書評

田中優『地宝論』子どもの未来社。

ここしばらく、日本の「地方」について考えるようになりました。

 

イケダハヤトさんの『まだ東京で消耗してるの?』ではありませんが、
東京以外の「地方」で活動していく可能性について普段考えるようになったからです。

 

 

札幌で各種活動をしていきたい私にとっても、
「地方」をどうとらえるか、必要な支店となっています。

 

田中優さんの『地宝論』(ちほうろん)はそんな中で読んだ本。

タイトルこそ「地方」を名乗っている本ですが、
読んでみるとどうも「反原発」「市民バンク」といった
「反政府」「反経済界」が強い本。
「地方」色ってあんまりないような・・・。

 

 

いまいち「これ本当なの?」という点も多い本ですが、
エネルギー政策について「こんな視点があるんだ!と気付ける本です。

 

 

世界の紛争地と資源の場所を照らし合わせてみると、話ははっきりします。世界の紛争地は、ほぼ5つの地域で起きています。「石油が取れるか、天然ガスが取れるか、パイプラインが通っているか、鉱物資源が豊かか、水が豊かか」の5つです。「宗教紛争」や「民族紛争」というのは、後から取ってつけた理由ですね。実際には、エネルギーや資源をめぐる金儲けのために戦争が起こっているのです。だから戦争を避けたいのであれば、エネルギーを自然エネルギーに切り替えていくことが最も大きなカギになります。(150-151)

 

この本で一番グッと来たのは次の所。

「怖い」内容の部分です。

 

福島の篤農家の方の悲しい話がありました。その人は無農薬・有機栽培でキャベツを育てていたそうです。安全なキャベツを作り、近くの小学校の子ども達に食べさせたくて、毎回届けるのを楽しみにしていたそうです。しかしその畑が放射能によって汚染されてしまった。見た目に変化はなく、見事に育ったキャベツは出荷停止になりました。「もう終わりだ」とつぶやいていたのち、彼は自宅で首を吊って自殺してしまったのです。(4)

 

こういう話を聞くと、
無性に切なくなります。

 

だからこそ、
原発について真剣な議論が必要なんだな、と思います。

 

 

なおこの本。

もとはある新聞社から出版する予定だったそうです。

 

ですが、編集の段で原発関連(再処理工場など)の部分を「削って欲しい」という要望が出ます。

「他の出版社から出していただくように著者の方に相談をしてほしい」(188)と言われ、結局別の出版社から出すことになったとのこと。

 

本当に、そんなことってあるんだな。
出版を控えるほどの内容でもないと思うんだけど・・・。

 

こちらもオススメ!

  1. 鎌田浩毅, 2008, 『ブリッジマンの技術』講談社現代新書. (2)
  2. 『ヒーローを待っていても世界は変わらない』? (2)
  3. 見田宗介『現代社会の理論−情報化・消費化社会の現在と未来−』(岩波新書) (2)
  4. 非認知能力が、人生を決める!(中室牧子『「学力」の経済学』②) (2)

齋藤孝『語彙力こそが教養である』

「あの人、教養があるよね〜」

そんな言葉をよく聞きます。

 

 

また「教養」を謳った本もたくさんあります。

 

Z☆『おとなの教養』。私も身に着けたい・・・。
(こちからお求め頂けます)

 

 




ところで。

 

次の問に答えられますか?

 

「では、教養ってなに?」

 

 

 

この問い、けっこう難しいです。

 

「教養って何?」と考えず、
とにかく教養を身につけなくっちゃ!」と焦る人すらいます。

 

 

教養とは何か。

 

 

齋藤孝さんはまさに「語彙力こそが教養である」というわけです。

9k=こちらからお求め頂けます。

 

 

語彙力(語彙をどれくらい知っていて、どれくらい使いこなせるか)=教養

・・・というわけです。

 

 いちばん伝えたいのは、「語彙が豊かになれば、見える世界が変わる」ということ。人生そのものが楽しくなるということです。
思考は、頭のなかで言葉を駆使して行なわれます。つまり、何かについてじっくり考えて意見を持つためには、先にたくさんの言葉をインプットすることが必要不可欠です。英語が苦手な人は、英語で深く思考することはできないでしょう。それと同じように、乏しい語彙力では、それをとおした狭い世界しか見ることができません。(6-7)

 

ものを考えるとき、人は「言葉」を使っています。

 

ためしに、「言葉」を使わずにものを考えてみてください。

 

例として「言葉を使わずに、坂本龍馬のやったことを頭のなかで考える」をやってみましょう。

 

 

 

 

・・・。

 

 

 

いかがでしょうか?

 

 

たぶん、大河ドラマのワンシーンを再現するはできても、
「大政奉還の建議」や「薩長同盟の実現とその意義」は
言葉なしではできないはずです。

 

 

人間は「言葉」を使ってしかものを考えられない以上、
「言葉」の数を増やすことは「ものの考え方」も増やし強化することにつながります。

 

「言葉の数」とその使い方を学ぶことが、「語彙力」というわけです。

 

 

語彙力を高めるため、齋藤孝さんはアドバイスをしていきます。

 

夏目漱石などの文筆家の本を「音読」する(160ページ)。

何か知らない言葉があればとにかく「検索、検索、また検索」を繰り返す(111ページ)。

良質なテレビ番組をもっと見ていく(118ページ)。

 

語彙力の向上は、日々「なにをするか」です。

日々、語彙力アップのための「習慣」を身につけることです。

 

語彙力は、「やるか/やらないか」、そして「いかに”今日から”始めるか」が5年後、10年後の語彙の大きな差につながります。日々の生活が忙しいのは、私もよくわかりますが、インプットにかける時間は多少無理をしてでも確保してほしいところです。(121ページ)

 

齋藤孝さんが言っている、夏目漱石などの文筆家の文章の「音読」。
実は私もやっていました。

 

高校の頃、やはり齋藤孝さんの本に、

国語の力を伸ばすなら、夏目漱石の『坊ちゃん』を音読するといい。

 

・・・とありました。

 

 

さっそく、『坊ちゃん』を買ってきました。

そして、音読。

 

日曜の昼過ぎからはじめ、終わった時は夕方を過ぎていました。

 

高校の寮のベランダで音読し続け、
読み終わった時に見た夕焼けはいまだに心に残っています。

 

 

「ああ、読みきった〜〜〜!」
達成感がありました。

 

音読してみた結果。

夏目漱石の言葉の「リズム」に馴染んだ気がします。

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これも、一つの「教養」ということなのでしょうか。



 

ちなみに。
本書『語彙力こそが教養である』の内容は「作文教室ゆう」のサイトにも掲載しています。

 

 

ぜひご覧ください↓

「作文教室ゆう」作文のコツ65 「すごい」禁止令。

9k=

こちらからお求め頂けます。

キム・ナンド『最高の自分をつくる 人生の授業』。

ちょっと前、「ハーバード白熱教室」というNHKの番組が流行ってました。

その模様をまとめたのが『これから正義の話をしよう』。

Z☆マイケル・サンデルの著作。こちらからお求め頂けます。

話題になりましたね〜。

 

 

 

当時、大学院生だった私の周りでは、
マイケル・サンデルの「正義」論に関し賛否両論が出まわってました。

 

 

 

「リベラリスト」たる私としては、「コミュニタリアン」マイケル・サンデルは「あんまり好きじゃないな〜」というものでした。

 




 

 

 

 

 

さて、そのマイケル・サンデルの後を受けて放送されたのが「ソウル白熱教室」。

ソウル大学の人気教授、キム・ナンドの授業の模様です。

「ソウル白熱授業」の内容に近いのが『最高の自分をつくる人生の授業』。

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ソウル大学で最も希望者が多く集まる「人気ナンバーワン」教授です。
(こういう自己啓発系の授業に人気が集まるって、大学としてどうなのかな〜)

 

 

こういう自己啓発本、私はけっこう読みます。

大体は日本かアメリカで書かれたものです

 

韓国の著者が書いた自己啓発本を読むのは「はじめて」でした。

 

 

 

読んでいて気付くのは、こんなこと。

「日本と韓国の文化って、近いな〜。」

日本の著者が書いたんじゃないかな?と思ってしまう箇所、満載です。

受験競争がやたら厳しかったり、
子どもの塾通いに親が借り出される様子が書かれていたり。
「日本的光景」と思われるものが多数出てきます。

やたら「焼き肉に行った」「焼き肉で打ち合わせ」など、
「焼き肉」ばっかり出てくるところで
「さすが韓国!」と思った次第です。

 

なかなかの名言揃いです。

本当にきみを幸せにし、満足させてくれるのは、昇進でも昇給でも、周りに認められることでもない。それは、きみ自身の成長だ。(・・・)会社はつらいからやめるものではなく、これ以上の成長が望めなくなったからやめるんだ。(26)

 今日一日だけ生きよう。そのために必ず覚えなければならない呪文がある。(・・・)
運命愛。あなたの運命を愛しなさい。
今日一日だけがんばろう。すべては過ぎていく。(77-78)

 

 人生が本当につらいと思うたび、ぼくは愛する人のことを考える。彼らに愛されたいという願い、彼らに愛されるべき人間になろうという誓いで、ぼくはまた必死で生きようとする。
だから、あなたの人生には価値がある。愛する人がいる限り。(92)

 

 ワーキングマザーは、”人類の歴史上、最も搾取の激しい2つの組織”職場と家庭の両方で、フルに働くことを求められている。(220)

 



【本書の処方箋】

 

この本を読んでグッと来るのは次のような人たちです。

「こんな会社、やめてやる!」と、仕事を辞めようと思っている人。
「なんで私ばっかり、不幸ばかりやってくるのだろう・・・」という人。
「どう生きたらいいの・・・」という迷っている人。
「結婚しようかな・・・」という人。

 

以上のどれか1つでも当てはまる方、ぜひ読んでみてください。

 

なんか「スッ」とします。

 

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髙坂勝『減速して生きる ダウンシフターズ』

ダウンシフターズ」。
ダウンシフトする人)

日本語では「減速生活者」。
ジュリエット・B・ショアが『浪費するアメリカ人』にて提唱した概念のこと。

きょう紹介する『減速して生きる』からの「孫引き」で、
「ダウンシフターズ」の解説をします。

 

過度な消費主義から抜け出し、もっと余暇を持ち、スケジュールのバランスをとり、もっとゆっくりとしたペースで生活し、子どもともっと多くの時間を過ごし、もっと意義のある仕事をし、彼らのもっとも深い価値観にまさに合った日々を過ごすことを選んでいる(『減速して生きる』5ページ)

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大量消費やサラリーマン的長時間労働ではない生き方を選ぶ人たちです。
「そんなに働かなくてもいいんじゃない?」
「もっと豊かにすごしていいんじゃない?」

ある意味「ナマケモノ」なのですが
(著者の髙坂さんは「ナマケモノ倶楽部」の世話人でもあります)、
実はそういう生き方こそ「カッコいい」

減速して生きる』を読み終えるとそんな価値観が体内に広まります。

ある意味で、劇薬です。

イケダハヤトさんのブログ並みです。
(『減速して生きる』発刊はかなり前だけど)。

すでにお分かりかもしれませんが、
タイトルの『減速して生きる』とは、まさに「ダウンシフト」することです。

 

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減速して生きる』を読んで、
そんなにうまくいくわけ無いじゃん!」という批判も出るはずです。
(髙坂さんは「折り込み済み」のようですが)。

じゃあ、どうやってダウンシフトするの?
それが本書の主題です。

 

本書『減速して生きる』前半は、髙坂さんの「半生」の物語です。

 

 

 

 

29歳までの会社勤め。
そのなかのストレスと「この仕事、世の中に役立ってるの?」という不信感。

会社をやめての日本放浪(プラス ピースボート)。

突如「飲食のお店をやる!」と修行の日々。

そして、「一人でもやれる」「忙しくしない」条件のもと、
Bar【たまにはTSUKIでも眺めましょ】開業をする。

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池袋駅から徒歩10分。

繁華街を抜けたところ。


地図で見ると、
見事に繁華街を抜けたところにあるのがよくわかります。

わずか6.6坪

ランチは「忙しい割に儲からない」からやらない主義

1日の来客目標は【5名】。

18:00開店の23:30ラストオーダー。

飲食店をなめています。

でも「ヒマで繁盛しないのに黒字経営!」(持続可能!)。

それは、徹底的に「自分がなにをしたいか」「何が必要か」分かっているからできることなんだな〜、と気づけます。

昼寝もできるし、
ヒマな時間をいかして自分で「コメ」も「大豆」も自給してしまう!

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もっというと、「これをしたい!」というのと並行して、
「これはしたくない!」という思いもあるということです。

例えば・・・

環境に負荷のかかるものは使いたくない!
→無農薬・オーガニックの食材で、素材の味を活かす

 

大企業・大資本の大量生産品を使いたくない!
→小さなお店・良心的な生産者から直で仕入れる

 

もっと家族の時間を大事にしたい!
→当初、週1だった定休日を週2に。
(なお、いまは「土日月」の週休3日です。飲食業をなめている感満載!

でも、この髙坂さんの存在で、【たまにはTSUKIでも眺めましょ】には面白い人がたくさん集います。

そして髙坂さんが「勝手に自己紹介」させたり、
歌を歌ってしまったりする結果、
「世界にそこしか無い」体験のできるお店になってしまいました!

内装もすべて髙坂さん一人がやったもの。

結果的に、徹底的なコストダウンです。





でも、この髙坂さんの姿勢、私は感動しました

それは私自身の今の悩みにもつながっています。

4年間働いた「高校教員」をやめたあと、
開業届を出し「個人事業主」になった私。

「自分らしく仕事したい!」「仕事を通して、世の中に貢献したい!」という思いを持っています。

が・・・。

 

 

正直、
「そんなに忙しくしたくないなあ・・・・」という思いが心全体に広まっています。

 

せっかく会社勤め(学校勤め?)から降りて「減速」したのに、
バリバリ忙しく働くのは「なんか違う」感を持っているからです。

むしろ、作文教室とイベントを週の半分くらい行い、
あとは「研究」なり「ブログ」なりで食っていきたい。

まあ、まだ作文教室もなにも本格稼働していないのですが、
ことし後半にはこういう生活、成り立たせるのが目標です。

 

私が勝手に「恩師」「師匠」と呼んでいる、
早稲田大学の岡村遼司先生は、かねがね言っていました。

ゆっくり、やりなさい。

 

 

学生のころは正直、あんまり意味がわかっていませんでしたが、
いま少しわかってきた気がします。

自分が何をやりたいか。
何をして、社会をどうしたいか。
自分は何の価値を提供できるか。
自分の生活の仕方も踏まえて考えながら、
「ゆっくり、やっていく」こと。

せっかく教員を「やめてしまった」以上、
もっと考えて行き、自分の塾なりイベントなりで還元していこうと思います。
(「ゆっくり、やる」というのは「減速して生きる」にも通じますしね)

 

9k=-1☆岡村遼司先生の著書。わたしはちゃんと読みましたよ!!!





なお私も、髙坂さんのこの【たまにはTSUKIでも眺めましょ】、
環境教育系の知り合いに教えてもらい、何度も行こうとしました。

が・・・。

たどりつけませんでした・・・(泣)。

池袋の喧騒を通っていると、「もう行くの良いや〜」となってしまったのです。
(例「もうラーメンで良くね?」的な)。

 

こんどこそ、
こんどこそ、
東京に行ったらこの店に行くんだ〜!

北海道に行ってからずっと決意しているのですが、
結局行けずじまい。

今年こそは・・・・。

 

9k=☆こちらからもお求め頂けます。

【お断り】
私の手元にあるのは高坂勝, 2010, 『減速して生きる ダウンシフターズ』(幻冬舎)なのですが、なぜかAmazonにその版がもう出ていませんでした・・・。

入手しやすさを考え、ちくま文庫版の画像・リンクを貼っております・・・。

イケダハヤト『まだ東京で消耗してるの? 環境を変えるだけで人生はうまくいく』。

イケダハヤトさんのブログタイトルをそのまんま本にしてしまったのが本書。

2Q==-1

イケダハヤト, 2016, 『まだ東京で消耗してるの?
環境を変えるだけで人生はうまくいく』幻冬舎新書。

☆こちらからお求め頂けます。

この前の記事でも書いたとおり
松永桂子『ローカル志向の時代 働き方、産業、経済を考えるヒント』)、
イケダハヤトさんは私が勝手に「ロールモデル」としている方です。

 

再掲します。

いま北海道・札幌市で4/7開業の塾設立に向けて動いています。

そんな私が勝手に「ロールモデル」としている人がいます。

それがイケダハヤトさん。

日本の元首相・池田勇人と名前がかぶるので、
あえてカタカナにしているプロブロガー。

 

イケダハヤトさんは、1986年生まれ。
早稲田大学政治経済学部2009年卒業。

私は1988年生まれ(早生まれ)で、
早稲田大学教育学部2010年卒業。

リアルに、同じ時期に、同じキャンパスにいたことになります。(密かな自慢)
(注 文学部を除く純粋文系の学部は、「西早稲田キャンパス」《現 早稲田キャンパス》にありました)

東京を捨てて「高知県」の「限界集落」に引っ越したイケダハヤトさんは、
教員時代から私のあこがれの人でした。

Z☆イケダハヤトさんの本の中でも、『新世代努力論』は「何を頑張るか」悩んだ時に役立つ本です。

 

私も、私立高校就職を機に東京を捨てて「北海道」に引っ越したからです。

 

いま私が住んでいる「札幌」を「地方」と言ってしまってもいいのかどうか微妙ですが、【北海道・札幌から日本の教育を面白く!】という私の目標にはゆらぎはありません(多分)。

松永桂子『ローカル志向の時代 働き方、産業、経済を考えるヒント』

このイケダハヤトさん、ネット関係者には有名なのですが、
あいにく私が先月までいた北海道帯広市ではあまり知られていませんでした。

例)読書イベントの際、「最近読んでいる作家は?」の質問に「イケダハヤト」と答えると、
「昔の首相?」としか返答がありませんでした。

 




さて、そんなイケダハヤトさんが運営するWebが「まだ東京で消耗してるの?」。

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この挑発的なタイトル、私は好きです。

ただ、『新世代努力論』からイケダハヤトさんを知った者として、
「この人、こんなに挑発する人だっけ?」感を持ってしまったのは事実です。
(『新世代努力論』は「いい人」感を全面に出している本でした)

実際、東京には「消耗」させる要素がたくさんあります。

(1)移動時間ばかりの東京

東京では移動時間という人生の無駄遣いから逃れられない(22)

ぼくが東京を離れたのは、移動に嫌気がさしたからです。毎日毎日、移動してばっかりでやるべきことに集中できないんですもの。
「移動時間の無駄」に気づいていない人は仕事ができない、とぼくは常々断言しています(ブログでこれ書いたら炎上しました。が、結論は変わりません)。
移動に時間とエネルギーを費やしてしまう以上、成長ペースは鈍化し、仕事のパフォーマンスも改善せず、年収は上がりません。当たり前の話です。毎日2時間以上、ドブに捨てているわけですから。(22-23)

私も東京にいた人間です。
東京はどこにいくにも車は渋滞。
おまけに、23区内だけでも一つひとつの場所が地味に遠い、という不便な場所です。

例)新宿で会議の後、渋谷で打ち合わせをして、六本木にいき、新小岩の自宅に帰る
(これだけで移動時間が1時間を超える)

「ローカル」モデルとして北海道の札幌市を出すと、札幌は「コンパクトシティ」の代表のような場所。

基本、「札幌駅」「大通駅」「すすきの駅」の3つだけで仕事ができます

札幌の市営地下鉄の路線図がありますが、仕事で使うのはほぼこれくらいです↓。

subway-line-2しかもこの3駅、地下鉄ですぐ行けるほか、
徒歩20分でつながっています。
しかも「地下街」で連結しているんです(大雪でも安心!)。

この3駅のそばに住んでしまえば、そもそも移動が限りなくゼロになります。
さて、北海道の人に話して「えっ!」と言われるのは、「新幹線通勤」をするサラリーマンがいるということです。

「そうまでして会社に通って何するの?」とよく反応が返ってきました(北海道新幹線開通前の反応です)。

「移動」だけで東京は「消耗」させる場所なんですね。

他にも〈「事前の打ち合わせ」という東京的儀式〉(28頁)のように、
移動を誘発する仕組みが大量にあります。

 やはりこれも、人が多すぎるからなのです。意味のない会議に参加しているだけで、偉い人に説明をしているだけで、仕事した気分になる。実際、何も世の中は変わっていないのにも拘わらず。こんなやり方でうまく収益を上げられるわけがありません。(・・・)
言わずもがな、高知に移住してからは「打ち合わせのための打ち合わせ」なんてものは完全に縁遠くなりました。人が少ない地方は、何をするにも話が早くて助かります。
(29-30)

冬の時期、北海道では便利なことに「雪がひどくて車が掘り返せません」で
打ち合わせを休むという裏ワザがあります。
(北海道では「車が埋もれる=休める」という裏ルールが存在します)

雪が少ないと有名な帯広でさえ、昨冬は5回くらいこの裏ルールが発動するほどの雪が降りました。

 




(2)地方のほうが稼ぎやすい

地方では「雇用」は少ないけれど、「仕事」は山のようにあります。どういうことかというと、一つの仕事で数万円程度が稼げる「小さな仕事」がたくさんあるんですよ。ぼくが高知に来て発見したものでいうと、
・収穫アルバイト(コメ、ゆず、オクラなど)
・草刈りアルバイト(実際、時給1000円でやりました)(・・・)
などなど、「そんな仕事があるのか!」と目からウロコの「小商い」が無数にあります。一つの仕事で食べていくのは難しくても、「複業」でやっていくことが前提なら、田舎に行っても十分メシを食うことは可能です。(56)

この部分、私も札幌で参考にしたい点です。

月3万円ビジネス 100の実例』という本も、そういった「地方ならでは」の仕事にあふれています。

「大儲け」できる仕事は地方には少ないですが、
「3万円だけ稼げる」仕事が無数にあるというのが面白いところです。

2Q==☆『月3万円ビジネス 100の実例』。「ウコッケイを飼って、卵を売る」など、
「おもしろ」系のビジネス満載です。

「小商い」や「複業」の発想は私の書評にも書いています。
松永桂子『ローカル志向の時代 働き方、産業、経済を考えるヒント』

また、こういった「小商い」「複業」以外でも、
地方のほうが「頭角を現す」のはラクだと思います

例えば、いま全国的に「やりつくされ」感がある「ビブリオバトル」。
本の書評を行うというイベントです。

東京だったらどこでも「やられている」定番イベントですが、
北海道ではまだまだ。

帯広市図書館でやっていた「ビブリオバトル」も、
「新参者」の私が実質運営を行うことができてしまいました

例)ビブリオバトル帯広のイベント

東京だったら、なかなか入り込めません。

東京で流行っているものを、アレンジして持ってくる「だけ」でも、
「その分野の第一人者」になれてしまう環境があります。

これ、北海道に来てから私がすごく実感するところです。

その意味で、「あえて東京を離れる」選択はアリだな−、と身を持って感じています。

 何かというと、大きな資本主義システムが回っていない地方には、「東京だったら絶対誰かがすでにやっているビジネス」が、手つかずのまま残されているんです。「どぶろくのネット販売」なんてどう考えても儲かるわけで、誰かやっているはずなんですよ。でも、地方にはネットに詳しい人もいないので、価値のあるものがネットの海に船出していないのです。21世紀だというのに。(136)

 

さて、本書『まだ東京で消耗してるの?』にはまだまだ紹介しきれないことが多数掲載されています。

本書は私のように「ローカル」(札幌を「ローカル」と言って良いのかは賛否両論ですが)で活躍したい若者(私をまだ「若者」と言っていいのかも賛否両論がありますが)にとっての必読書です。

私の目標は「北海道から、日本の教育を面白く!」。
そのための「座右」にしたいと思います。

2Q==-1

イケダハヤト, 2016, 『まだ東京で消耗してるの? 環境を変えるだけで人生はうまくいく』幻冬舎新書。
☆こちらからお求め頂けます。

おおたとしまさ『ルポ塾歴社会 日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体』③

前の記事の続きです。
前の記事はこちら

本書『ルポ塾歴社会』では、【サピックス小学部→鉄緑会】というコースをたどった人たちへのインタビュー記事が前半部分を占めます。

このインタビュー記事の部分。
なんというか・・・。

 

 

前回も書いたとおり、
「いまいちピンとこない・・・」感満載です。

それは私が「中学受験って、なんですか?」という片田舎に育ったことも大きいです。

どうも「首都圏の子どもは大変だなあ・・・」という思いを持つ本でした。

「大学に入るまで塾に頼り切る生き方は、もしかしたら私から、何かを深く思考する能力を奪ったのかもしれないとおもうことがあります。もともとそういうことがニガテだったのかもしれませんが、そのことに目を向けず、お山の大将に慣れてしまうシステムなのかもしれません。そういう生き方が向いている人も必ずいるわけですから、それが一概に悪いことだとも言えませんが」(45)
(桜蔭→東大文Ⅰ→東大ロースクール→弁護士の女性へのインタビュー)

 

小学生のうちは、目標の学校に入るためにどれだけの学力が必要で、そのためにどれだけの努力をしなければいけないのかなど、子供本人がわかるはずもない。塾の指導に右向け右になることはやむを得ない。しかし、それが強烈な成功体験として刻まれ、中学・高校生になっても塾に頼り切りになってしまうと、主体的な学習習慣を身につける機会が奪われてしまうのかもしれない。(45-46)

そして、【サピックス小学部→鉄緑会】という黄金ルート日本のエリート教育をある意味「固定化」「制度化」させてしまう危険があることを本書『ルポ塾歴社会』は危惧しています。

 

その一つが〈サピックス小学部のほうが、名門中学校の入試問題に対し「こんな設問をしている限り、うちの塾からはその中学校への進学を勧められない」というクレームが入る〉とということかもしれません。

 

ただ、本来的に塾は「学校で足りないこと」「学校でできないこと」を補う働きをしてきています

塾の生徒からも、「学校の授業はつまらない。だけど、友だちと遊べるから学校に行っている」という言葉を聞くことがあります。

「塾のほうがわかりやすい」という声も聞きますし、
「これって、こういう意味だったんだ!」という素朴な感動を、
塾で授業をしていて共有することもあります。

 学校とは別に塾という学びの場があることで、子供たちは自分に合う学習スタイルを見つけたり、より多角的な刺激を受けたりできるのである。
「学校歴×塾歴」で、教育のバリエーションが無数に増える。日本の学校制度が平等で画一的であったからこそ、教育の多様性をもたらすために、塾という「変数」が自然発生したようにも私には見える。(146)

 

その意味で、塾と学校は決して敵対しないもの。
同じ子どもを、違う立場からサポートしていけるものなのです。

 逆に言えば現在は、塾があるからこそ、学校は学校でいられる。目先の大学合格だけでなく、生徒一人ひとりの人生の20年後、30年後をも見据えた本質的な教育に力を注ぐことができる。だから学校の多様性も担保される。その意味で、塾は学校教育を陰で支えるパートナーなのだ。(144)

 

かつて、札幌で塾を運営する能正章寛さんという人は「塾は学校と地域・家庭の究極の裏方」という名言を述べていました(いまも述べています)。

教育という点で、子どもを「究極の裏方」としてサポートしていけるのが塾である、という観点です。

本書を読んで再確認した気がします。

☆たまたま見つけた「札幌人図鑑」の動画より。

 

公教育が「与えられた教育」であるとするならば、民間教育は「自ら求める教育」と言える。その2つがあることで、日本の教育は常にバランスを保ち、かつ、柔軟に進化し続けることができた。これは世界でもまれに見るハイブリッドな教育システムなのである。(145)

札幌で新たに作文教室ゆうをはじめる者として、「世界でもまれに見るハイブリッドな教育システム」を支える一員になりたい、と思っています。

 

 

 

さて、この『塾歴社会』を元に、4/9(土)に読書会を開催します。

【Facebookイベントページ】『ルポ塾歴社会』読書会

4/9(土)22:00-23:00、会場は札幌市営地下鉄「幌平橋駅」徒歩5分の
個別学習塾はる】です。

ぜひ本書片手に語り合いませんか?

ご参加お待ちしています!
(参加希望の方はこちらからご連絡ください)

おおたとしまさ, 2016, 『ルポ塾歴社会 日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体』(幻冬舎新書)。
2Q==☆こちらからお求め頂けます。

おおたとしまさ『ルポ塾歴社会 日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体』②

前の記事の続きです。
前の記事はこちら

 

この4月から作文の塾を開設する私にとって、本書『ルポ塾歴社会』は参考になる1冊でした。

ハッキリ言うと、北海道では「サピックス」(SAPIX)も「鉄緑会」もほとんど縁がありません。
(サピックスは「北大増進会」内にSAPIXメソッドコアマスターというコースがあったり、代々木ゼミナールと合同で「Y SAPIX」を運営していますが・・・)

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学力危機北海道』ではありませんが、北海道は全国的にみて「低学力」が問題とされています。

9k=☆こちらからお求め頂けます。

札幌はともかく、私が先月まで居た北海道帯広市はまだまだ「受験競争が激しい」とは言いがたい雰囲気の場所です。

受験熱、特に中学受験熱なんて首都圏と関西のみのもの・・・
本書『ルポ塾歴社会』を読んでも「ああ、そんなことがあるのね」という「関係ない感」をもってしまいます。

 

そのため、サピックスや鉄緑会についての話よりも「第4章 塾歴社会の光と闇」が一番勉強になりました。

 

某有名進学校の校長はこう言う。「私たちが高校生だったころは、高3になると、東大に合格した先輩の家に行って、勉強方法を教えてもらい、先輩が使っていた問題集をダンボールごとごっそり譲り受けて受験勉強をしたものです。それが学校の伝統でもありました。しかしいつしか塾が台頭し、いつまでにどの問題をやればいいのかをすべて指示してくれるようになってしまった」
そうなれば、プロの力を借りたほうが有利になるのは当たり前である。それを突き進めた先に、塾歴社会」があった。(141)

かつて、受験勉強の際は次の自問自答をしながら勉強をすすめるものでした。

「自分はどこを目指すか、自分はどの教材を使い、自分はどんな計画のもと受験勉強をするか」

いま、これを自分で考えることを放棄する受験生が多い気がしています。

自分で考えないからこそ、塾・予備校を「ペースメーカー」として使うことになります。

例)「数学は高3の夏までに全分野一通り終わらせられるよう、カリキュラムを組んでいます」

そうなると、自分で考えることは「ペースを乱すこと」になります。

下手に自分で考えて「別にいま数学をやんなくてもいいんじゃないか」とすることは「危険」(=不合格)な発想になるのです。

 

これこそ、思想家イバン・イリイチが語った「制度化」です。

2Q==-1☆イバン・イリイチ研究の第一人者、山本哲士の本。

自分で考え、自分で勉強する力がなくなり、
「塾/予備校」という「制度」がいうことを無目的に信じ、行動するようになるのです。

当然、自分で考えて受験勉強を進めると「うまくいかない」「一生懸命やったけど、志望校に落ちた」という結果もありえます。

【サピックス→鉄緑会ルート】の若者を描いた『ルポ塾歴社会』では、保護者の声として、息子が「第1志望合格を逃したことを、今でも自分の判断ミスだったと悔やんでいる」(78)との記述があります。

受験生自体が「自分の失敗だ」と捉え、「じゃあ、次はこうしよう」とはせず、単に「判断ミス」として親が「悔やむ」構造もあるのです。

また、サピックスも鉄緑会も、超スピードで進みます。
「ふつうの子」ならついていくのに一杯いっぱい。
その結果、学校の勉強も塾の勉強も中途半端という生徒も出てしまいます。

どこかで、「じゃあ、サピックスを辞めて、自分はあの塾でまた頑張る」「別のやり方を試してみる」をすればいいのですが、それをできず、やり続けてしまう。

ある意味ですごく素直です。

言われたことを純粋にただやる。

「地頭」のいい受験生なら「まあ、適当に手を抜くけど一応やっておくか」と相対化できます。

そうでない「ふつうの」受験生なら、それこそ学校の授業中に塾の宿題を必死にやるという「イタイ」ことをしてしまいます。

かつての「自分で考える」主体性を求められていた受験勉強に、
塾による「制度化」がはじまっているのです。

続きます
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おおたとしまさ『ルポ塾歴社会 日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体』①

兵庫県の片田舎出身の私。

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そんな私が東京の私立高校に進学したときのこと。
その時は、首都圏の圧倒的エリートが通う「筑波大学附属駒場高校」も知らなければ「開成高校」も知らず、中高一貫校というものがあることも東京で初めて知りました。
(もっといえば「中学受験」という制度や「国立の高校」の存在も知りませんでした)

首都圏のみ、異常に受験熱が高いことに【がく然】としたものでした。

私は、中・高・大一貫教育(もっというと「小」からも)の場所に高校から入っています。

そのため、「生まれも育ちも関東」で、なおかつ「中学受験を経験している」「中学からの持ち上がり組」の同級生から、高1のときの私はどう見られていたのか、いまさら怖くなります。

兵庫の片田舎とは受験のルール自体、違っていたのですから・・・。

 

さて、本書『ルポ塾歴社会』は、首都圏(一部、関西も)の「究極のエリート教育機関」となっている2つの塾についてまとめた本です。

 東大合格者数ランキングの上位に名を連ねる学校のほとんどは、私立もしくは国立の中高一貫校。2015年の上位を挙げれば、開成、筑波大学附属駒場、灘、麻布、駒場東邦、桜蔭、聖光学院など。
これらトップ校に入るための中学受験塾として圧倒的なシェアを誇り、ひとり勝ち状態にあるのが「サピックス小学部」だ。そしてこれらトップ校の生徒たちが大学受験のためにこぞって通うのが「鉄緑会」えある。つまり、「サピックス小学部」の上位クラスの子供たちがトップ校に合格し、入学後は「鉄緑会」に入るという流れができている。(・・・)
東大合格率ナンバーワンの筑波大学付属駒場中学受験合格者数に占める「サピックス小学部」出身者の割合は、2015年で7割を超えている。また大学受験の最難関である東大理Ⅲ(医学部)の合格者のうち6割以上が「鉄緑会」出身者で占められている。
たった2つの塾が、この国の「頭脳」を育てていると言っても過言ではない。「学歴社会」ならぬ「塾歴社会」である。(3-4)

兵庫の片田舎にはそもそも「中学受験」なんて選択肢は事実上、ありませんでした。

にもかかわらず、「中学受験」の「名門」に受かるための塾があり、
その塾のエリートたちが再び「東大」合格のために入る塾がある。

恐ろしい現実があるなあ、と実感をしました。

その存在が何をもたらしているか、本書『ルポ塾歴社会』では述べられています。

詳しくは「続き」を!
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松永桂子『ローカル志向の時代 働き方、産業、経済を考えるヒント』

今年4月から、「私立高校教員」から「個人事業主」になる私。
ちょうど先日、札幌の税務署に「個人事業の開業届出」を出しに行きました。

そんな私にとって、【「個人事業主」こそが社会を変える!】的テーマで書かれた本書『ローカル志向の時代』はすごく面白い本でした。

 

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いま北海道・札幌市で4/7開業の塾設立に向けて動いています。

そんな私が勝手に「ロールモデル」としている人がいます。

それがイケダハヤトさん。

日本の元首相・池田勇人と名前がかぶるので、
あえてカタカナにしているプロブロガー。

 

イケダハヤトさんは、1986年生まれ。
早稲田大学政治経済学部2009年卒業。

私は1988年生まれ(早生まれ)で、
早稲田大学教育学部2010年卒業。

リアルに、同じ時期に、同じキャンパスにいたことになります。(密かな自慢)
(注 文学部を除く純粋文系の学部は、「西早稲田キャンパス」《現 早稲田キャンパス》にありました)

東京を捨てて「高知県」の「限界集落」に引っ越したイケダハヤトさんは、
教員時代から私のあこがれの人でした。

Z☆イケダハヤトさんの本の中でも、『新世代努力論』は「何を頑張るか」悩んだ時に役立つ本です。

私も、私立高校就職を機に東京を捨てて「北海道」に引っ越したからです。

 

いま私が住んでいる「札幌」を「地方」と言ってしまってもいいのかどうか微妙ですが、【北海道・札幌から日本の教育を面白く!】という私の目標にはゆらぎはありません(多分)。

イケダハヤトさんはじめ、「東京」以外の「地方」で活躍している若手がいまたくさんいます。

 コミュニティという言葉に敏感な世代の動きは多様化しています。農山村志向は象徴的ですが、地方であっても、都市であっても、下町であっても、顔が見える範囲でフラットな関係を築きたい、一方で、社会でなにかしら貢献したいという傾向は深まりをみせています。
あながち、「ローカル志向」を深めている背景は、ソーシャルネットワークによって支えられている部分が大きいといっても過言ではないでしょう。この世代はソーシャルネットワークを介して、ゆるやかなつながりを保とうとする傾向があります。自分の活動を孤独に遂行するというよりは、誰かに知ってもらいたい、共有したい、何らかのかたちで評価してもらいたいという気持ちがあります。そういうと大げさに聞こえますが、大なり小なり自らの活動の意義を確かめたいという動機、社会システムのなかで自分の立ち位置を明確にしたいという社会的欲求に支えられているようにみえます。
これは会社など組織への帰属意識が薄れ、個人と社会の距離感が近くなってきていることを意味します。これまで隔たりがあった個人と社会の距離感がぐっと近くなることによって、顔の見える範囲の社会といえる「地域」が存在感を高めてきています。(4-5)
☆アンダーラインは引用者です。

いまの時代、地域に根ざした「新たな自営」が存在感を高めています。

 いま「小商い」「ナリワイ」と呼ばれる「新たな自営」が存在感を高めつつあるのは興味深い現象です。これらは新技術・新分野の領域ではなく、従来型の産業の上にまたがる領域であるのが特徴です。前述のように、企業数は年20万人以上で推移しており、事業所数・企業数の減少率と比べるとその数は際立ちます。(64)

 

フリーランスとして地域で活動している人。
札幌にもたくさんいます。

本書にはそういった「新たな自営」として地域で生きるためのコツも書かれています。

地域や同業種のなかにゆるやかに帰属意識を持つことが大事になります。難しいことのようですが、経済原理は競争だけではなく、協調によっても成り立っていることを認識し、利益を追求しながら他者と共存を図るのです。
その際、同じような業種の仲間が近くにいるというのは案外、大事なことです。古今東西、歴史的にみても同業者集団が経済的にも、そして政治的にも社会のなかでプレゼンスを高めていく構図は見られます。同業者集団というのは内輪だけの理研獲得のイメージが先行しますが、危機の際にはリスクを分け合い、平準化する役割も果たします。(70-71)
アンダーラインは引用者。

地域で「新たな自営」としてやっていく以上、「同業者」とも連携することで出来ることは増えていきます。

ちょうど私も、札幌で塾をやっている人で始めた「一般社団法人Edu」に関わっています。
(なにげに「創設メンバー」です)

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「新たな自営」が1人ではできないことも、
グループで関わることでできることが広まります。

 

さて、本書『ローカル志向の時代』には「ローカル」での活動の例として波佐見焼(はさみやき)をとりあげます。

波佐見焼とは・・・。

長崎県東彼杵郡波佐見町が産地で日用食器の源流とされてきていましたが、現代的なシンプルなデザインが脚光を集めています。(・・・)
もともと、波佐見焼は長く隣町の有田に隠れた存在でした。高級志向の有田焼と異なり、波佐見焼は量産の日用品を得意としてきました。有田焼の生地作りや型起こしを担ってきた窯元も多く、伝統の技術に裏打ちされた商品スタイルの幅がひろいことが特徴です。(119-120)

私も使っていますが、軽くて薄くて使いやすい。
便利なお皿です。

9k=☆ものはら MONOHARA くらわんかコレクション ボウル 15cm 波佐見焼 15cm レッド

マルヒロでは地域おこしとしてアメリカのデザイナーと組んで「ものはら」ブランドを立ち上げるなど、古くて新しい価値を提供しています。

 

かつて「個人事業主」はダサい対象でした。
そこに「新しい自営」という新しい価値を与えるのが本書『ローカル志向の時代』です。

古くて新しい価値としての「新たな自営」。
私も札幌の塾経営を通し、実践したいと思っています。

 

 

本田由紀『教育の職業的意義』を読む。

今月3月末を持って、私立通信制高校を退職しました。
これからは「作文教室ゆう」「北海道学習塾ゆう」の主宰・塾長として、
これまでの経験をもとにさらに活動していこうと思っています。

そんな際に読んだのが『教育の職業的意義』。
ちょうど札幌で毎月やっている【読書会@札幌】というイベントで、今月26日に行ったのが本書でした。

2Q==

これまで「学校」と「会社」とのつながりをいうことは「タブー」でした。

「教育という神聖な営みに、会社というものを扱うのは間違っている!」(学校側)
「どうせ学校でやってることは役立たないから、会社でビシバシしごきますよ」(会社側)

これまでは両者は互いに敵視しあう関係でした。

日本の景気が良かった頃(産業構造が変化するまで)は上手くいっていました。
ですが今は社会が大きく変化し、これまで通りでは行かなくなりました。

だから、「キャリア教育を学校でやろう!」(学校側)、
「学校ではもっとコミュニケーション力やクリエイティビティを高める教育をやってもらいたい」(会社側)というように言われるようになっています。

それに対し、本田はこれら既存の方針に批判をします。

単にキャリア教育を行ったり、「コミュニケーション力」教育や「クリエイティビティ」教育(本田は「ハイパー・メリトクラシー」という形でまとめ、批判的に見ています)を行ったりするだけでは、結局は現状は何も変わらない、という指摘です。

そうではなく、いま一度「教育の職業的意義」を考え直し、
「教育」と「職業」とのリンクをもっと強固にすることを指摘しています。

方針として本田は「柔軟な専門性」という概念を挙げます。

それゆえ教育の職業的意義は、のちのちの知識やスキルの伸長・更新・転換を見込んで構想・設計される必要がある。すなわち、特定の個別の職種にしか適用できないような、がちがちに凝り固まった教育ではなく、ある専門分野における根本的・原理的な考え方や専門倫理、あるいはその分野のこれまでの歴史や現在の問題点、将来の課題などをも俯瞰的に相対化して把握することができるような教育である。それは、一定の専門的輪郭を備えていると同時に、柔軟な発展可能性に開かれているような教育である。本書は、このような意味での教育の職業的意義を表現するために、「柔軟な専門性(flexpeciality)」という概念を提唱する。(14)

例えば、福祉についての専門知を学んでいると介護職につかなくても様々な点で役立てていくことができます。
(看護の現場での高齢者との関わり方や接客業で高齢者と関わる時など)

単にその仕事でしか役立たない専門知を学校で教えてしまうと、
もったいない結果となってしまうことがあります。
その上で、本田は企業経営者が若者に会社への〈適応〉のみを求める視点に疑問詞をしています。

現在の若者には単なる企業への〈適応〉のみではなく、〈抵抗〉の仕方にも教育していくことを主張します。

ここで記述されているような「労働法の基本的な構造や考え方」および「職業選択や就職活動に必要な事項」は、適切な〈抵抗〉のための教育の必須条件と言える。(202)

本書の最後で、本田は「なぜ『教育の職業的意義』という本を書いたか」という問題意識を綴っています。

現在の日本社会では、教育を受けるには個人や家庭が多大な費用を負担しなければならず、かつ受けた教育がその後の生活のたつきを築く上でいかなる意味があるのか不明である場合が多く、それにもかかわらず教育が欠如していることはさまざまな不利を個人にもたらす。しかも、教育から外の社会や労働市場に出れば、ある程度安定した収入や働き方をどうすれば獲得できるかの方途も不明であり、一度不安定なルートに踏み込めば、その後の挽回の機会は著しく制約される。度を越しての過重な仕事、あまりに賃金の低い仕事にはまりこむ危険の高さは、まるでおびただしく地雷の埋まった野原を素足で歩いていかなければならない状態と似ている。(214)

だからこそ「教育の職業的意義」を捉え直す発想の主張へのつながっていくようです。

 

・・・ただ、思うのは「教育」で人の職業キャリアや「生き方」まで本当に伝える事ができるのか、ということです。

学校で「柔軟な専門性」を学んでも、
それを活かしていけるかどうかはその生徒次第です。

学校で学んできたことを確実に/したたかに使っていける生徒をどこまで育てられるか?

そのためには、ある程度の「社会経験」も必要な気がします。

努力する人間になってはいけない』には、専門学校生と大学生の違いとして「コミュニケーション力」をあげています。

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「専門知」を集中的に学ぶ専門学校生に対し、
大学生はそもそも勉強をせずアルバイト/サークルで「社会経験」「コミュニケーション」を積んでいます。

その結果、就職の面接で「遊んでいた」大学生が「コミュニケーション力」を発揮して受かってしまうことを嘆いています

学校側が努力するのはもちろんです。
その上で、学び手たる生徒が「職業」を選択し、
〈適応〉と〈抵抗〉の手段を身に着けていくことが重要になってくるでしょう。

 

・・・「高校教員」を辞めた後だからでしょうか、
やたらと響いてくる本でした。