「ノマドというのはこの本の冒頭でも説明したように、昔は単なる「遊牧民」を意味していました。しかし社会がだんだん固定化され、産業革命を経て人々が工場労働などに携わるようになって自由な生き方が難しくなってくるにつれ、ノマドは別の意味を持つようになっていきました。つまりは自由の象徴、この圧政と隷従の社会からの闘争の象徴としてのノマドなのです」(223-224)
佐々木俊尚, 2009, 『仕事をするのにオフィスはいらない――ノマドワーキングのすすめ』光文社.
1,ノマド・スタディとは何か
「いつでも・どこでも」学べるという記述。この「いつでも・どこでも」という言葉は、ビジネス書における「ノマド・ワーキング」を思い起こさせる。ドゥルーズ/ガタリのリゾームのように、無限に拡散していくイメージの中で、場所性を超えた働き方のことこそ「ノマド・ワーキング」。このイメージでいくと、「いつでも・どこでも」学ぶということは「ノマド・スタディ」と言えるのではないか。本稿では「いつでも・どこでも」の学習を「ノマド・スタディ」と定義し、それが意味する内容の概念化の分析を試みたい。
2,ノマド・ワーキングとは何か
ノマド・スタディについて考えるにあたり、参照枠組みとしてノマド・ワーキングについて考察することにしよう。「ノマド」はドゥルーズ/ガタリが『千のプラトー』において用いた発想である。ツリー型の知・組織のあり方に対し、リゾーム型のあり方を提唱する際、リゾーム型の主体として想定されたものが「ノマド」である。
浅田(1983)もノマド型のあり方をネットワーク構造として析出している。一般化された「ノマド」の概念は黒川紀章がはじめ「ホモ・モーベンス」の概念を用いていたものを、黒川(1989)から使用し始めている。ノマド・ワーキングを謳う各種文献・雑誌から、ノマド・ワーキングの姿を析出することが本節の課題である。
中谷(2010)は佐々木(2009)を引きつつ、「働く場所を自由に選択する移動型の働き方」(中谷 2010: 6)としてノマドワーキングを定義する。具体的には「パソコン片手に街をオフィス代わりに働くというワークスタイル」(中谷 2010: 7)が想定されている。
「ノマドワーキングとは、仕事をする場所と、活動のフィールドを自分で自由に選択するという働き方です。無駄なストレスや時間の浪費をなくし、ネットワークを広げ、仕事の質を高める仕事術といえます。(…)ノマドワーキングは効率マニアの仕事術とは大きく異なります。仕事は、自分の会社の肩書きでオフィスにこもってやらなくてはいけないという常識を捨て、仲間とつながりながら楽しく仕事に向き合う手法なのです」(中谷 2010: 26)。
この「ノマド」という言葉に対し否定的な論者もいる。斉藤(1999)は「人びとは地域・階級・家族・国家など、みずからが帰属する伝統的な組織から根こぎにされ、ばらばらの個人として資本の蓄積過程へと動員されるようになるからである。この浮遊する個人は、もはやおのれのアイデンティティを伝統的な組織への帰属によってたしかめることができない。人びとは自力で自己のルーツをたどり、自己の喪失を自覚し、自己の存在を確かめるように強められる。二〇世紀の動員体制が生み出した最終的な帰結が、このようなノマド的個人であった」(斉藤 1999:255)。斉藤のみるノマド観は、「自由」というノマド・ワーキング論者のそれでなくデラシネ(根無し草)としてグローバリゼーションの世界の中で孤立する個人像であった。
ここまで見たのは「ノマド・ワーキング」への賛成・反対の声である。「いつでも・どこでも」働けることの利点を述べる中谷に対し、斉藤は「ばらばらの個人」に分けられてしまうことの問題点を指摘しているのである。この両者の立て分けは、これから見ていく「ノマド・スタディ」にも当てはまるのか否かを次で見ていく。