「さいしょの一人」とゴキブリホイホイ

新幹線でも特急電車でも、ワゴン販売は「さいしょの一人」が買うと、次々人が買っていく。

 

今日の札幌発-帯広行きの電車でも実感しました。

 

私が130円のコーヒーを買うと、みんな次々買っていく。

まるでゴキブリホイホイです。

 

みんな遠慮して、「さいしょの一人」になりたがりません。

売り手にとっては、ビジネスチャンスを逃してしまいます。

 

そのため、「さいしょの一人」には、支援金を出してもいいんじゃないかと私は思います。

クラウド・ファウンディングの定番・CAMPFIRE(キャンプファイヤー)も、

寄付開始前から根回しして、「さいしょの一人」として寄付してくれる人を用意するのが「定跡」だそうです。

 

個人経営の居酒屋でも、「さいしょの一人」目のお客には特別なサービスをします。

ちょっといい刺身をつけてくれることがあります。

 

それは「さいしょの一人」のお客がゴキブリホイホイ式にお客を呼んでくれることを知っているからなのです。

 

 

 

ちなみにこれ、カンパや寄付でも一緒らしいです。

 

コンビニの募金箱には始めから小銭を入れておくと、あとはゴキブリホイホイ式にお金が増える。

中身が「からっぽ」の募金箱に人はお金を入れないのです。

 

よくすすきのでは上手くもないアーティストが路上ライブをやっていますが、

彼らのギターケースにも始めから小銭と札を入れておいたほうが

「アガリ」はよくなるようです。

 

 

それにしても「ゴキブリホイホイ」、北海道では売ってないなあ。

 

相手に伝わる話し方、3つのコツ。

人前で話をする時、言う内容が伝わっているか、不安を感じるものです。

 

私も学校で授業をやる関係上、よく感じます。

 

この1年間の経験を元に、確実に伝わる話し方のコツを書いてみました。

 

学校の教員にとっては半ば「常識」ですが、人前で話す人でできていない人が案外います。

 

1,情報を整理する。

 

何をして欲しいのか。

何を伝えたいのか。

 

不明確では相手が困ります。

 

出来る限り、情報を整理します。

情報の整理には「具体性」が必要です。

 

何をすべきか明確であると人は安心して理解出来ます。

講演の際、話を聞いてくれない時も、情報が整理されていないことが多いのです。

 

なお、教員の研究会では「AしたいならBさせる」というコツが伝えられています。

 

生徒や受講者に計算問題を解いて欲しいのなら(Aしたいなら)、

まず言うべきは「問題集を出します」です。

その後、「〜〜ページを開きます」と言います。

もっと徹底する人は「問題3を指さします」を言った後、

「それでは問題3をやりましょう」と言います。

 

「AしたいならBさせる」というコツも、情報を整理するということです。

 

2,聞く体制を作る

 

相手が「聞こう」としない状態で話してもうまく伝わりません。

 

よく学校で教員が声を荒げますが、それをやっても喉をを痛めるだけです。

 

それよりも「聞く体制を作る」工夫をしましょう。

 

たとえば、「こちらを向いてください」「机の上にペンを置き、ホワイトボードを見ます」など、

具体的な指示を出します。

 

学校では「気をつけ、礼」をやります。

これ、単なる儀礼ではありません。

 

「休み時間が終わった、いまから授業だ」という意識に変える働きがあります。

「聞く体制」になるわけです。

 

基本はまず注目を集めます。

「はい、みなさん」と呼びかけたり、

手を叩いたり。

 

その後、「話を聞きましょう」とメッセージを伝えます。

 

3.目を見て話す

 

人は「私に話しかけられている」場合、きちんと聞く気になります。

「全体に話そう」としても、聞いてくれません。

 

だからこそ、「この人に伝えよう」という思いを持って、目を見て話していきます。

 

話すのが上手い人は会場内にまんべんなく目線を運んでいます。

一人でも多くの人の目を見るためです。

 

下手な人は紙に向かってばかり話します。

あるいは開場の「上空」に向かって話します。

 

結果、誰にも伝わりません。

 

 

…いかがでしたでしょうか?

ぜひ人前で話す際、意識してみましょう。

 

簡単なようですが、きちんと行うのは難しいです。

【日曜バー】「コーチングで一歩先行く」セミナー!&麺屋 能正!

日曜バーテンの藤本研一です。

本日の日曜バーは「コーチングで一歩先行く」セミナー!

コーチング講師の八木悠磨(やぎ・ゆうま)さんによる、
主として就活生を対象としたセミナーです!

自分の目指す目標や「メンター」の定め方、
人とのコミュニケーションの仕方など、
コーチングを超えた内容まで盛り込まれた講座となりました!

 

さて、同時開催で能正さんによる、「麺屋 能正」も開催!

あんかけ焼きそば600円、
和風スパゲティ600円。

こちらも好評です!

【日曜バー】せんきょCampさっぽろ、開催しました!

いま話題の「せんきょCamp」。

政治や選挙について自由に語り合う、というイベントです。

本日Coworking Cafe 36にて、北海道初となるせんきょCampを開催しました!

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今回のテーマは「政治に必要なもの」。

「日本の政治にいるのは「政治そのもの」が必要だ」
「政治家のQualify、つまり品質保証が必要ですね」など、聞いてためになる発想が次々の述べられました。

なかなかちゃんと話す機会のない「政治」や「政治システム」について、参加者のみなさんと意見を交換する場となりました。

ワールドカフェ形式で、政治・選挙の課題をまとめていきます。

ざっくりと「政治」のあり方を考える場となりました。

「こういう議論を持てる場があるって、いいですね!」
「メンバーが言いたいことを言えてよかったです」などの声が聞かれ、少人数ながらも充実した場となりました。

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第2回を、参議院選挙前の5/19(日)、19:00-21:00、開催することも決定!

第2回は今回の意見を元に、「参議院選挙どうする?」を具体的に考えていきます。

ご参加の皆さん、ありがとうございます!

「あえて」金子みすゞ批判。


学校教育現場でも、

自己啓発の分野でも、

金子みすゞはおおく取り上げられる。

「私と小鳥と鈴と」は、定番中の定番。

「みんなちがって、みんないい」

これが定番なのであるが、私はどうしてもこの詩が好きになれない。

むしろ、嫌っている。

そもそも前提がおかしい。

この詩では「私」と「小鳥」と「鈴」の同格性がまとめられる。

しかし、こんな論理性の飛躍を許していいのであろうか。

金子みすゞのこの詩を引く時、引用者は「他者を認め合う」ことを訴える。

「それぞれの個性を認めよう」と述べる。

この金子みすゞの詩は「他者」ですらない「小鳥」と、無生物の「鈴」を「私」と同一視する。

このことを「他者」の比喩として使うのはいかがなものか。

詩心(ポエジー)であるからそれでいい。

そんな視点もあるであろう。

けれど、明らかに異質な「私」「小鳥」「鈴」を一緒くたにする「暴力性」を私は感じてしまう。

「私」と「あなた」と「あの人」のような三者を述べる場合、この詩の問題性はなくなるであろう、とかんがえられる。

第3回 子ども×教育タベリバ、開催しました!

1/27(日)、「第3回 子ども×教育タベリバ」、開催しました!

会場はLink Next

若者協力事業所Link Nextと日本ノマド・エジュケーション協会の共催イベントです。

本日のテーマは子どもとと関わり方。

写真

2グループに分かれてのディスカッションの時間となりました!

今回は個別学習塾はるの河西さんも講師として参加。

写真 のコピー

アンケートには「少人数で丁寧に話しあえてよかったです」

「教員・NPOの方など、様々な方の視点から意見を聞けて視野が広がりました。
また参加させていただきたいです」

今回、10名を超える参加がありました!

お越しくださった皆さま、ありがとうございました!

次回は3/23(土)13:00-15:00、
今回と同じくLink Nextでおこないます!

アクセス
[googlemaps https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&safe=off&q=%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E5%B8%82%E5%8E%9A%E5%88%A5%E5%8C%BA%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%9C%B0%E6%9D%B1%EF%BC%93%E4%B8%81%E7%9B%AE1-1&ie=UTF8&hq=&hnear=%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E6%9C%AD%E5%B9%8C%E5%B8%82%E5%8E%9A%E5%88%A5%E5%8C%BA%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%9C%B0%E6%9D%B1%EF%BC%93%E4%B8%81%E7%9B%AE%EF%BC%91%E2%88%92%EF%BC%91&t=m&z=14&brcurrent=3,0x5f0b2b153345ba01:0xf414b3a5ad3a064,0,0x5f0b2b1537bb7d69:0xfb4a3788464f958b&ll=43.026833,141.450656&output=embed&w=425&h=350]

「勉強になった」禁止令!

シンプルライフへの「福音」としての「あること」

書評:エーリッヒ・フロム『生きるということ』紀伊國屋書店 1977。

(原題:”To have or to be”)

丸山眞男は有名な論文「『である』ことと『する』こと」で、「である」価値と「する」価値とを立て分ける。

(岩波新書『日本の思想』所蔵)


誰かに貸した金を返す権利のある人物「である」状態であっても、請求「する」ことがなければ権利が失われる。

そういう、何もしない「である」の状態から「する」ことへ発想を切り替えていくことを訴えている。

エーリッヒ・フロムの『生きるということ』は丸山眞男の立て分けに近い。

エーリッヒ・フロムは「持つこと」と「あること」に立て分ける。

「持つこと(=to have)」は丸山眞男のいう「である」に近い。

何かを所有し、それで満足する状態。

エーリッヒ・フロムはこの状態が産業社会において発展したことをいう。

「あること(=to be)」は丸山眞男のいう「する」である。

所有ではなく、誰かと楽しんだり、自己の経験を重視する。

かつての人間社会は「あること」にあふれていたが、現在では「あること」は少なくなっている。

「私は〜〜を持っている」(持つこと)のではなく、「私は〜〜である」(あること)の方がより本質的である。

しかし、われわれは「私は教員免許を持っている」「医師免許を持っている」と「持つこと」の価値のみを見てしまう。

ブラック・ジャックは漫画の話だが、無免許の天才外科医よりもやる気のない勤務医のほうを重視してしまうのである。

「学校」で言えば、教え方の天才的にうまい塾講師(教員免許を持たない)よりも、やる気も授業力もない学校教員のやる授業の方が「単位修得」に関しては「価値」が高くなる。

われわれの生活は「持つこと」の価値を重視している。

さて、現在「シンプルライフ」という発想が広まっている。

これは「ノマド」に近く、何かを多く所有するのではなく、上質のものだけ・必要な物だけを所有し、自分の精神的を豊かさを重視するという生き方である(禅の生き方に近いものであるそうだが、そこまではあまり良くわからない)。

この「シンプルライフ」は、エーリッヒ・フロムのいうところの「あること」である。

ある様式(藤本注 あること)においては、私的に持つこと(私有財産)にはほとんど情緒的な重要性はない。なぜなら私には何かを楽しむために、あるいは使うためにも、それを所有する必要なないからである。ある様式においては、何人もの人が−−いや何百人という人々が−−同じ物の楽しみを分かち合うことができる。(159)

この発想は「シェア」の発想でもある。

さて、この「ある」ためには何が必要であろうか。

本書にはこのようにある。

シャバットには、人はあたかも何も持ってはいないかのように生活し、あること、すなわち自分の本質的な力を表現することのみを目標として追求する。すなわち祈ること、勉強すること、食べること、歌うこと、愛の行為を行うこと。(80)

何よりもまず、私たちは自分の物や自分の行為から自由にならなければならない。これは何も所有してはならず、何もしてはならないということを意味してはいない。それの意味するところは、自分が所有するもの、自分が持つものに、また神にさえも、縛られ、自由を奪われ、つなぎとめられてはならない、ということである。(96)

持つことは、何か使えば減るものに基いているが、あることは実践によって成長する。(154)

このヒントを実際に「する」ことで実践に生かしていくこと。

それが「ある」ためのヒントであろう。

ノマドワーカー「批判」と、理念としての「ノマド」。

起業に属さず、一人で/フリーランスで働く生き方としての「ノマド・ワーカー」。

カフェで優雅に仕事をする人たち。

 

そんな「ノマド・ワーカー」に対し、最近Web上で批判の声をよく聞く。

 

いわく「ノマドは正規雇用のハードさに耐えられないヤツの逃げた姿の正当化」であるとか、

「チャラチャラしたよくわからんヤツ」とか。

 

さんざん、である。

 

私が「日本ノマド・エジュケーション協会」事務局長である以上、

私はどこまでも「ノマド」擁護派である。

 

しかしそれは、現実の「ノマド・ワーカー」擁護では、ない。

 

理念としての「ノマド」擁護である。

 

「ノマド」。

それはドゥルーズとガタリが概念化した発想。

ピラミッド型の組織に対し、無限に拡散する「ネットワーク」として掲げた概念である。

 

ジャガイモやオリズルランなんかの「根茎」、つまり横に横に広がる根っこを意味する「リゾーム」を整理した概念だ。

(写真はオリズルランの根茎。根っ子の一部から、あらたに葉っぱや花が生えてくるのです)

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「ノマド」。

それは「遊牧民」である。

 

組織・構造を超え、自由に/縦横無尽に動き回る主体としての「ノマド」である。

 

「何ものにも頼らない」という意味で「近代人」の究極の姿が「ノマド」なのである。

 

つまり、本来「ノマド」を批判するのは「中世復古主義」の現れなのである。

A・ギデンズのいう「ハイ・モダニティ」の主体としての「ノマド」なのである。

 

時代は「近代の窮極」としての「ノマド」を求めている。

決して、「大企業」「大組織」あるいは「構造」「組織」を土台にした

単なるワーカーを求めてはいない。

 

「ノマド・ワーカー」批判は、その意味で時代錯誤である、とも言える。

 

無論、私もチャラチャラした「ノマド・ワーカー」や

適当な「ノマド・ワーカー」は嫌いだ。

 

そうではなく、あくまで理念として「ノマド」を擁護するのである。