PCはアイデアを殺す道具?

さいきん、というよりここ数年、紙よりもPCでメモを取ることが多くなりました。

 

おそらく、皆さんもそういう方が多いと思います。

 

昔は起動時間が気になりましたが、MacBook Airはパッと開いてちょっとするとすぐ打てる。

実に便利なものです。

 

そのためもっぱら文字を書くのはPCで行なっています。

 

そのことに「弊害」があることに、ようやく最近、気づきました。

 

『プレゼンテーションZEN』を読んだためです。

 

世の中、見ていて眠くなる・ツラくなるプレゼンテーションが多いのはなぜか?

それをテーマに書かれた本です。

 

その理由として本書は、

〈いきなりPCでプレゼンテーションのデータを作ってしまうため〉と説明します。

 

PowerPointやKeynoteといったプレゼンテーションソフトはたしかに便利。

でも、プレゼンのやり方を考える際からいきなり使ってしまうと、

プレゼンソフトのテンプレート通り「箇条書き」だらけのつまらないプレゼンになってしまいます。

 

本書は写真の活用や「シンプル」を極めるなど、

実に実用的なテクニックが満載。

 

でも印象に残るのは、〈いきなりPCを使ってしまう〉ことの弊害の大きさ、です。

 

冒頭に書いたメモの話もそうです。

いきなりPCに打つと、その瞬間アイデアは「文字」の形に縛られます。

大体の場合、「箇条書き」の制約を受けます。

 

絵で書いたりキーワードを丸と矢印でつないだメモのほうが、

さらなるアイデアを生んだかもしれない。

・・・そんなふうに感じます。


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そんなわけで、いきなりPCにメモするのでなく、

さいきんは紙にマインドマップなりフィッシュボーン法なりで書くようにしています。

 

PCをいきなり使う時よりも、アイデアの自由度が広まったように感じます。

 

マクルーハンという学者は「メディアはメッセージである」といいました。

文字で書くか絵で書くか。

紙に書くかPCに書くか。

こういった書字形式も「メディア」である以上、

「アイデアの書き留め方」がアイデアのメッセージ性を強めも弱めもするのです。

 

この点、「アイデア」が命である職種の人は気にかけるべきかもしれません。

 

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【日曜バー】寿司ナイト、大好評!

本日4/14(日)、Coworking Cafe 36にて寿司ナイトを開催!

普段はアルバイトで寿司を握るスーパー学生・木下隼(きのした・はやと)さんに
料理を担当してもらいます。

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アクティブな学生をはじめ、行動派な人々がCoworking Cafe に来ています。

その人達が自然につながりあい、Facebookの申請をしている様子が印象的でした。

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こんなとき、「日本ノマド・エジュケーション協会としてイベントをして来てよかったなあ」とおもいます。

来て下さった方からも、「高い寿司屋はいくらでもあるけど、こうやってアットホームな場所って、いいですねえ」としみじみ語ってもらえるなど、やりがいのあるイベントとなっています。

気骨ある生き方

さいきん、明治から昭和期の実業家の本を読むのにはまっています。

出光公三、

松下幸之助、

本多静六、

渋沢栄一etc,etc.

彼らのバイタリティは、やっぱりすごいです。

「明治人の気骨」というわけではないけど、

「何もない」時代に何かをなそうとした気概。

これ、僕も欲しいなー、と思います。

人には、年寄りだとか若いとかに関係なく、誰でもわたしのように「これだけは譲れない」というところがぜひあって欲しいものである。そうでないと、人の一生というものが、まったく生き甲斐のないものになってしまう。(渋沢栄一『現代語訳 論語と算盤』

 

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こういう生き方、したいものです。

『「ふり」の自己分析』

石田春夫『「ふり」の自己分析 他者と根源自己』講談社現代新書(1989)

〜今日は名言集的に、抜粋を掲載します〜

「「よい人間」であることを教えこまれた人間は、「よい人間のふりをする」人間に、容易に騙されてしまうのである」(158)

「うつ病者の多くは人一倍よい人間であろうと努めてきた人々であり、事実真面目なよい人間であるから、そのような人が自分から死を選ぶというのはいかにも残念なことである」(176)

「生きているかぎり、よく生きること、そして死が来たらよく死ぬこと。生きるときは生ききること、そして死ぬときは死にきること。生を学び、死を学ぶ。それが独りとして生まれ、独りで死ぬべき「私」の生死なのであり、私の最後の「ふり」である」(178)

ゴールを設定しよう

この間、ある人と飲みに行きました。

地域活性化について語り合うというひととき。

その中でふと気づいたのが、「地域活性化って、何を持って言うのだろう」ということです。

 

「地域活性化」。

多くの人が言うわりに意味・狙いが「あいまい」な言葉です。

 

「地域活性化」。

コミュニティカフェを運営することが地域活性化なのか、

大卒の若者がその場で働く場所があるのが地域活性化なのか。

工業団地を誘致するのも「地域活性化」ならば、

「葉っぱを売る」のも「地域活性化」です。

 

でもみんな一緒くたにして「地域活性化」と言っています。

 

なんでも言えてしまう状態だと、「何をやっていいかわからない」になります。

 

教育についてもこれが言えます。

「教育を良くしよう」という際、

学力の全体的な引き上げをいうのか、

地域とつながる授業をすることをいうのか、

「情報科」を入試科目にすることなのか、

特別支援教育にもっと金を出すことなのか、

みんなあいまいです。

 

ゴールを決めなければ、有効な手立てが取れません。

 

逆にゴールさえ決めれば、後は簡単です。


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私の「地域活性化」とは、「大卒の若者がとりあえずその町に住んで、

住民税を納めること」をいいます。

雇用をその町に作らなくても、そこから通勤出来ればそれでよし、の立場です。

 

ここに「コミュニティ・カフェ」などを入れるから話が見えなくなります。

 

いったいゴールはどこなのか。

明確化することが必要ですね。

【イベント】日曜バー「うどんパーティー」!

本日3/31、日曜バーでは「うどんパーティー」を開催!

現役北大院生の中野展裕さんによる、本場・讃岐(香川県、つまりうどん県)の手打ちうどんをご提供!

写真 のコピー

 

今日19:00からのために、なんと今日は10:30からずーっとうどんを打っていたそうです・・・。すごい!

単にうどんをたべるだけでなく、
この場に居合わせた人たちと楽しく交流を行います。

主催の中野さんの今日の趣旨は「うどんコミュニケーション」。

うどんを通じて、人がつながる。

皆さんの楽しそうな様子、伝わって来ました!

写真

 

ただ、だいぶお待たせしてしまった点が反省点です・・。

次はもっとうまく運営します!

去りゆく一切は…

「去り行く一切は比喩にすぎない」シュペングラー

 

比喩とはつまり、想像の産物。

人間が頭でつくったもの。

 

これは「ユーモア」と同じだ。

すべてはユーモアだ。

 

去り行く一切はユーモアの一幕。

 

そう考えると、仕事の大変さも、

人間関係の煩わしさも、

観客から見た時は「楽しい」ユーモアの光景に過ぎなくなる。

 

「去り行く一切はユーモアだ」。

それこそ人間に必要なこと、だ。

「あえて金子みすゞ批判」への追記。

この前、ある方から本ブログの「あえて金子みすゞ批判。」へのコメントを頂きました。

拙文、お読み下さり、ありがとうございます。

プライバシーの関係上、そのやり取りを直接は書けないのですが、

返信を書いていると少しテンションが上がってきたので、その文面を「追記」として以下に書きます。

・・・・・・・・・・・・・・

「あえて金子みすゞ批判」、お読み下さりありがたいです。

 

教育現場には「みんなちがって/みんないい」を引用してばかりの人が多く、なんか「イヤ」になってしまうのです。

思うに、金子みすゞというのは決して詩の世界のメインストリームにいてはいけない人なのです。

 

あくまで何か部屋の隅っこで、「でもこんな考え方もあるよ」と言い続ける、代案提示人なのです(たぶん)。

 

おそらく、私が感じる暴力性の淵源は、金子みすゞにはないと思います。

 

むしろ、「みんなちがって/みんないい」と言いたがる、偽善的な教育現場の「暴力性」を感じるわけです。

 

金子みすゞではなく、金子みすゞを「語りたがる」人の暴力性とでもいえばいいのでしょうか。

 

「みんなちがって/みんないい」という人に限って、

「えー、でも小鳥と鈴とわたしを〈同格〉にしちゃうのって、詩の表現方法としてどうなの? わざわざ当たり前のメッセージを、こんなに白々しく表現しないといけないの?」などという意見を「認めない」構図があるようです。

 

「みんなちがって/みんないい」。

ちょっと考えてみる必要が有るようです。

子どもは「学びたがっている?」

小阪裕司は「顧客のニーズなんかない。顧客はわくわくを求めている」と述べる。(『「惚れるしくみ」がお店を変える!』)

これは教育にも言えることだ。

ハッキリ言って、生徒は「学びたがっている」ことなんて、ない。

学びたいものもない。

「ほしい物」がはっきりしない分、「受験」をテーマに授業をすることになる。

そして「ニーズに応えている」と受験校の教員は述べる。

しかし、それは本当だろうか、と感じた。

内田樹は〈学びというのは「贈与」であり、学ぶまでは自分が何を学びたがっているか分からない〉と述べる。

何を学ぶか、なぜ学ぶか分からない状態から学習は存在すると言っているのである。

生徒は学びたがっているわけはない。

生徒は「わくわくすること」を求めている。

学校もひとつの総合サービス業である。

であれば、生徒の「わくわく」を誘発する「しくみ」を作らねばならない。

それが「この内容は面白い」「楽しい」ということが伝わる授業であろう。

私はかねがね、「ドラクエ並みに面白い微積の学習教材が開発されれば、日本の国富が増大する」と思っているが、

これも「楽しい」「わくわくする」状態を学校のなかに取り入れることになると考えられる。

昔のマグネットスクールの発想である。

学校に生徒自らが「惹きつけられる」状態を理想とする、ということだ。

この「惹きつけられる」状態、生徒に「何を学びたい?」と聞いても教えてくれるわけはない。

それはデパートの店員がお客に「何を売って欲しいですか?」と聞くことと同じである。

お客は思いつきのアイデアを述べはするが、それで売上が高まるわけではない。

顧客は自分の「欲しい物」を知らないためである。

日本人で理数が嫌いな人が多いのも、「あ、難しそう」と逃げてしまうからだろう。

案外やってみると、面白かったりする。

教員という仕事は、生徒が何をわくわくするか、見極めながら授業をすべき、

恐ろしく高度な「総合サービス業」なんだなあ、とつくづく思う。

もっと修行せねば。

 

 

映画はどこまでも「同時代性」の産物だ。

よく、昔の映画を観ます。

 

黒澤明や小津安二郎、チャーリー・チャップリンなどなど、

いずれも大好きです。

 

でも、最近はあんまり観なくなりました。

物理的に家で映画を観るのが面倒になったのと、

そういう時間を作るのが辛くなったためです。

 

どうせ観るなら映画館。

ところが私の勤務先である札幌にはすぐいけるところに名画座がないため、

どうしても「いま」の映画になります。

 

でも「いま」やっている映画を観ると、

いまの人々が何を考えているのか、

何を求めているのか、

何をしたいのか、

「なんとなく」伝わります。

 

これは昔の映画ばっかり観ていた時期には気づかなかった点です。

「映画史に残る名作」という言い方がありますが、

「内容」・「中身」の良し悪しを観ていました。

「メッセージ」を観る・「表現」を観ていたのです。

 

そうではなく、映画は本当は「空気」を観るものなのではないか。

そう考えています。

 

映画はどこまでも「いま」の「空気」を表すものです。

2013年の映画は「2013年はこういう年だったのですよ」というのを

伝えるためのツールです。

 

2013年にいる人間にとって、2013年がどういう年か、

よくわかりません。

 

だからこそ「映画」を観て2013年の「空気」を知るのです。

 

映画はどこまでも「同時代性」に立脚しているのです。

 

「メッセージ」や「表現」がどうこう言うべきものではなく、

実は「時代」や「空気」を伝えるためのもの。

 

そう言えるはずです。