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「やる」側に、なろう!

私は演劇が好きである。
あるときから、演劇に出ている人に嫉妬するようになった。

同様のことはステージで漫才をする人や歌っている人にも
向くようになった。

この嫉妬の理由ははっきりしている。
「自分がやりたいから」だ。

映画を見ても演劇を見ても、
自分ではない人がやっている。
そのことに憧れを感じると同時に、
「自分がやる側ではない」ことに残念さを思っていた。
それが「嫉妬」となっていたのだろう。

最近、こういう思いは若干減った。
普通に演劇を見れるようになった。

「なぜだろうか」と思っている。

おそらく、自分がイベントをする側になったからではないか、
というのが自分なりの答えだ。

ながりなりにも自分は教員の仕事をしているので、
教員のことを語ったり、
イベントで何かをまとめたりすることは得意である。

そして実際に何度かイベントを行い、
参加者も来て下さった。
非常に達成感を感じた。

自分が何かをできるようになると、
「自分にできない」分野で活動している人を
すなおに尊敬できるようになってきた。

いろんな人を批判する人は、結局
自分に自信がなく、
自分で何もできないという思いがあるから批判をするのであろう。

まず自分で何かをやり、結果を出す。
そうすると自分に自信が(若干でも)持てるようになる。

やる側になるのが大切なのだ、と思う。

帰京日記1日目。

よく考えると、東京に常設の宿がなくなった。

そうすると、戻る気力がだいぶ失われることに気づく。

 

帰京したのだが、どこへ言って良いのやら。

知り合いに会うために帰ってきているため、

どこへ行きたいという願望がない。

 

もっというと、泊まるところすら決めておらず、放浪の旅だ。

 

まさに「ノマド」。

 

どこへ行こうか風まかせ。

 

とりあえず浅草に行って、寄席でも見ようかな。

一番「日本」っぽい町だし。

 

東京ではスタ丼にいければ後悔はない。

 

地下鉄に乗って気づくのは路線の異常な多さ。

東京は「一極集中」といいながら、

都市機能は東京中に分散している。

札幌のように「札幌」「大通」集中ではない。

そのため大変わかりにくい。

 

料金はそのかわり、非常に安い。

札幌はどの路線も200円スタート。

東京は結構遠くまで行っても200円以内だったりする。

(山手線半周でも190円だし)。

 

札幌からみれば、東京は「南国」ムード満点のリゾート地。

ちょっといけば海にいけるし、

鎌倉も案外近い。

皆薄着だし、暑さだけを言えば冬に東南アジアに遊びに行くのと

あまり感覚的な違いはない。

 

札幌から見れば、東京は十分「魅力」的な

リゾート地なのである。

 

地下鉄代は安いし、店のサービスも良い。

途上国並みに電車は混んでおり、

人口密度も高い。

 

すべてがごちゃごちゃしている点から見ても、

都市計画を再考している国々と違いはない。

 

札幌基準で考えると、

東京は「変な」場所だったのだと改めて気づいている。

 

…だからこそ、魅力的なのだ。

 

【「逃げ」の哲学!】 開催しました

Link Next ✕ 日本ノマド・エジュケーション協会コラボ企画第1弾、
「逃げ」の哲学!

本日、開催いたしました!

「逃げずに頑張る」ことを問いなおすというトークイベント。

参加者の方々と、「逃げ」について、語り合いました。

 

ハイライトは、KJ法的に皆の「逃げ」観を表にまとめたこと。
ポジティブ・ネガティブの2点から、「逃げ」についてまとめました。

「逃げ」のネガティブな意味は「避難先」。
「そこから逃げないと危ない」という意味の「逃げ」です。

 

「逃げ」のポジティブな意味は「発掘先」。
新たな価値観を探し出す意味の「逃げ」です。

 

ポジティブ・ネガティブの中間には
「模索先」というカテゴリーがあり、
どのように「逃げる」か、
どのように「選択」するか、考えることが
必要であると確認しました。


皆の「逃げ」観を共有し、
新たな生き方像を考察しました。

 

もともと私がフリースクールなどの
「オルタナティブ・スクール」を研究していたことが
この企画の狙いです。

 

オルタナティブ、つまり「もう一つの道」「もう一つの選択肢」を考えていくことの大切さを確認いたしました。

キツいときや辛い時は「逃げる」ことの大切さを考えていく。
「そういうこともたまにはありだよね」としていく。

「逃げ」の選択肢のある「良さ」を、
もっと考えたいと思います。

 

エドワード・レルフ『場所の現象学−−没場所性を越えて』ちくま学芸文庫, 1999。

修士論文の1つの章で「居場所」論を検討をした私にとって、
人間における「場所」の意味合いは興味の対象である。

フリースクールでは「居場所」が多く語られる。

その人物が、ホッと一息できる場所。
自分に戻れる場所。
あるいは自分を回復できる場所。

そのため、フリースクール校には
居場所空間を意味することばを名前に持つ物が多くある。

たとえば「ハッピービバーク」や
「たまリバー」などなど。
(研究している人はいないけど)。

落ち着ける場所の大切さを、フリースクールや通信制高校の名前として
使っているわけである。

人間は空間から多くのメッセージを受け取る。
広大な空間では雄大さや孤独さを、
狭い部屋では落ち着きと鬱屈さを、
それぞれ無意識のうちに受け取っている。

そういった空間や「場所」の持つ意味合いを、
レルフはハイデガーの理論を批判的に参照しつつ、
説明していく。

「明らかに私たちのだれにも、黙想するために引きこもることのできるプライベートな場所がある。とくに子供にとっては、そうした場所は自己を発見するための根拠地となるし、洞窟、樹木、あるいは家のなかの片隅さえもが「ぼくの場所」として主張されることもあろう」(49)

私にとっての「ぼくの場所」とはどこだろう、と
ふと思う。

シェアハウスという公共空間に住むものとして、
シェアハウスは間違いなく「ぼくの場所」だ。

自室も「ぼくの場所」である。

では、職場はどうか?
職場は職場としての「メッセージ」を持つ。
けれど職場に生徒と接する側にいる時、
「ぼく」というよりも「教員」の役割を
わたしは演じることになる。

そのことに気安さを感じる反面、
「役割」を演じていることを実感することも多い。

「役割」を気にしなくてもいい空間。
それが「居場所」なのであろう。

夜23:00の哲学〜ブラック企業で働くということ〜

毎日まいにち、

一生懸命仕事をしても

仕事が終わらない。

そんなブラック体質の場所で私は働いています。

まあ、仕事の量が多すぎるのが問題であって、

仕事自体は楽しい職場です。

そういう場所で仕事をしていると、

朝8:00から夜23:00まで、

週6日で働くことになります。

給料はそこそこ。

大卒にしては低いというレベルです(私は院卒だけど)。

この4月から4ヶ月ほど働いていると、

色々考えることが多いものです。

一番大きいのは、「時間」の感覚が変わったということ。

大学生・院生の頃は無駄に悩む時間がありました。

無意味に「自分は今後、どうするのだろう」と、

何もしないでいながら思い悩んでいました。

いまは悩む時間はありません。

それはそれで、「幸せ」です。

悩む時間がない代わりに、

空き時間にいろんなイベントなりブログ更新なりを

やっております。

こういった「趣味」的時間しかないからこそ、

いまは学生時代より幸せです(大変だけど)。

私がものを考えるのは23:00以降。

つまり帰りの電車です。

23:00まで働くと、家に帰るとほぼ24:00。

シェアハウスの仲間と話して、あとは寝るだけです。

(夜、あまりにも辛くて風呂に入れなくなりました。いまは朝シャンです)。

私の場合、はじめからこういう生活になることを覚悟していたので、

シェアハウスという心理的セーフティーネットを貼っておきました。

この選択、「良かった」と思っております。

なぜなら、平日に職場以外の人と会話ができるから。

そうでないととっくに「欝」になってます、たぶん。

23:00を過ぎて帰るようになると、

頭がぼーっとしています。

「プライベート」という発想が、ほぼなくなります。

それはそれで「よいこと」です。

無駄な悩みがなくなるからです。

23:00まで仕事が続くと、下手に「今日、プライベートで何しようか」

考えなくなります。悩みが消えます。

「ああ、俺は何もすることがない」という自己否定もなくなります。

こう考えると、ブラック企業というのは、

世間が思うよりも人を「救っている」のかもしれません。

「不幸」な人は、私の経験上、悩まなくてもいいことで悩んでいる人です。

ブラック企業は、「忙しさ」をタダで提供してくれます。

悩みなんて、なくなります。

「不幸」な人は、無意味に悩みます。

悩めるくらい、暇なのです。

何もすることがない無趣味な人だからこそ、

自分が「不幸」である証拠を見つけたくて、ウズウズしているのです。

だから私は思うのです。

ブラック企業でも、悪くないんじゃないのかと。

ブラック上等!、ではないのかと。

われわれは、暇な時間や「何もすることがない」時間に耐えられるほど、

強くはないのです。

いま私は人ごみあふれる札幌・大通で開催中のビアガーデンで文章を打ってます。

(一人酒です)

「みな、暇なんだなあ」、と思います。

馬鹿騒ぎする大学生。

エネルギーを発散する「何か」を見つけられていないのです。

無駄に盛り上がるサラリーマンの宴会。

そのエネルギーを会社に向けるという選択を、誰もしていません。

甲高い声で笑う、女子会。

それ以外で笑顔になれないのでしょう。

私のように23:00まで自分の時間がない人間は、

逆に何か救われているのかも知れません。

誰かが言いました、「自分がどうしようもできないことで悩むな」と。

人間、暇すぎると「これでいいいのか」と悩みます。

忙しすぎるくらいでいいのです。

ブラック企業は「たいへん」な代わりに、

「何か」をわれわれにもたらしてくれるのです。

それが私がブラック企業で学んだことです。

(たまに暇になると、とたんに不安になる、藤本研一のモノローグでした。)

BUIEで授業をしました

 

私の住むシェアハウスBUIE(ブイエ)にて、授業をしました。

(以前の様子はこちら

今回のテーマは「寺子屋体験をしよう!」

江戸時代の庶民の教育機関でもある寺子屋で、どのような教育を行なっていたのか。

 

漢文の素読も行いながら体験的に学んでいきます。

 

今回はBUIEに住む社会人の方々への授業。

いつもは高校生にしか授業をしていないので、
反応が新鮮でした。

けっこう良い評判をいただきました。

 

素読をした漢文も「この文章、いいですね!」などと反応がありました。

日本の寺子屋は、庶民が文字の読み書きを学ぶ重要な機関でした。
世界的にも識字率が高かった理由も、この寺子屋があるためでした。

寺子屋は需要があるところ、どこにでもあった教育機関です。

 

江戸時代の生活に思いを馳せる授業となりました。
学校以外の場で授業をするのも楽しいものです。

「何かを伝えたい」教員って、無意味では?

よく、「教員になりたがる」人って、多いです。

大体はバックパッカーか何かをして、
「生徒に世界の現状を伝えたい」とか何とか言ったりします。

でもね、生徒は教員を選べないのです。
権力性がすでにあります。

いくら「世界の現状を伝えたい」と言っていたって、
本当に生徒はその内容を「聞きたい!」と思うのでしょうか。

はなはだ、疑問です。

昔の日教組を思い出します。
彼ら/彼女らは、やたらと反戦教育をしたがります。
現在の資本主義批判も露骨にします。
労働者保護を訴えます。

それ自体はいいことです。
ですが、日教組系教員の悪いところは「それだけ」に必死です。
メッセージを「伝えたい!」思いが強烈すぎるのです。
露骨に言うとそれ以外には生徒に伝えなくても、別にいいのです。

別にその生徒は、「反戦」や「資本主義批判」を学びに学校に入ったのではありません。

社会で生きるために必要な知識とスキルを学びに来ているのです。

生徒が学校に求めるのは「高卒」などの資格と、「知識」「スキル」のみです。

それ以外には何も求めておりません(「楽しさ」というのはありますが)。

 

「何かを伝えたい」ために教員を目指す人の危うさは、この辺りにあります。
別にあなたの話なんて、誰も求めていません。

むしろ生徒は「自分」に役立つ知識なりスキルなりを求めているのです。

教員はそのあたりに敏感であるべきです。

 

八百屋に人が行くのは野菜を買うためです。
ところが八百屋さんがやたらにサバを買うように勧めるとお客は困ってしまいます。

「何かを伝えたい」教員は、ともすればサバを勧める八百屋になってしまいます。

生徒が何を望んでいるか。

そこからしか教員の仕事はないように思います。

勝山実『安心ひきこもりライフ』

ひきこもりは「悪」として常に語られる。
「ひきこもってないで、働け」など、世の中の眼差しは厳しい。

でも、ひきこもりの人は「働く」場所が本当に提供されているのだろうか?
本書はその点を問いかける。

ひきこもり歴21年の著者。

筋金入りである。

小気味良い比喩やテンポで「ひきこもり」の良さが伝わる本である。
ひきこもりの人は就職活動をしても、「中卒」や「高校中退」ゆえに排除される。

でも、「働いていない」だけで、世の中は批判する。

大事なのは「ひきこもり」というだけで
「もっと頑張れ」ということの不毛さである。

そうではなく、本書は
「もっとひきこもりを楽しもうよ」と呼びかける。
ひきこもりを楽しむ方法も語られる。

ひきこもりこそ、窮極の省エネゆえ時代の先端であるという
「価値の創造」を行う。

一方的にひきこもり「支援」や
ひきこもり「救済」が語られがちな今、
ひきこもりの持つ「価値」や「楽しさ」を訴える本書は稀有な書である。

「ひきこもり」を充実させ、今を楽しんでいく。

「自分はもうだめじゃないか」というひきこもり者に対し、励ましを贈る本である。

参考:https://pub.ne.jp/shimura/?entry_id=3801319

不登校の「親」の眼差し。

「登校拒否・不登校を考える夏の全国大会」に参加している。

この集まりには、私は大学1年生から参加している。

大学時代は「フリースクールをやりたい」ために参加し、大学院時代は「研究のヒントをもらいたい」から参加していた。

いまは私立通信制高校で働いているため、友好拡大と情報収集と広報のため参加している(なんかだんだん打算的理由になってきている…)。

今日、もっとも印象に残ったのは「父親・母親が語る不登校」というセッション。

自分の子どもが不登校を経験した父・母によるシンポジウムである。

親にとって「不登校」というのは受け入れがたいものとして映る。

そのため、一生懸命「子ども」を変えようとする。

転向させる、医療機関に連れていく、などなど。

しかし、重要なのは「保護者自体が変わること」なのだ、と述べていた。

親が自分の子どもを受け止めること。

そして認めていくこと。

彼/彼女がなぜ「不登校」を選択したのか、その理由を受け止めていくこと。

その上で、「いま」を充実させていけるよう、「いま」を楽しむこと。

不登校を契機に、子どもも親も人間的成長できるのは、素晴らしいこと。

そんなことを学んだ。

「こう生きなければならない」という思い込みを捨てて見ること。

そうすることで学べることは多くある。

まさに「不登校は文化の森の入り口」なのである。