よく、「教員になりたがる」人って、多いです。
大体はバックパッカーか何かをして、
「生徒に世界の現状を伝えたい」とか何とか言ったりします。
でもね、生徒は教員を選べないのです。
権力性がすでにあります。
いくら「世界の現状を伝えたい」と言っていたって、
本当に生徒はその内容を「聞きたい!」と思うのでしょうか。
はなはだ、疑問です。
昔の日教組を思い出します。
彼ら/彼女らは、やたらと反戦教育をしたがります。
現在の資本主義批判も露骨にします。
労働者保護を訴えます。
それ自体はいいことです。
ですが、日教組系教員の悪いところは「それだけ」に必死です。
メッセージを「伝えたい!」思いが強烈すぎるのです。
露骨に言うとそれ以外には生徒に伝えなくても、別にいいのです。
別にその生徒は、「反戦」や「資本主義批判」を学びに学校に入ったのではありません。
社会で生きるために必要な知識とスキルを学びに来ているのです。
生徒が学校に求めるのは「高卒」などの資格と、「知識」「スキル」のみです。
それ以外には何も求めておりません(「楽しさ」というのはありますが)。
「何かを伝えたい」ために教員を目指す人の危うさは、この辺りにあります。
別にあなたの話なんて、誰も求めていません。
むしろ生徒は「自分」に役立つ知識なりスキルなりを求めているのです。
教員はそのあたりに敏感であるべきです。
八百屋に人が行くのは野菜を買うためです。
ところが八百屋さんがやたらにサバを買うように勧めるとお客は困ってしまいます。
「何かを伝えたい」教員は、ともすればサバを勧める八百屋になってしまいます。
生徒が何を望んでいるか。
そこからしか教員の仕事はないように思います。
客は、「うるせえな。お前は八百屋なんだろ。サバなんか買いに来たんじゃねえ。」と文句を言えばよろし。
少なくとも公教育とは「役に立つ知識やスキル」そのものを教える場ではない、と、私は思っています。
数学という教科の学習をすることは、必ずしも「数学の問題を解けるようになる」ということだけを得る「ため」だけではないし、仮に、「解くためだけ」に勉強したつもりでいても、それ以外の「何か」を得た人は少なくないのではないでしょうか。
そして、実世界に出て本当に役立つのは「それ以外」の部分だったりはしませんか ?