教育論

ここにいたのか、寺脇氏。「ゆとり教育」の顔。

「ゆとり教育」と教育改革の行方:1(寺脇教授)https://www.asahi.com/edu/university/kougi/TKY200707210220.html

 寺脇氏。文科省でゆとり教育を進めた人物。そして失権した人物。いま、大学教授をしていたとは思わなかった。
 
 彼は「単純に学力が低下したといってはいけない」というような発言をする。私も、確かにPICAの点数が下がったくらいでびくついていては、確固たる人間形成を教育でおこなえないと思う。また、確かに教育はそんなすぐに結果の出るものではないとは思う。
 しかし、寺脇氏の見方も、浅はかである。氏は、「ゆとり教育で、全員に百点を取らせて見せます。そうできなければ先生方の教え方がまずいといえます」などと発言していた。が、やがて前言を撤回している。
 単純に、教える量を減らせば子どもは学ぶようになる、という驕りが、寺脇氏に感じられてならない。子どもはそんなに単純な頭脳構造をしているわけではない。また学びの習慣化は、そんな簡単に発生するわけではない。佐藤学氏のいうように、子ども一人では理解の及ばない教材でも、他者とのふれあいの中で急速に学力が向上することもある。教師の言を聴けば、もっと手っ取り早く、「教える量の削減≠学びの習慣化」であると分かるはずである。
 寺脇氏には、ずるさを感じる。自分は正しい、という姿勢を崩すべきである。教育行政の実験台にされた子どもたち(いま大学2年の私もそうだ)がかわいそうではないか。一国の教育行政を背負っていた人物であるなら、もっと自分の行動に責任を持つべきだ。
 結論。教育行政は、早急に方向性を決めていいわけではない。また、この行政がきちんと子どものためになっているのか、考えていくべきである。失敗から学ぶ、とはきれいごとである。子どもの子ども時代は、二度と帰ってこない。新たな教育政策をするなら、「本当に子どもたちのためになるのか」よく考えてから行っていくべきである。

河合氏、死去と兵庫県の反応

教育で先駆的取り組み 博学、ユーモアたっぷり
https://www.kobe-np.co.jp/kobenews/sg/0000471677.shtml

 河合隼雄さんが、19日に死去。自分は兵庫出身ながら、河合氏が兵庫出身だと知らなかった。自分が中学時代に経験したトライやるウィーク(中学校での体験学習。地域の商店や企業に行き、職場体験を行う学習形態。兵庫県から実施)についても、かかわりがあったとは。

トライやるウィークって知ってますか?https://www.wmstyle.jp/archives/2004/11/29_102343.php

 人間、死んでから初めて「あ、あの人こんなことしてたんだ」と気づかれることがあると実感。

 教育界にも業績のあった、河合氏。しかし、何も知らない人に「ハヤオさんが亡くなった」といえば、宮崎駿を意味してしまう。…不謹慎ながら。

重複・大量、1人で73人分の合格実績。

73人分合格、実は1人が受験・大阪の私立校、優秀な生徒に依頼 https://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20070720STXKF052720072007.html

 確かに高校の受験実績の「~人」って、案外一部の生徒の実績だったりしますもんね。これを学校側が組織的に行っているのは、面白いことです。
 開成高校とかでやると、全校生以上合格者が出て、もっと面白いことになるかもしれません。すでに開成だとこうなっているのかもしれませんが。

専門書を捨てよ、教育の場に出よ

教育ボランティアで、ある高校の寮のお手伝いをしている。男なのに、寮母という立場である。なかなか、楽しく、かつ大変な仕事である。
教育って、結局は人と人とのかかわりによってできるもの。教育学の専門書では見えてこないものである。

教師になりたい学生はたくさんいる。熱意溢れる人たちもいることは、私の友人を見ていても思う。その学生たちは、すぐに何らかの形で教育に関わったほうがいい。より深く、より本質を突いて学ぶことができる。どんな大人も、子どものカリスマティックアダルトになれる、との言葉がある。自分でしかかかわれない子どもは必ずいるのである。だとすれば、目の前の子どもに、私たち大人はかかわりを持っていくべきである。

モモは村人の話をひたすら寄り添って、聞いていった。教育は促成栽培ではないので、モモの視点を忘れず、関わっていくべきである。教職に志す人たちには、この視点で関わっていただきたいと思う。

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