教育論

アーレントの他者概念。

 読書会で使用するため、岩波書店の志向のフロンティアシリーズの『公共性』を読了した。アーレントをもとに公共性を説く。若干、理解に及ばないところもあったが、だいたいにおいて興味深い内容であった。

 悩みや葛藤・「ためらい」がある状態こそ人間の本源的状態である、と内田樹は言う。アーレントもその認識に基づいている(あ、時期的に見ても真逆か)。自己の中にひとつのイデオロギーが確固として存在している状態を、危険な状態だと彼女は指摘する。個人の中に多くの他者の声が響き、その中で悩み、考えることに人間の崇高さを説く。
 アーレントにとって、「他者」とはコミュニケーション可能な存在のみをさすのではない。重度の障害者や赤ん坊すらも「他者」と認識する。

 世界は他者の数の分だけ豊かになり、誰か一人が世界から退場することはそれだけ世界が貧しくなる、とアーレントは説明する。ここでいう世界とは人間世界だけでなく、「わたし」の内面世界のことでもある。
 異質な他者を尊重するのは、その分だけ自分の内面世界が豊かになるからである。異質な他者を排斥することは自分の内面世界をそれだけ貧しくすることにつながる。
 
 ひとりの他者をどこまでも尊重する(平易に言うと、「一人を大切にする」ということ)という行動は、自己の生命(=内面世界)を豊かにするための戦いであるともいえる。他者の他者性を尊重した分、自分の内面世界に「他者」が増え、より豊かに生きれるようになる。はずである。

「教育のための社会」とは?

 「教育のための社会」(ロバート・サーマン)という概念が、いまひとつ分からない。
 大学2年生のころの認識では、「教育的でないものを排除した社会」と考えていたが、どうもそれとは違うようだ。
 大学二年の時の認識を検討しよう。「教育的でないもの」とは、たとえば反道徳的・退廃的・反社会的な存在のことを意味する。それらを排斥するとは、簡単に言うと「異質・異様な他者」を排斥するである。ホームレスの人、在日の人、風俗産業従事者、外国人労働者、犯罪経験者を子どものそばから追いやることである。「異質・異様な他者」のいない社会は確かに安全で、暮らしやすく、平和な生活が待っていることだろう。
 いい環境を求めて、都心から郊外に引っ越すのが高所得者の常であるが、郊外には「異質・異様な他者」はいなくなる。親たちはこのことを「教育的にいい環境である」と認識する。安全・快適・平穏・静寂な生活が繰り広げられるからだ。さらに高所得者はゲーテッドコミュニティー(要塞都市)に住む。けれど、このことは子どもにとって本当に喜ばしいことなのか?

 良い社会とは正統的教育コース(高校普通科→大学→大企業or公務員)以外の教育コースの存在を許容した社会である。反・正統的教育コース(高校中退、ニート、中卒就労、高卒就労など)を歩んだ人間は、正統的教育コースに生きる人間にとって、非常に異質な存在として認識される。時には「ああならないようにしよう」という反面教師として、時には「気楽に過ごせていいよな」という呪詛の対象として。
 「異質・異様な他者」を排斥する環境で育つとき、子どもは大人社会の排斥の風潮を内面化する。それが表層に表れ始めた時、大人以上に「異質・異様な他者」を排斥するようになる。昔からホームレスへの暴行事件やチマチョゴリを切り裂く事件が起きていたが、それらは子どもの「異質・異様な他者」排斥が行動として表れた事例である。
 
 結論として言おう。「教育のための社会」を、「教育的でないもの、反・教育的なものを排除した社会」という認識の仕方は誤りである。「異質・異様な他者」を排斥することにつながるからだ。
 ということは、「教育のための社会」とは逆説的ながら、反・教育的なものを包摂した社会ということができる。教育のための社会とは、「いい教育のために~~しなければならない」という言葉が存在しない社会、つまり「異質・異様な他者」や反・教育的なものすら受け入れる社会であるといえるかもしれない。

追記
●「異質・異様な他者」に非寛容な社会は、内部に住む人間にも非寛容である。絶えず同調性を強いるためである。内藤朝雄は「中間集団全体主義」という概念を提唱しているが、まさにそういった一種の全体主義が広まる。そうなったとき、集団内部での排斥者は「中間集団全体主義」を内面化しているため外に出ることを「してはいけないことだ」と認識する。結果、とことんまで追い詰められ精神を病むか自殺をしてしまう(ひどい時は殺傷事件を起こす)。
● 岩崎弘昭の概念を使うなら、「教育のための社会」とは〈教育〉を排斥し、中世以来の「共同体の中に埋め込まれた学び」を復権させる行為であるといえるであろう。

イリイチ『生きる思想』「レイ・リテラシー」の章より、脱学校(非学校)について。

 『生きる思想』の「レイ・リテラシー」の部分で、イリイチは《自分自身が『脱学校の社会』のなかでとっていた素朴な見解を批判しようと思います》(116頁)と述べている。

原稿は九ヶ月も出版社のところにありましたが、その間わたしはますますその内容に不満をもつようになりました。ところで、ついでながら言うと、その本は、学校の廃止を論じたものでありません。この誤解は、ハーパー出版社の社長、キャス・キャンフィールドのせいです。かれはわたしの乳飲み子の名付け親になったのですが、そうすることで、わたしの考えに誤った表現を与えてしまったのです。この本は、学校の廃止ではなくて、学校の非公立化を主張したものでした。ちょうど教会が、合衆国では非国教化されているようにです。(116〜117頁)

 イリイチは『脱学校の社会』では費用がかかりすぎるという点からも「非学校化」を提唱したのであった。
 このあと、イリイチは「学校の典礼論」についてを説明していく。「典礼」とはYahoo!百科事典(データ元:『日本大百科事典』(小学館))では次のように説明されていた。要は、礼拝の際の儀式のことをいう。

キリスト教の教会で司祭によって公に行われる礼拝の儀式のことである。語源ラテン語のリトゥルギアliturgia。典礼は神を崇(あが)め、人々のために神の祝福と恵みを求めるために行われるが、典礼にあずかる信者が同一の信仰を確認しあい、連帯心を強める効果をももっている。典礼は、カトリック教会東方正教会、ルター派、改革派教会などによって、それぞれ公認された典礼書の指針にのっとって行われ、典礼書には祈り、賛美歌、聖書朗読の箇所などが記され、司式者と奉仕者のなすべきことが定められている。(…)[ 執筆者:安齋 伸 ]


 《教会学の中でも典礼論は、いつもわたしが好んでいるテーマです》(118頁)と、神学というイリイチの出自に基づいて論を進める。典礼論は《「教会」という現象を作り上げるうえでの礼拝の役割を扱ってい》(同)る。典礼論の研究テーマは《おごそかな身ぶりや聖歌、位階制度や儀式の諸道具が、どのようにして、信仰ばかりでなく、信仰の対象である教会共同体という現実を作り出すのかということ》(同)である。
 《比較典礼論を研究することによって、神話を作り出すのに本質的な儀式と、そうでない非本質的な様式とを区別する目が鋭くなります》(118〜119頁)とイリイチは続ける。このような典礼論研究をもとにして、《学校で行われていることがらを典礼の一部として見る》(119頁)姿勢をイリイチは身につけた。

そうやって、わたしは、学校schoolingという典礼が、近代の事物が社会的に構築されていくうえでどんな役割をはたしているのか、そして、そうした典礼がどの程度、「教育への[依存]欲求」というものを作りだしてきたのか、という点を研究するようになりました。また、学校[という典礼]に参加する人びとの精神のありかたのうえに、学校がどんな痕跡を残すかということにも気づくようになりました。わたしは、学習の理論や学習目標がどれだけ達成されたかといった研究についてはカッコに入れ[判断を控え]、学校における典礼の形態に注意を集中しました。『脱学校の社会』として出版した諸論文のなかで、わたしは、学校の現象学を論じました。

 その「学校における典礼の形態」の例として、次のものをあげる。
《「教師と呼ばれる人間のまわりで、年に二百日、日に三時間から六時間勉強する年齢別に構成された集団》(119頁)
《落第したり、低いランクのコースへ追いやられた者たちが排除されることを年ごとに祝う進級[という儀式]》(同)
《これまでのどんな僧院の典礼にもないほど細分化され入念に選択された学習項目》(119〜120頁)
 

生徒の数は一般に十二人から四十八人、教師は、数年間は、生徒以上にこうした儀式に骨の髄までひたった者でなければなりません。生徒は、一般になんらかの「教育」を受けたとみなされ、また学校だけが、独占的にそうした「教育」を授けることができるとみなされています。(120頁)

そういうことから、わたしは、教育を、必要な財と考えるような社会的現実を、学校という典礼が、どのようにして作り出してきたのかを知ることになりました。二十世紀の最後の二十年のあいだに、このような[教育の必要という]神話を作り出す働きをするものとして、包括的な生涯教育が、学校にとって代わるだろうということについては、当時でも気がついていました。(120頁)

 けれど、イリイチはこう語る。《『脱学校の社会』を書いたとき、わたしの関心の核にあったのは、依然として、教育の社会的影響であり、教育がそもそも歴史のなかでどのようなものとして形成されてきたかということではありませんでした》(121頁)と。このようにイリイチは自己批判をする。
 この文章の後、イリイチは人間を「ホモ・エージュカンドゥス」(教育を要するヒト)の「種に属している」とみる自身の仮説を疑い始める。「稀少性」というキーワードから文明を読み解くイリイチの姿勢が《実は、歴史的につくられたものだということに、カール・ポランニーの本によって気づかされ》(122頁)る。

こうして、「教育」とはなんであるかということを私は理解するようになりました。つまり、「教育」とは、学習を生産する手段が稀少であるという仮定のもとでとり行われる学習のことなのです。この点から考えると、「教育」への[依存]欲求とは、いわゆる「社会化」のための手段は稀少である[かぎられている]、とする社会的な信念や合意から生まれる結果であるように思われます。そして、同じ点から考えて気づきはじめたのは、教育という儀式が反映し、強化し、現実に作り出してもいるのは、稀少性という条件のもとで追求される学習への価値への信仰だということです。(122頁)

※なお、カール・ポランニーについてYahoo!百科事典で調べた結果も引用しておく。

ポランニー Karl Polanyi

(1886―1964)

ハンガリー生まれの経済学者。主としてアメリカで活躍。ブダペスト大学その他で哲学法学を学び、第一次世界大戦後ウィーンで雑誌の編集に従事。ナチスに追われてイギリスに移り、オックスフォード大学の課外活動常任委員会の講師その他を経てコロンビア大学客員教授となり、経済史を講義。物資の交換形態として、互酬性、再分配、(市場)交換の3様式を摘出し、交換形態の分析により、近代の市場経済社会と、その他の非市場社会とを同時に扱うのを可能にした。近代西欧の市場経済が人類史上、特殊であることを示し、経済人類学の発展に多大の貢献をした。主著として『大転換』(1944)、『ダホメと奴隷貿易』(1966/邦訳名『経済と文明』)などがある。なお、物理化学者、社会科学者のミヒャエル・ポランニーは弟、化学者のジョン・ポランニー(1986年ノーベル化学賞受賞)は甥(おい)である。

[ 執筆者:豊田由貴夫 ]

イリイチVSフレイレ『対話 教育を超えて』からのアフォリズム その3

イリイチVSフレイレ『対話 教育を超えて』のアフォリズム・シリーズも堂々の完結編。

ラストはウィリアム・B・ケネディーが語った「教育の巡礼者 フレイレとイリイチ」より。
イリイチは、抑圧された人間を消費者とみなしている。消費者は、自分から行動したり生きていこうとはせずに、受動的にやりとりするばかりで、地球の資源を使いつくしてしまうように仕込まれているのである。資本主義諸国も社会主義諸国も、そういったことを人類の目標として永続化させるという点で変わりがないため、かれは双方を批判する。絶えざる成長をその目的とする限り、「発展」はつねに害をもたらすのである。(128頁)
 イリイチは「サービス」というところで権力論を構築する。それがフーコーとの違いのようだ。
 「消費者」は、企業や国家の「サービス」をただ受け止めるだけ。「遊びに行きたいな」「はい、ぜひディズニーランドへお越し下さい」。自分から「何をして遊ぶか」を主体的に選択するのではなく、企業や国家の示す選択肢から選ぶにすぎない存在となってしまう。
 最後に、両者についての説明を引用する。

フレイレがその国情に通じているラテン・アメリカ諸国では、教育にたずさわる人間は、自分たちが行動できる「自由な場」を問題にしている。自由を制限する巨大な力に対抗する上での助けとなる、民衆の生活に根ざした戦略を追求するという点で、フレイレの活動はイリイチと結びつく。その線にそって、かれは、慎重に行動し反省していくことを勧め、現実の中で、ペシミズムや冷笑的な態度におちいったり、オプティミズムや単純な行動主義におちいったりしないようにと忠告している。(140頁)

大大学 その傾向と対策





吉本隆明は山本哲士との対談の中で「大大学」を話す。学歴社会の進行が、「大学」ではなくその上の「大大学」を要求するようになる、と。いま、大学院生の数は10年前の2倍。「大学院大学」と「専門職大学院」も普及した。吉本の「大大学」が大学院の形で広まってきている。もはや人は大学に行くだけでは差がつかなくなり、「大大学」である「大学院」にいくことが普及するであろう。学歴社会は「大学全入時代」で幕を閉ざすわけでない。今以上に進行するであろうと思う。このことが本当に「輝かしい」ことか、教育学者は考えなければならない。






 この引用はTwitterの中で、私がIshidaHajime名義で書いた文章だ。吉本隆明と山本哲士の対談『教育 学校 思想』(日本エディタースクール出版、1983)から、元の文章を見てみよう。

(石田注 吉本の発言)一般的に学問とか知識とか芸術とかいわれているものが、もう少し時代が進んで大きな観念の空間を占めるようになるとするでしょう。そうしたら、いまは小学校から大学まであって、中学まで義務教育になっていますが、やがて大学まで行ってもまだ間に合わない。そこで、大大学というものまでできるという発想になりますか。(91〜92頁)

 私の記憶違いで、どうやら必要とされる知識が増大するために「大大学」が要請されるようになる、という文脈であった。学歴社会が進行すると本来学歴が必要なかった職種に高学歴をもった人物が入って来、パイを奪い合うようになる(R・P・ドーアの『学歴社会 新しい文明病』冒頭には「学士タクシー」の話があった。これはもともと高卒程度の学歴があれば良かったタクシー運転手に、大卒の人間が入ってくるようになる、という話である)。いま、「大卒」で仕事にあぶれる人が多くいる時代である。この本が出てから27年が経ち、当時より遥かに多くの大学と大学院が作られた。吉本が危惧する「大大学」化は次第に現実化しつつあるように思える。
 そうなった場合、人間がさらに幼稚化すると吉本と山本は続ける。中卒で働くのが普通だった時代と、高卒で就職が普通であった時代、大卒就職が普通となる時代とでは、同年齢の人間でも「幼稚さ」が高まってくる。もっとさかのぼると、「学校」がなかった遥か昔、子どもたちは「小さな大人」として遇されていたことを考えれば、「学校」が人類の幼稚化をもたらしているように思える。
『対話 教育を超えて』の中で、イリイチは言う。

ぼくは、教育なんてものは、西洋の中身のないからっぽの機構、つまりもっとも異端的な教会でしかないと思っている。ぼくが子供について話すのを避けてきたのは、全世界の民衆が幼児化されるという危険がつきまとっているからなんだ。今この瞬間にも、あらゆる政府や国際組織、さらには教会でさえ、教育的な治療を広めようという政策でのぞんでいるわけだ。ぼくが、ここにやって来たのは、ただ、子供時代を社会的に拡張することに対して警告を発し、それに反対の態度を示そうと思ったからなんだ。(122頁)

 さきほど私は「幼稚化」をあげたが、イリイチも「幼児化」ということで説明をする。学校が人間を成熟させるのではなく、逆に「幼稚化」(「幼児化」)させるのであれば、そんな学校にいかほどの意味があるのか。

追記
●「過剰教育」という言葉がある。竹内洋らの『教育社会学』では次のように説明されている。「労働者の教育水準が職業の資格要件を上回っている状態。たとえば、雇用市場の不況から大卒者が専門的な仕事につけずに不熟練職に回る場合など」(252頁)。いま大卒の価値は急激に低下している。過剰教育の結果として、「大大学」が普及する可能性は十分にあるのだ。

イリイチVSフレイレ『対話 教育を超えて』からのアフォリズム その2

ここからは、「解説」以外の部分、つまり「本文」から抜粋を行っていく。

フレイレ わたしたちは、何よりもまず、どのような教育を人々が本当に必要としているのかを知る必要があると思います。わたしたちは往々にして、人々の真の要求には無頓着なまま、教育内容を云々しがちです。わたしたちが与えようとしているような体系的な教育は、必要とされないことが多いものです。(40頁)
(石田注 イリイチの発言から)
価値の学び方はふた通りあると思うんだ。ひとつは、本質的に親密な個人的な交わり、つまり、互いに顔をつきあわせているふたりの人間の責任にもとづいて行われるもの。もうひとつは、価値の他律的な生産であって、一般の人々は、その価値を必要とするように、管理する側から期待されているんだ。その中には、車の右側通行の仕方を教えてもらうことが必要だといったことから、何がしかの「代理人」をして、かれらに、民衆は意識を必要としている。(42頁)
(フレイレの発言から)
すなわち、教育が社会を形づくるわけではなく、社会が、権力を持つ者の利益にかなうように教育を形づくるのです。この過程が機械的ではないからこそ、そのように申し上げたのです。つまり、教育はある時点で社会によって形づくられながら、社会のために特別な条件を築きあげるのです。(44頁)
(イリイチに対してのフレイレの発言。両者の違いについて)
あなたは教育が人間の現象であることは認めていらっしゃる。別なことばで言えば、いろいろな理由から人間が教育を生み出したことは認めていらっしゃるようです。しかし、ある地点を超えると、教育は人間性を失ない、もはや人間のコントロールの及ばない悪魔の手先になってしまうと言うことです。ここが、わたしの考え方とは違うのです。わたしは、何よりもまず、教育が永久的な過程であると考えてきました。この点で意見が異なるのです。教育は、人間が未完成であり、歴史的な存在であり、永久に探求を続ける存在であるからこそ、永久的な過程なんです。さらに、人間はこの探求の中で、自らの現実を知り、また自分が知るということを知る能力を獲得しました。したがって、わたしは、教育の重要な一面は、いつの時代にも、知識を実行に移すための理論というところにあったし、現実もそうであると考えています。(95頁)
(ダウバーという人物が、イリイチとフレイレの議論を聞いて)
ふたつの概念の相違は、はっきりしました。イバン(石田注 イリイチのこと)は、「発展を制限する上での基準」という否定的なものを問題にし、パウロ(石田注 フレイレのこと)は、メチャクチャにならない教育の過程、つまり意識化という肯定的なものを問題にしています。(101頁)
(イリイチのことば)
ぼくは限界閾と限界設定とを、はっきり区別しているということだ。(112頁)
(ダウバーの発言)
非学校化は、集権化や制度化や専門化を排除しようということです。制度のもつ力に対して限界を設定すれば、社会における政治的・経済的な矛盾が自覚されてくるはずです。制度を変革する行動に立ちあがれば、必然的に政治闘争に足を踏み入れるようになります。そしてこれが、わたしの理解している限り、パウロがいく度となく繰り返している意識化の過程なのです。(119頁)
(イリイチの発言)
ぼくは、教育なんてものは、西洋の中身のないからっぽの機構、つまりもっとも異端的な教会でしかないと思っている。ぼくが子供について話すのを避けてきたのは、全世界の民衆が幼児化されるという危険がつきまとっているからなんだ。今この瞬間にも、あらゆる政府や国際組織、さらには教会でさえ、教育的な治療を広めようという政策でのぞんでいるわけだ。ぼくが、ここにやって来たのは、ただ、子供時代を社会的に拡張することに対して警告を発し、それに反対の態度を示そうと思ったからなんだ。(122頁)
この対談の中では、deschoolingを「脱学校」ではなく「非学校」と訳している。これ、山本哲士の影響であろう。

イリイチVSフレイレ『対話 教育を超えて』からのアフォリズム。

イリイチVSフレイレ『対話 教育を超えて』(野草社、1980、島田裕巳ほか訳)は非常に興味深い本だ。


「解説」を山本哲司が書いているのもいい。


山本の「解説」から、抜粋をしていく。


イリイチは、読み書きは意図的な学習であるとして、歩くことや話すことを学ぶ学習とは区別している。三つの大きな問題が明示されているのだ。ひとつは、教育は象徴的な暴力であるということ、もうひとつは、字の読み書きが人類にとって基本的に必要であるのかどうかということ、さらに、前二者をふまえて、もし、字の読み書きを教えるなら、それは子どもに対してはたすべきものなのかどうか、青年期でよいのではないか。この三つの問題に明確な解答を与えることーそれが、われわれの教育学的な任務である、といえよう。(188頁)


学校を正当化する考えは、それを使用する人たちが、学校制度が自らの必要や利益に奉仕しているのだと信じていなければ維持されない。たんに支配の側からのおしつけがあるのではなく,必要であると自らがおしつけていく制度的な特徴があるのだ。

「制度としての学校」を把むことによって「教育が学校化=制度化された」という教育の仕組みをとりげることができる。教育の仕組みは、教育制度を、相対的に自立したサブシステムと捉えたり、学校内での教育実践と捉える表層的な分析からは決して明らかにされない。教育という事実性を、文化の象徴的な生産様式という視座からとらえかえさねばならないのである。(163頁)


宗教制度から学校が世俗化されたことによって、学校の聖化が、〈教育〉を宗教として再構成されていると認知し、学校から「学ぶ」行為を世俗化させるべきだ、とイリイチはいう。教育を蘇生させるのでも復権させるのでもない。学ぶ様式の多次元的な世界を蘇生させることである、というのだ。(165頁)


他者への働きかけの質を主体において問うフレイレに較べ、イリイチは「主体」をいっさい問わない。正確にいえば「主体の志向性」を問題にしない。ただ、個の自律性の相互交流関係(様式)を、自律共働性の価値からとらえるだけである。痛みを感じ、苦悩し、受苦し、病や死に直面する自分、自らの足で歩き、自ら学ぶ、そうした「自律性」が確かなものであって、「政治力」であるのだと考える。他者からの働きかけによって運ばれ、教えられ、治療される様式が支配的なところに「政治」はない、人間的なものはない、というのだ。(179〜180頁)


(石田注 フレイレの話から)学校は社会を変えない、社会が学校を変えるのだ、と主張する。(181頁)


「教える」というこうとは、他者に働きかける様式、つまり概念的には他律的様式としておさえられる。それに対して「学ぶ」ということは、自律的な様式なのだ。現代の教育という商品、あるいは基本的必要を中心に構成されている〈学校〉あるいは〈学校化社会〉というのは、その自律的な「学ぶ」ということに「教える」という対立的なものが働きかけた結果なのだ、といえる。だから「教えないと学べない」とか「教えてやらなければならない」とかいう論理が生じるのだ。そういう形で「教える」という他律的なものが勝利したとき、教育という商品がそこに完成する。他律的なものが働きかけていくと、働きかけた結果、現実的にある価値が作られてしまう。ある種の〈資格〉を象徴とする競争原理に基づく序列化社会はまさしく〈教育の商品化〉の結果である。イリイチにとってはそのことが問題なのである。つまり、フレイレとイリイチにとっては、「教育」を位置づける「場」が異なっているのである。フレイレは歴史構造の現段階におけるトピックにとどまり、その限界状況下での歴史的性格と変革可能性を実践的に考察するのであるが、イリイチは、文明史的な視座から「教育=商品」を時代の本質的な構造として相対化してとらえる。(176〜177頁)


フレイレは‘教育はいかなる時代にも普遍的にあった。現在、それが抑圧の教育となっている歴史的・イデオロギー的性格を把握する’という。しかし、イリイチは‘教育そのものが近代の構造的な産物であって、その本性からして商品である’とみなす。(177頁)


「わたし」を如何に作るか。

 失恋は苦い。けれど、それにより「わたし」という存在がより深いものになる。アーレント風に言うなら、「振る」異性の存在(=他者)が私を豊かにする、ということか。

 「わたし」という「主体」を形作るには、「苦しみ」が必要である。高岡健は、人間は年上と年下の異性から別れを告げられない限り自分と向き合うこと・「わたし」を深めることは出来ないと語る(『16歳からの〈こころ〉学』)。
 教育という制度の欠点は、本来自分でやるべき「主体(=わたし)」の構築を、教育制度が行えると思ってしまうところにある。過ち・失望・絶望・孤独から子どもが学ぶのを「危険だ」と考え、そうならないように何かを教える。例えば性教育、例えば消費者教育。それが別の種類の絶望(=学歴信仰など)を生んでもいるのであるが。
 究極的には、教育で ひと(=わたし)を作ることは出来ない。教育に出来ることは ひとをその人の内面に向き合うことを手助けすることである。決して、「教える」ことで代替はできない。

レーウェンフックの顕微鏡

大学経営や学問の研究の場から、「高卒」や「中卒」の人間が排斥されている。ゆえに「大卒」の人の立場からしか、発想がなされない。

レーウェンフックが顕微鏡を作ったとき、まだ一般民衆が学者と論争し合うことができた。いま、それはない。
大学に関する立場に、「大卒」でない人間もいれていく必要があるように最近の私には思われる。「大卒」という記号にはそれほど意味はない。レーウェンフックのように正規の教育を受けていない人間でしか考えられない視点があるはずだ。
そこを見逃すことがないようにしたい。

「小説 母の弁当箱」へのコメント。

 「母の弁当箱」という小説を、本ブログで書いた。これを現役高校生であるK君に読んでもらった。

「中学生にもなって、ポケモンの話を友人としないし、弁当を捨てて何か買って食べるなら、弁当以外もの、たとえばお菓子を買いますよ」
 おっしゃる通りのコメント。
「中学生は、小学校の〈あのね帳〉みたいな文章を書きませんよ」
 これまたおっしゃる通り。
 大人は自分が子どもだった時のことを忘れる。この言い回しを時々聞くが、まさにそれを実感した。私が中学生だった時のことを、いまの私はすっかり忘れてしまっているのだ。というより、中学生だった時の私と今の私は連続する存在ではないのではないか、という思いすらしてくる。
 何かの漫画にあった。ある日小学生の「私」が野良犬のようなものを拾ってくる。実は大人になった「私」はその野良犬のようなものが変化した存在で、小学生のときの「私」はどこかへ消えたのではないか。そのことに気づいた時点で漫画は終る(永井均『マンガは哲学する』に紹介されていた物語である)。
 この寓話は、「大人は大人は自分が子どもだった時のことを忘れる」ことを身にしみて実感させてくれる物語であるように思われる。