに公開してもいいのか?
●『幸福論』未読。
●『日本の難点』読書中。
●『サイファ 覚醒せよ!』読了。
●『14歳からの社会学』未読。

映画『マイ・ビッグ・ファット・ウェディング』

 今日起きると、14時になっていた。寝たのは4時である。長く寝たものだ。昼過ぎに起きたとき、快晴であるととても損した気分になる。けれど、今日は雨。ザーザー降っていると、「まあいいか」と開き直ってしまう。うーん、ダメ大学生・石田一。何とか直したいものだ。
 寝坊した日は、何か価値的なことをしたくなる。本を読了するとか、演劇を見るとか。大体はツタヤや映画館で映画を観る。今日は早稲田松竹にいった。映画は未来の自分への蓄積となる。一度見た映画は何となく覚えているからだ。将来、教育学についてものを書くときも「昔、こんな映画を見た。このシーンは教育学で言う……という現象を示しているように思える」と書くことができる。未来の自分への「遺産」となるからこそ、寝坊したときは将来の蓄積をしたくなるのだ。

 さて、早稲田松竹18時上映開始の本作の原題は、邦題より少し長くなる。「My big fat Greek wedding」。「ギリシャの」という説明が追加される。何故邦題から「Greek」が消えたかは分からない。
 本作はアメリカにおける、マイノリティーとしてのギリシャ人コミュニティーを描く。アメリカに移民していても、ギリシャ人の誇りは常に忘れない。通常の学校とは別にギリシャ語学校に通わせる両親の姿が描かれる。多文化社会を考える上で非常に興味深い映画だ。特に印象的なのは結婚式のシーン。ギリシャでは悪魔払いのおまじないとして、人にツバを吐きかける。結婚式場でも、入場してくる新婦に対しそれを行う親戚たち。新郎の両親は眉をしかめる。説明されると分かるだろうが、されない限り「一体なんなんだ!」と思ってしまう。異文化理解の難しさを感じた。
 主人公はギリシャ料理店の「婚期を逃し」そうな娘。この枠組みは小津監督の『秋刀魚の味』にもあった(中華料理店の主人と彼の「行き遅れた」娘が描かれている)。眼鏡でダサい服を着る彼女が、大学講師に恋をする。「自分を変えたい」。その思いから大学に行き、コンピュータを学び始める。その技術を使って「オリンピア旅行代理店」(本当にギリシャ人コミュニティを象徴するような名前だ)という親戚の会社で働くこととなる。偶然、憧れの講師が店に来て、双方恋に落ちる。映画の後半は結婚準備に追われる新郎・新婦とその一族の姿が描かれている。結婚準備中、新婦一族のやかましいギリシャ文化と、新郎側の静かな生活との対比が描かれる。衝突が何度も起こり、その度結婚の可能性が低くなるように映る。果たして2人は無事結婚式を迎えられるのだろうか? 

 映画の本筋とはあまり関係ないが、教育学者を志す私としては本作に“教育による輝き”が描かれているように感じた。主人公は大学に行き、新たな自分を作っていった(「自分探し」という言葉が嫌いなのでこう書いた)。大学で学び始めることで、親の言いなりの〈か弱い娘〉から、自分の運命を自分で切り開く〈自立した女性〉に変わっていった。『人形の家』のノラと同じだ(ところで彼女は何故突然自立したんだっけ?)。“教育による輝き”に有効性があった、ということを久々に実感した。
 女30、未婚で子無し。日本ではこの人々のことを「負け犬」と呼ぶことがある。たとえ「負け犬」ではあっても、大学で学ぶことで人生を変えることは可能であるのだ(それにしては〈大学でコンピュータを学ぶことで新たな仕事に就く〉というベタな展開である)。
 適当に学びにいける場所としての大学。敷居が高くない大学。これからの余暇時代・高齢化社会ではこの映画のような「手軽に行ける大学」が重要になってくるように思われる。実際、主人公の弟も大学でアートを学び画家を目指すシーンがある。
 学びとは新たな自分になること。生き方を変えること。教育に対して肯定的評価を下している映画であった。