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【イベント】「逃げ」の哲学!

【Link Next×日本ノマドエジュケーション協会 コラボ企画第1弾】

「逃げ」の哲学!

~今まで逃げてきたことって、何ですか?~

今まで、あなたは何かから「逃げた」ことって、ありますか?

世間では「逃げずに頑張れ!」と言われることが多い今日このごろ。

けどホントに「逃げずに頑張る」事だけが正しいんでしょうか?

巷で話題のいじめ自殺の話は、もしかしたら「逃げずに頑張る」ことしか選択肢が見つからなかった結果だったのかもしれません。

逃げずに頑張る事は大切かもしれない。

けれど選択肢が一つしかないわけじゃない。

教育のリアルと向き合う視点から、日本ノマド・エジュケーション協会代表の藤本研一が、若者のリアルと向き合う視点から、Link Next代表 田中耕平が、

それぞれの目線から問題提起し、参加者の皆さんと「逃げ」についての考え方を深めていく。

そんなトークイベントを実施します。

詳細は以下のとおりです。

ぜひお気軽にご参加ください。

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・日程:2012年8月12日(日)18:00-20:00

・開場:Link Next(大谷地駅徒歩3分)
(住所:札幌市厚別区大谷地東3丁目1-1シンエー大谷地ビル2F https://goo.gl/maps/JDa3

・参加料:開場料として500円(ほかに持込1品をお願いいたします)

・主催:Link Next(https://linknext.iinaa.net/

・共催:日本ノマド・エジュケーション協会(https://nomad-edu.net

・お申込み先:

日本ノマド・エジュケーション協会 info@nomad-edu.net

☆ご参加希望の方は、タイトルに「逃げの哲学」とご記名の上、

①お名前 ②メールアドレス ③ご所属 をご記入ください。

ご応募、よろしくお願い致します!

【イベントのお知らせ】私立通信制高校のリアル。 〜「休み時間に職員室の僕の机が生徒に占領されるんですよ!」〜

ふだん、札幌で教員として仕事をしています。

来月8/17(金)、東京でイベントを行おうと思っております。

題して「私立通信制高校のリアル。」。
教育会では全く知られていないのに、「生徒」を本当に大切にする学校、
「私立通信制高校」の魅力をぞんぶんにお伝え致します!

お申込みはhttps://kokucheese.com/event/index/45899/まで!

ご応募お待ちしております!

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登校は週に2日。

毎週毎週、何かのイベント。

校則・制服、一切なし。

 

不登校経験があっても、

学習障害があっても、

ちゃんと登校できる。

 

いじめが極端に少なく、

教員と生徒の距離が近い。

 

ゲーム機も持ち込み可能で、

他の専門学校とのダブルスクールもOK。

 

同じ校舎内で大学生も学んでいて、

 

 

職員室は、ハッキリ言って「生徒室」。

食事もゲームも職員室で行えます。

 

…そんなフシギで「学校らしくない学校」のリアリティ、

知りたくはありませんか?

 

東京・水道橋で「学校らしくない学校」を知る90分!

ぜひお気軽にお越しくださいね!

 

講師ははるばる札幌からやってきます!

彼の飛行機代は大丈夫なのでしょうか?

 

彼の救済のためにも、きていただくとありがたいです。

 

以下は詳細です。

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私立通信制高校のリアル。

〜「休み時間に職員室の僕の机が生徒に占領されるんですよ!」〜

 

【日時】:2012年8月17日(金)18:30-20:00

 

【場所】:ネコワーキング(東京都・JR水道橋駅徒歩5分)

※詳細は以下参照。

 

【講師】:藤本研一(私立通信制高校教員)

 

【主催】:日本ノマド・エジュケーション協会

 

【参加料】:一般参加1000円(会場利用料として)

 

【問い合わせ先】:日本ノマド・エジュケーション協会

info@nomad-edu.net

【お申込み先】https://kokucheese.com/event/index/45899/

☆会場について…

住所:東京都千代田区三崎町3-10-5原島第三ビル202

(JR水道橋駅西口出口より徒歩2分)

 

●ネコワーキングへの行き方:

①JR水道橋駅西口改札を出て左ナナメ前方に向かいます。

②パチンコ屋がカドにある交差点があります。

まず道を渡り、パチンコ屋を左手にしながらまっすぐ進みます。

するとファミリーマートがある交差点がすぐ見えます。

その交差点を左に曲がります。

③「東京アニメーター学院」の前を通り過ぎると、

左手の側に立体駐車場があります。

その道向かいにある「原島第二・三ビル」の2階がネコワーキングです。

(当日は看板が出ます)。

 

*ネコワーキングについてはhttps://necoworking.com/ をご参照ください。

*大変場所がわかりにくいので、不明な際は090-5046-2446まで

お気軽にご連絡ください。

 

長田弘『読書からはじまる』NHKライブラリー(2006)

「経験というのは、かならず言葉を求めます。経験したというだけでは、経験はまだ経験にはならない。経験を言葉にして、はじめてそれは言葉をもつ経験になる。経験したかどうかでなく、経験したことも、経験しなかったことさえも、自分の言葉にできれば、自分のなかにのこる。逆に言えば、言葉にできない経験はのこらないのです」(157-158)

松下幸之助は「百聞百見は一験に如かず」との名言を残している。

単に目で読んだり、耳で聞いたりしただけでは「情報」に過ぎない。

それを「知恵」に変えるのが「一験」、つまり自分で実際にやってみるという事である。

しかし、この「経験」も、言葉にすることができないと無意味であると長田はいう。

言葉にする、つまり言語化するということは自分の中で「納得」する・「腑に落ちる」ということが必要となる。

言語によって振り返りを行うことで、普遍的なルールを学習することが出来るのである。

長田の言葉は「言葉にできない経験はのこらない」と続く。

言葉を豊かにする、つまり読書や学習で自分の触れる言葉を多くすることで、より多くを気づけるようになるのである。

また、同じ経験から多くを学べるようになる。

 

よく「経験」か「知識」か、という不毛な対立関係が教育界で議論されている。

重要なのは単なる「経験」も、単なる「知識」も、役には立たないということだ。

バランスよく、「両方」を提供できるなら、それが一番の解決策となる。

 

言葉を豊かにすることについて、長田は次のように述べる。

「読書というのは、実を言うと、本を読むということではありません。読書というのは、みずから言葉と付きあうということです。みずから言葉と付きあって、わたしたちはわたしたち自身の記憶というものを確かにしてきました」(182-183)

「みずから言葉と付きあう」読書は、自分のなかに言葉を「育てる」ことでもある。

「簡単に言ってしまえば、読書というのは「育てる」文化なのです。対して、情報というのは本質的に「分ける」文化です」(197)

こういった言葉を「育てる」行為全体が「読書」なのである。

「すべて読書からはじまる。本を読むことが、読書なのではありません。自分の心のなかに失いたくない言葉の蓄え場所をつくりだすのが、読書です」(214)

私立通信制高校のリアル④(非日常としての学校論)

先日は「なぜ私の学校でいじめが起こりにくいか」をご説明しました。

昨日は「コミュニケーションを人は求めるため、【圧倒的多数がみんないろいろ違いすぎている】状態ではそもそもいじめによってコミュニケーションする相手を減らすことはしない」という動機になると説明しました。

実はもっと本質的な理由があるのです。

それは・・・

登校日数が圧倒的に少ないため

です。

たとえば通学コースでは、週に2度の登校で
単位が取得できます。
卒業ができます。
きちんと高卒資格が取れます。

通信添削コースでは月に2度ほどの登校で済みます。

授業時間がめちゃくちゃ少ないです。

そうなると、学校にいくのは「日常」ではありません。

学校にいくのは「非日常」です。

ハレの日です。

その日しか会えない「仲間」と会える日です。

いじめは「毎日、無理やり、同じ人と、同じ場所に、ずっと」一緒にいることで起きます(またしても『いじめの構造』のお話です)。

私立通信制高校である私の学校は違います。
「週二回、嫌なら休めて、同じ人と、違う場所で、たまに」いる環境です。

たまにしか会えない人をいじめて、何か楽しいことってあるでしょうか?
また、仮にどうしようもなく嫌な人がいても 「週二回だからいいか」と案外軽く相手を「認めて」しまうのです。

つまり、私立通信制高校は学校が「非日常」なのです。
クラスメートと過ごすのはハレの日なのです。

だからこそ、相手を互いに認め合うモチベーションが生まれるのではないか。
それゆえにいじめが発生しにくいのではないか。

私はこう考えるのです。

私立通信制高校のリアル③(いじめ論として)

私も最近気づいた点ですが、私の学校に来る生徒の半数ほどは
「元不登校」です。

学校が合わないため、あるいは学校が何も対応をしないため、
不登校になった生徒です。

いじめられていた生徒もいます。
特性が強すぎて学校が「相手にしなかった」生徒もいます。

ですが、私の学校には「通えている」のです。

私の学校の自慢には「いじめが少ない」ということがあります。
大津の話を見るたび、この点は最大限に強調したいと思います。

人数が多くない分、生徒がいろんな生徒・教員と関わります。
特性が強い生徒もいるぶん、「自分らしさ」をごく簡単に出せます。

通常、高校は「偏差値」で輪切りになります。
そのため、話題や境遇はかなり近いものになります。
話しやすい反面、ちょっとでも周りと違うと「あいつ違うよね」といじめの原因になることがあります。

「みんな一緒だよね」という同調圧力が強いぶん、個性を出せないのです。
(内藤朝雄さんの『いじめの構造』では、クラスという「中間集団全体主義」 の強い環境がいじめを誘発する、と言います)

私の学校は違います。
ハッキリ言っていいのか悩みますが、
特定の教科がおそろしく出来る生徒もいる反面、
学習のハンデを持っている生徒もいます。

境遇も、不登校・高校中退・転入などなど、いろんなルートで入学してきています。
「みんな一緒」という空気はほとんどありません。

だからこそ、皆自分を出せます。

毎日、制服で来る生徒もいます。
コスプレで登校する生徒もいます(電車にどうやって乗ったのか、疑問ですが)。
専門学校に行きながらダブルスクールで来ている生徒もいます。

札幌の学校ですが、毎日特急に乗ってくる生徒もいます。
(石川や東北から来ていた生徒もいます)

多様すぎてよくわからなくなります。
だからこそ、皆カンタンに自己を出せるのです。

違いすぎると、いじめる必要はありません。
逆に共通点を捜すよう努力するようになります。

いじめられる要素も特にありません。
なぜなら違いすぎるため、いじめても(おそらく)面白くないからでしょう。
いじめはいじめられる側・いじめる側の違いが近いほど起こりやすいのです。

あるいは、いじめられる側が圧倒的少数で、いじめる側が圧倒的多数の場合に起こりやすいです。
(先ほどの「中間集団全体主義」です)

いじめの「きっかけ」というか「言い訳」は、大体「少しトロい」や「ちょっと変わっている」という点です。「少し」や「ちょっと」を理由にされるわけです。

圧倒的少数の人が「違っている」場合も、いじめの理由になります。

しかし。
うちのように「圧倒的多数」が皆「違っている」状況では、
「話せる友人」を作るには「違っている」人と話すことが必要です。

そんな状態ではいじめをする動機は非常に下がります。
誰だって、孤立したくありません。

いやでも「コミュニケーションをとりたい」という人間の本源的欲求ゆえに、
周りと交流・社交するようになります。

だからこそ、私の学校ではいじめは起こりにくいです。

つまり、「コミュニケーションを人は求めるため、【圧倒的多数がみんないろいろ違いすぎている】状態ではそもそもいじめによってコミュニケーションする相手を減らすことはしない」という動機が起こるのです。

実はもっと本質的な理由があるのですが、それはまた明日!

(続きます)

働くための、仕事論。

書評:西村佳哲『自分の仕事をつくる』(ちくま文庫)

働き始めると、大学生・大学院生時代以上に考える時間がなくなった。
同時に「プロフェッショナルとは何か」との問いかけが、自分に対してなされるようになった。

日々、仕事に追われていると、「どのような仕事がいい仕事か」「この仕事で何をしたいか」不明確になりがちだ。

そんな時こそ、 本書のような書籍で自己を振り返るゆとりをつくりたいものだ。

 

著者は世界中のデザイナーをめぐり、仕事のやり方・仕事への考え方をインタビューしていく。

興味深いのは「身体性」。
パソコンでデザインの仕事をするときでも、「1ミリの間に10本の線を引く」技術を持つことの大切さが生きる、との指摘。

技術には、それを行う身体が伴う。そして高度に調整された身体においては、感覚の中に美意識が育まれる。
実際にやってみればわかることだが、一ミリの間に一〇本の線を引くには、呼吸の刻み方、集中力、身体全体の骨と筋肉の微細な制御、中心の取り方など、高度な身体感覚が求められる。身構えをつくってからでないと線を引くことはできない。昔はグラフィックデザイナーのアシスタントになってしばらくの間は、線ばかり何度も引かされたそうだ。きれいな線を引くには、烏口の先を砥石で研ぎ澄まし、道具の状態も整えなければならない。その中で磨かれ、身体に刻み込まれる美意識に、尊い価値がある。(33-34ページ)

私も教員職についている以上、プロの仕事をできる自分になりたい。

そのための「基本」の身体的構えの形成がいる。

教員の場合は「発声法」がポイントとなる。

私立通信制高校のリアル②

昨日の続きです。

昨日は私の学校では「生徒と教師の関係が近い」と言いました。

教員と生徒の関わり方は、通常の学校と違います。
他の学校なら「叱る」こと・注意することも、
私の学校では極力受け入れます。

たとえば。
「人見知りで一人で教室に入れない」生徒には
毎日出迎えて「一緒に教室に行こう」といいます。

授業中にじっとしていられず、突然声を出す生徒には会話を心がけます。

何故か階段を一人で登れない生徒には一緒に登ります。

教室がうるさく辛くなった生徒には「職員室で休んでおいで」といい、
職員室まで送っていきます。

私の学校の「当り前」のことですが、周りの話を聞くとそうでもないような学校が多いです。

 (続きます)

私立通信制高校のリアル①

昨日で、生徒の登校日は終了。
夏休みに入りました。

無論、教員はお盆休みのみが夏休みです(5日もあるので、ありがたいものです)。
通信制高校の高校ではレポート提出が不足している生徒、
スクーリング日数が厳しい生徒を対象に「学校でレポートをやりなよ」と
呼びかけをしています。

つまり、1ヶ月の夏休みは「前期のロスタイム」消化のためにもあるのです。
(あとは学校経営や成績処理、新規開拓活動や試験作成などのためにあります)

「楽な仕事」のイメージが教員にはあるようですが、
良心的な教員にとって「楽さ」とは正反対 の方向にあります。

けれど、「楽しさ」は大きいです(「楽さ」に一文字多いだけです)。
通常の学校以上に生徒と教員のつながりは深いです。

今日も昼休みに職員室に降りていくと、
私の机はいつもどおり生徒に占領されておりました。

占領されてもいいように、机の上は常に片付けておくのです 。
(決して書類仕事が少ないわけはなく、未決箱には大量に書類がたまります)

(続きます)

 

スキルアップのための方法論としての仕事。

仕事は、タダで(しかも金をもらって)スキルを学べる場所だ。

失敗しても「クビ」で済ましてもらえる、ありがたい空間だ。

(経営者は下手すると無限責任になる…)

どうせ働くのなら、スキルを上げるために学ぶ場所にしたい。

さらなるキャリアアップのための、通過点としたい。

どんなにブラック企業であったとしても、

その会社を選んだのは他ならない「自分」だ。

無理やり「働かされる」ということはない。

嫌なら会社に行かなければいいだけのこと。

どうせ自分で選んだのなら、

その仕事から学べるスキルを学び切り、

「骨まで」しゃぶってから先に行けばいいはず、だ。

アレントは「労働」「仕事」「活動」を立て分けて考えた哲学者だ。

仕事とは自分がこの世に存在したことを示す対象であると彼女はいう(アレントは女性です、念のため)。

ただ食うための「労働」でもなく、

周りとあれこれ議論するだけの「活動」でもなく(この「活動」解釈に異論があるのは百も承知です)、

自分がやり遂げる対象としての「仕事」。

「仕事」は本来、「私」が生きた証でもある。

キャリア教育を学んだ者として言わせていただくと、

「キャリア」carrierとは人が「この先歩む」道ではない、という。

carrierとは元々、人が歩いた「後」の道のことをいう。

高村光太郎と同じだ。

「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」(『道程』)。

日々の仕事からスキルを学ぶ先に、

自分なりのcarrierが出来るのである。

【数学コラム 】「因数分解」や「式の展開」から学べること

因数分解や式の展開って、いったい役に立つのでしょうか?

一つには、因数分解の発想は計算の手助けをするという働きがあります。次のような筆算を見たことのある人は多いと思います。

 

456
× 789
ーーーーーーー
筆算の計算も、もとは因数分解や式の展開の発想を利用したものです。下を見ると、789を700+80+9に分けていることがわかります。

 

456×789 = 456×(700+80+9)
=456×700+456×80+456×9
=359784

(参考:https://okwave.jp/qa/q827227.html

 

数学の場合、複雑な計算をより簡単なものに置き換えることがよくあります。そのことで問題がより容易に解けるようになります。さっきの筆算などはその例ですね。

 

一見、困難に見える悩み(=問題)も、発想の仕方を変えると(=因数分解・式の展開)容易に解けるようになることがあります。この発想の変え方のルールを多く知っている人は、悩みや問題をいろんなやり方で乗り越えられるわけです。自分の悩みや問題も、解決のルールを多く知っていることが問題を乗り越えるためのヒントとなります。