私が高校教員として職場で一番学んだのは、「振り返り」の大事さだ。
私の職場ではイベントでもなんでも、何かの後には「必ず」といっていいほど、「振り返り」を行う。
「振り返り」、すなわち「リフレクション」である。
端的に言って「アンケート」と述べることにしよう。
授業のレポートに「アンケート」的な「感想」欄があるほか、「学校祭」や何かの後も振り返りをする。
その点を日本ノマド・エジュケーション協会のイベントでも行うようになった。
その結果、見えてきた法則が3つある。
1,リフレクションをすると、イベントの内容が内面化される。
これはまあ、当り前。
学んだこと/目にしたことを書き留めると、記憶に残る。
アンケートを書くと、人間は嫌でも「言語化」する。
言語化することは、記憶に残すための第一歩だ。
人間、「読めない」英単語を覚えることは出来ない。
Newspaperという単語も、「ニュースペーパー」という読み方と、「新聞」という意味を聞いているからこそ記憶に残るのである。
何かを記憶に残すには、アンケートなり日記なりで「言語化」することで、自分のなかで情報が整理される。
アンケートは究極の記憶定着装置なのである(おおげさだけど)。
2,アンケートを書く/書いてもらうと、結果的にイベント自体が「よい」ものに美化される。
この2の部分,実は一番「アンケート」をやる意味なのじゃないか、と(密かに)私は思っている。
「今日のイベントはいかがでしたか?」の質問に対し、
「4 とてもよかった 3 よかった 2 悪かった 1 とても悪かった」と書いてあれば、大体の人は「4」を選ぶに決まっているのだ。
特に少人数のイベントの場合、大体の人は遠慮から「とてもよかった」に丸をしてくれる。
人間、自分の行動から逃れることは出来ない。
心では「ああ、このイベント、いまいちだったな」と思っていても、アンケートを手渡され、「感想」を書く段になると、「とてもよかった」に「うっかり」丸をしてしまうに決まっているのだ。
そうすると、来て下さった人に対しても「ああ、なんか良かった点もあるかも知れない」と「合理化」してくれる。
世の中の数あるイベントには、やはり数あるアンケートがある。
アンケートをやっていながら、「読まない」という主催者を、私は多く知っている(私は全て読んでいます)。
「読まない」アンケートも、実はアンケートを書いてくれる参加者に、「このイベント、良かったかもしれない」という「誤解」や「解釈」をもたらしてくれる側面がある。
主催者側にとって、アンケートに1つでも「悪かった」の丸があると、ガクッと来る。
しかし、大体は「とてもよかった」に「だけ」、丸がついている。
そうすると、世のイベント主催者たちは「俺たち、頑張ったぜ!」とアンケートを見ながらガッツポーズをするのである(たぶん)。
3,イベントという「贈与」への「反対給付」となる
授業とは、単に一方的に与えられる「贈与」である。
しかも、送られる「贈与」を「断る」ことは出来ない(やりにくい)。
いやいや聞かされている人にとって、この「贈与」の一方性は「暴力」である。
何かを相手に「返礼」する義務が生じるからだ。
…これがバタイユの言う「贈与」の発想(『呪われた部分』)。
人間、一方的に贈与されると、なにかお返しをする必要があるという、隠れたルールをまとめたものだ。
もうすぐ来る年賀状も、来た以上、大部分の人が「返事」を書く。
そして郵便局だけが儲かる。
…それはともかくとして、一方的な「贈与」は「反対給付」をする機会がなければ、人間、落ち着かない。
授業やイベントの「アンケート」欄は、この「反対給付」を行なってくれる効果がある。
私にはこんな経験がある。
演劇を見た後、何故か「何もやっていない」自分に対し、虚しさを感じることがある。
舞台の役者は汗ダラダラで、全力を尽くして我々に演技を「贈与」してくれている。
でも私は涼しい部屋でただ見るだけ。
おまけに私は基本的に演劇は一人で行くため、誰かと話して虚しさをごまかすことも出来ない。
そんなとき、「虚しさ」を解消するのが「アンケート」なのである。
自分も何かやりたい。
自分も何か騒ぎたい。
イベントのあとの高揚感は、向かう先がないとすぐに「虚しさ」と軽いうつ症状をもたらす。
そんな現代人の悲しさを解消してくれるのが、「アンケート」という文明の利器なのである。