書評

アメリカのヒーロー、日本のヒーロー〜藤野英人, 2013, 『投資家が「お金」よりも大切にしていること』星海社新書.①〜

アメリカ映画にはヒーロー物の伝統がある。
バッドマン、アイアンマン、サンダーバードなどなど。

これらは基本的にマンガのヒーローを映画化したものだ。
ちなみに、これらのヒーローの特徴はなんだろう?

バッドマンはウェインカンパニーの社長の御曹司。
大金持ちのいわば余暇として、人助けをしていく。

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サンダーバードは土木建設事業で一旗揚げた一家の慈善事業。
資産をもとに自分の家族を訓練し、世界中のトラブル解決を目指す。
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チャーリーズ・エンジェルのチャーリーは実業家の大富豪。
「チャーリーがスポンサーになって、3人の女の子(エンジェル)たちを支援し」(52頁)、事件を解決していく。

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アメリカのヒーローたちは、基本的に「民間人」なのです。それも、事業を成功させてお金持ちになった実業家が多い。(52頁)

では、日本では?

日本のヒーローといえば?
ウルトラマンや◯◯レンジャー、などなど。

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 一方、日本の場合はどうでしょうか?
同じように日本のヒーローを思い描いていただければわかると思いますが、面白いことに、そのほとんどが「公務員」なんですね。
たとえば、ウルトラマンの科学特捜隊は、国際科学警察機構の下部組織で、パリに支部があり日本に支部がある公の期間です。
ウルトラマン自身も、宇宙警備隊員ですね。(54頁)

日本人の場合、ヒーローは公務員。
それは「「なぜ国がやらない!」と怒り出すのが日本人」(70頁)である証拠かもしれない。

テレビや映画から生まれた日本のヒーローは、ほとんどが公務員です。実業家や大富豪が世の中の悪を倒す、みたいなものは、ほとんどありません。(55頁)

NPOやNGOのやることに「うさんくささ」を感じるのが日本人。

でも、昔はそうでなかったはず。

たとえば角倉了以は私費を投げ打って運河や河川の整備を行ったヒーロー。
いつからかヒーローは国などが公務員として働くもの、というイメージが付いてしまっている。

注 ◯◯レンジャーのシリーズには、国の秘密組織などの前提で作られたものもあれば、太古からの守護神の化身、というものもある。しかし、そのへんの大金持ちが私費で運営しているような◯◯レンジャーシリーズは存在していない(と思います)。

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見田宗介『現代社会の理論』読書会を終えて・・・

本日5/23(土)、『現代社会の理論』読書会を実施。

東大社会学で長らく日本の社会学を引っ張り続けてきた見田宗介(みた・むねすけ)。

その1996年の著書『現代社会の理論』は、素朴な情報化社会賛美も見られるが、「消費社会」を乗り越える方向性を示す点で得るものの多いものだった。

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見田宗介の本は、論理一本槍ではなく、ところどころに「詩的」部分が存在する。




「ちょっといいこと」を言っているのだが、そこがグッとくる。
東大社会学の見田門下生が見田を慕うのも、なんとなく分かる(ような気がしてくる)。

 生きることが一切の価値の基礎として疑われることがないのは、つまり「必要」ということが、原的な第一義として設定されて疑われることがないのは、一般に生きるということが、どんな生でも、最も単純な歓びの源泉であるからである。語られず、意識されるということさえなくても、ただ友だちといっしょに笑うこと、好きな異性といっしょにいるということ、子供たちの顔をみること、朝の大気の中を歩くこと、陽光や風に身体をさらすこと、こういう単純なエクスタシーの微粒子たちの中に、どんな生活水準の生も、生でないものの内には見出すことのできない歓びを感受しているからである。このような直接的な歓喜がないなら、生きることが死ぬことよりもよいという根拠はなくなる。
どんな不幸な人間も、どんな幸福を味わいつくした人間も、なお一般には生きることへの欲望を失うことがないのは、生きていることの基底倍音のごと歓びの生地を失っていないからである。あるいはその期待を失っていないからである。(141)

こういうことをサラッと、理論文の中で言ってのける。
そこに私は「グッ」ときてしまう。

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問題解決型学習(PBL)とは、何か?

問題解決型学習、通称PBL
オリジナルはProject Based Learning。

教育業界の悪い癖で、教育関係者は何事も「大げさ」に言ってしまう。

プロジェクト学習や問題解決型学習というと、
なんだか「すごそう」な問題を解くイメージがある。




例)「環境問題の解決!」

例2)「貧困の撲滅!〜いま私たちにできること」 などなど。

 
・・・しかし、デューイが言ったような意味の問題解決型学習はもっと単純。
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例)「今日の晩ごはんは、カレーか肉じゃがか、どっちにしよう?」

例2)「お腹痛い・・・。きょう学校行こうか、行かないか、どうしよう?」

 

・・・どちらの例も、ある意味「しょうもない」。
しかし、まぎれもなく、「どちらにするか」という問題を解いている

その意味でまぎれもない「問題解決型学習」なのだ。

 

・・・こんな話を、大学院で教授から教えてもらった。
それ以来、おおげさでなく、日常の延長でできる問題解決型学習について、思いを馳せるようになった。

 1976年に設立されたマーストリヒト大学は、設立当初から、独自に「問題解決型学習方式(PBL方式)」を取り入れてきた大学です。このPBL方式は、採用後30年を経た現在、国内外の大学からも注目されています。(…)
PBL方式は、学生の〈自立性〉〈起業精神〉〈問題解決への指向性〉を養うことを目的とするものだと大学は説明しています。
大学生たちは、入学後すぐに10人未満の小グループで共同学習を始めます。それぞれの科目では指導段階ごとに、学生たちが〈問題解決〉研究に取り組むためのきっかけとなる事例がいくつも用意されています。この事例というのは、私生活の中で、あるいは、学生たちが将来就く仕事の現場で生じると考えられる様々な問題の場面や状況を設定、表記したものです。この事例の中に示された問題を解決するために、学習中の科目の知識を駆使して、小グループのディスカッションのなかでブレーンストーミング(創造的集団思考法)をし、問題となる店を絞り、それを元にして自主研究をしていきます。
小グループのディスカッションには、それぞれチューターと呼ばれる指導者がついており、学生たちのグループ討議のプロセスを監視し、討議の進む方向やレベルによっては、必要に応じてコメントを加えます。(リヒテルズ直子, 2006, 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか』平凡社.52頁)

 

ポイントは「学習中の科目の知識を駆使して」という部分。
こういうと、さも「いま学んでいることを、問題解決に役立てているなんてスゴイ!」と思ってしまう。





でも、考えてみたら、それはある意味「あたりまえ」の話。

 

新聞を読んでいて、よく知らないニュースが出てきた場合、私達はどうするか?

普通は「きっとこんなことだろう」と推測をする。

・・・これはこれまでに学んできたこと・学んでいる途中のことをもとに推測をすることにほかならないのではないか?

 

つまり、「学習中の科目の知識を駆使して」とは、社会経験の中で得られた知識・経験を総動員して、「よくわからないニュースを解釈する」行為それ自体を指すのではないか?

 

こう考えた場合、「問題解決型学習(PBL)」というのは、「なんかスゴそう」な教育とは言えなくなる。

 

むしろ生きること自体が問題解決学習なのだ。

 

ふつうに生き、ふつうにものごとを考えていたら、それがそのまま問題解決型学習になるに決まっている。

そうならないからこそ、「ふつうの」学校教育は終わっているわけである。

2Q==

 

こちらもどうぞ!

  1. 佐々木常夫, 2010, 『働く君に贈る25の言葉』WAVE出版.①(3)
  2. 『ヒーローを待っていても世界は変わらない』? (3)
  3. 中高生が「ちくまプリマー新書」を投げ出すのは、どんな時か? (3)
  4. おおたとしまさ『ルポ塾歴社会 日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体』③ (3)
  5. 【お知らせ】ポストモダン思想が分かりやすく学べる『高校生と語るポストモダン』販売中です! (2)

ジョン・テイラー・ガット, 2006, 『バカをつくる学校』成甲書房①

もともと、私は「脱学校論」をずーっと研究していた。
そのため、「学校批判」「教育批判」系の本は昔から大好きだった。

本書『バカをつくる学校』も、そんな理由で読んでいて楽しくなる本の一つ。

 私の考えを理論的、あるいは比喩的に表現すれば、教育は「油絵」よりも「彫刻」に似ている。つまり、油絵では、キャンパスに絵の具という素材を「加える」ことでイメージが生まれるが、彫刻では、素材を「削る」ことによって、石の中に閉じ込められたイメージが浮かび上がる。ここに決定的な違いがある。
私は自分の専門知識を子どもに押しつけるのをやめた。その代わりに、彼らの本来の才能を邪魔しているものを取り除こうとした。私にとって、教師の仕事は、もはや教室で生徒に知識を授けることではなくなった。学校は今もその無益な教育方針を続けているが、私はこうした教育の伝統をできるだけ打ち破り、生徒ひとりひとりの可能性を引き出そうとした。(15)

私たちが「教育」と呼んでいるものは、じつは世界最大のビジネスの一つであり、そこには伝統的な地域社会の価値観とは相容れない、制度の価値観がある。この百五十年間、学校の主な目的は、子どもたちに経済的成功のための準備をさせることだった。(129)

学校は巨大なメカニズムとして、人びとを全面的な管理に従わせ、死ぬまで幼稚でいさせようとする。彼らが必要とするのは未熟な人間だ。なぜなら、成熟した人間や成熟しようとする人間は、そうした管理を拒むからである。「品質」であれ何であれ、全面的な管理の下では、人は成長できない。しかし、大量生産経済を維持するためなら、どんなことも許されるのだ。(174)

この手の本は、「制度」の裏側を暴露している意味で面白い。
しかし、ある意味「禁じ手」でもあり、欺瞞的でもある。

「制度」の裏側を示している自分は、「制度」側の人間ではないよ。
自分は「制度」に絡め取られず、自分の意志を貫いているヒーローだよ。

なぜかしら、そのような色がついてしまうのが気になるところである。

 

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Gatto, John Taylor, 2005, “Dumbing Us Down–The Hidden Curriculum of Compulsory Schooling”, New Society Publishrers.

張燕, 2014, 『ジャック・マー アリババの経営哲学』ディスカバー・トゥエンティワン①

 

売っていないものはない、といわれるサイト・アリババ

その創業者ジャック・マー(馬雲)の一代記。
わりと名言の多い本だし、経営者の「哲学」のよく現れた本である。

「強欲資本主義」が中国では多く立ち現れていることを危惧する声が多いが(井沢元彦『逆説の世界史1』など)、そんな人ばかりではないことを伝えている本である。

成功とは、どれだけやったかではなく、何をやったかである。(35)

 

怠けるといっても、ただ怠けるのではない。仕事を減らしたければ、怠ける方法を考え出すことだ。怠けることを極めれば、怠けの境地に達する。私のように子供の頃から怠けていれば、太ることさえ面倒になる。それが境地というものだ。(38)

 

「理想を持ったときに、一番大切なことは自分に約束をすることだと思う。必ずやり遂げてみせると自分に約束するのだ。あれが足りない、この条件がない、その条件も揃っていないと考えている起業家も多い。ではいったいどうすればいいのだろうか。起業家に最も大切なのは、創造的な環境だ。機が完全に熟すころには、私たちには順番は回ってこない。人々が絶好の機会だと思っていても、もうチャンスは失われている。必ずできると信じ、自分に約束する。5年、10年、20年かけてでもやってのけると覚悟すれば、ずっと歩き続けていられるはずだ」(53)

 

「最初の日の理想を絶対に忘れるな。その夢は世界で最も偉大なものだから」
馬雲はそう自分に言い聞かせ、そのプラスにエネルギーを傍らにいる人に伝えているのだ。(55)

 

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見田宗介『現代社会の理論−情報化・消費化社会の現在と未来−』(岩波新書)

インターネットが一般に普及したのは1995年。
この年はWindows95が発売され、一般家庭にようやくインターネットの存在が知られるようになった頃である。

それ以前の「パソコン通信」時代に比べると、使いやすさ・利便性が格段に変化した時である。

インターネットの可能性と恐怖を扱った映画『ザ・インターネット』も、1995年の上映。
この時代は、専門家のものだったインターネットが「ふつうの人」に扱えるようになったギリギリの時代である。

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本書『現代社会の理論』は、1996年の出版。

インターネットによる情報革命の初期の著作である。

そのため、素朴な形での「情報化社会」の可能性を描いている。
それがいまの我々からすると逆に新鮮である。

見田宗介は現代の社会はガルブレイスのいう「ゆたかな社会」となった、と言及する。
「ゆたかな社会」はこれまでの消費社会のあり方とは異なる。
「喰うものがないから喰う」「着るものがないから服を買う」のではなく、「流行り(=モード)だから服を買う」という消費社会である。

この社会では、常にモノを生産し続けることとなり、地球の有限な資源がどんどん消費されていく。
経済成長とはいうものの、資源がなくなっていく点で「成長の限界」を迎えることとなる。

見田宗介は、資源を消費する「モノ」ではなく、「情報」に注目する。
情報により、人間がミニマムに幸せを実感できる社会として「情報化社会」を想像しているのである。

 子どもは成長しなければならないけれども、成長したあとも成長が止まらないことは危|険な兆候であり、無限に成長しつづけることは奇形にほかならない。まして成長しつづけなければ生存しつづけられないという体質は、死に至る病というほかはない。
成長したあとも成長しつづけることが健康なのは、「非物質的」な諸次元−−知性や感性や魂の深さのような次元だけである。社会というシステムに対応を求めるならば、この広義の〈情報〉の領域というコンセプトによって、今日とりあえずその名を与えられている諸次元だけである。「情報化社会」の理論のうちのこの大きい射程をもった発想がわれわれの前に開いているのは、社会のシステムの、〈成長のあとの成長〉の可能性についての、このような見晴らしであるように思われる。(162-163)

 

「成長のあとの成長」の鍵が情報化社会である。
実際、見田の主張はこのあとの「IT革命」「携帯電話・スマホの普及」によって一部達成している。

「情報化」により、例えばネットからの収益で生活をできる人びと(アフィリエイター、デイトレーダーなども含む)を生み出したのは、まさにその一例である。

でも、それでよかったの?
見田の主張は、情報化により人間の「幸福」が達成される点を指摘している。
現実にインターネットは人に「幸福」を実感できるようにしたのだろうか?

本書のラストにおいて見田は物質的(マテリアル)なものに付随する「消費」を、「情報化」が乗り越えていき、物質的豊かさを超えた豊かさを我々に与えてくれる可能性を示唆する。

 「情報化社会」というシステムと思想に正しさの根拠があるのは、それがわれわれを、マテリアルな消費に依存する価値と幸福のイメージから自由にしてくれる限りにおいてであった。〈情報〉のコンセプトを徹底してゆけば、それはわれわれを、あらゆる種類の物質主義的な幸福の彼方にあるものに向かって解き放ってくれる。
けれども消費の観念は未だ、現在のところ、情報というコンセプトの透徹がわれわれを解き放ってくれる以前の、マテリアルな消費に依存する幸福のイメージに拘束されている。
われわれはなお〈情報化/消費化社会〉の、過渡的な、矛盾にみちた入口に立っている|ということができる。(170-171)

見田の夢見た「情報化社会」は、IT革命・スマホなどにより、すでに到来している。
しかし、物質的な「消費」の次元は未だに超えられていない。

逆に言えば、見田のいう「情報化社会」は未だに到達していない「見果てぬ夢」ということができる。

IT革命もWeb2.0も死語になった現在。
今一度見田の「夢」を見ていくことに、情報化社会の次なるヒントがあるかも知れない。Z

『ヒーローを待っていても世界は変わらない』?

ヒーローって、なんだろう?
ウルトラマン?
仮面ライダー?
それとも007のジェームス・ボンド、
あるいは大阪の橋下市長?

本日3/21(土)、「読書会@札幌-帯広」にて、
反貧困ネットワークの湯浅誠氏の『ヒーローを待っていても世界は変わらない』読書会を開催しました。

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>本書についての私の書評はこちら

さて、今回の読書会の議論をまとめた部分が以下に当たります。

読書会の大きなテーマは「これからの市民活動のあり方とは?」。

大きくわけて2つの立場が出ました。

(A)自分たちのために社会を変えていく組織・団体をイチから作るパターン

(B)既存の組織で活動をしていくパターン

(A)は、例えば湯浅誠氏の反貧困ネットワークやこの日本ノマド・エジュケーション協会のように、「なにもないところから」「ゼロベースで」作っていった組織のこと。
ここには今回のような読書会のほか、自発的なボランティアなどが入ります。

(A)の立場はラクでなおかつ楽しいこと。
(B)と違い、「〜〜月には・・・をしないといけない」というのが無い。
なおかつ、自分たちの好きでできる。

その一方、自分に全く関係を感じられない人、言ってしまえば社会的弱者に活動が届かない。

一方、(B)の立場には町内会や行政組織、学校のPTAなど、歴史と伝統あふれる組織が当てはまる。

ある意味、企業で働くのも(B)のパターン。

(B)は決まり事だらけ。
やりたくないこともたくさんある。

でも。
昔からあるし、歴史と伝統、そして信頼があるため、社会的弱者にも届きやすい。

誰かが「やらなけれればならない」からこそ、本当に助けが必要な人に届く。

その代わり、「やらなけれればならない」と決まっていることをわざわざやるのは、いくら社会貢献のためとはいえツラいし楽しくない。

(B)の立場を取る人が「楽しい」と思える仕組みづくりが必要でしょう。

例)PTA会長になると、「入学式でスピーチしてください」がよく来るが、それを言い訳に学校にいき、いろんな教員と関わり、学校の様子が分かる、等。

私は昔から、(B)の立場に何の魅力も感じていない。
どうせなら、「必要とされそうなことをイチからやっていく!」ほうが楽しい。

でも、この場合、「必要とされそうなこと」が、本当に「必要とされそうな人」に届かない場合がある。

難しい。

だからこそ、市民活動には(A)のものも(B)のものも必要なのでしょう。

でも私はやっぱり(A)がいいなあ。

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田中ちひろ, 2013, 『悩みの9割を消す技術』ダイヤモンド社。

悩むことの多い人生。

悩む人がたくさんいる分、「悩み事相談」「悩みを乗り越える」本はたくさんある。

結構、その手の本を読んできた私であるが、あまりグッと来る本に出会ったことは少ない。
大体は「悩みがあるのは自然なこと」「悩みを成長に向けよう」という精神論ばかり。
それでも役だったのはフランスの哲学者・アランの『幸福論』。
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アランは〈いますぐ、ここで、「幸せになる」という決意をしなさい〉という。
「幸せになろう」と思わないと、幸せになれない。
悩みも、悩んで役立たない悩みなら悩むな、という発想を提唱する。
不幸になるのは間違った考え方だ、ということ。
ならば不幸につながる悩みは悩まないほうがいい。
アランは悩みに向かう姿勢としてすごく役立った。
しかし。
何をもって「間違った考え方」というかは、アランは言っていない。
悩みの乗り越え方の根本的な方法を、アランは教えてくれないのだ。
本書『悩みの9割を消す技術』は、アランに欠ける部分を埋めてくれる良書。
「悩みの9割」は人間関係から生じている。
人間関係はコミュニケーション不全から生じる。
だから、コミュニケーションについて学べば「悩みの9割」は「消える」のだ。
 
13ページの「人間の脳の「5つの思考レベル」」の表には、本書のエッセンスがすべて詰まっている。
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基本的に、人間の悩みや苦悩は、相手の発言の「取り違い」から生じている。
 
例えば、テストの点数の悪かった子どもに、
君はこんな問題も出来ないのか」という言い方をしたとする(私はいいません、念のため)。
親や教員としては、ただ「このテストの、この簡単な問題をミスしているのだから、もっと基本を勉強しなさい」という意図で言っている。
13ページの表で言う「行動」のレベルの話である。
相手が単に問題を解けていないという「行動」に即して話している。




しかし。
子どもはそうは思わない。
自分の「アイデンティティ(個性)」が否定された、と感じてしまう。
つまり、自分の全存在が否定された、と感じてしまうのだ
 
親や教員は決して全存在を否定しようとしていないにもかかわらず、である。
特に「日本語は、文法的に「相手自身のこと」を指示してしまう傾向がある」(50)からこそ、このズレは頻繁に起こる。
他者から見えるのは、この表の「環境」のレベルと「行動」のレベルの2つだけ。
基本的に相手からなにか言われる時は、「環境」と「行動」についてしか言われない。

「やる気があるのか!」という言葉は、本当にやる気という思いがないからいう言葉ではない。

ダラダラしている「行動」や、ゴミが周囲に散らかっているという「環境」についてを見て行っているだけである。
だって、「やる気」という心の動きは目には見えないのだから。
 
「やる気があるのか!」と言われた時の正しい対処は、
「やる気あるよ!」という言い返しでもなく、
「ああ、怒られた・・・」というアイデンティティ(個性)の落ち込みでもなく、
「自分のどの行動や、自分の周りのどの環境が〈やる気があるのか!〉といわれる原因になったか、考えよう。わからないなら質問しよう」という気づきをすることである。
 
このように、他者からの批判・注意・指摘はすべて自分のアイデンティティ(個性)のことを言っているのでも、
価値観について言っているのでも、技術やノウハウについて言っているのでも、無い。




このことに気づいてから、急に生きるのが楽になった気がする。
それくらいこの本はすごく役に立つ。
人によっては辞表を撤回したり、自死を思いとどまったりするほどの効果を持つ。
あ、そうか。あの発言は別にオレの人間性を否定していたんじゃないんだ!
この気付きは、実は本当に役立つものだった。
追記
しかし、私はこの本よりも、同タイトルのDVDの方が役立った。
TSUTAYAだと100円もしないで借りれるが、本当にグッと来た。
動画の中で筆者に語ってもらうほうが、感動もひとしおとなった。

湯浅誠, 2012, 『ヒーローを待っていても世界は変わらない』朝日新聞出版。

タイトル自体が名言、と言える本はいくつかある。

『さおだけ屋はなぜ潰れないか』にはじまる、問いかけ系の新書や、
「今でしょ!」のあの本など、いろいろ。

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考えれば、夏目漱石の『吾輩は猫である』なんて、冒頭一文をそのまま持ってきたものでありながら、知名度が高い表題である。

本書も、そんなタイトルが名言な本の一つ。

政治の世界においての「ヒーロー待望論」は、実は民主主義という制度の根本的な廃棄につながる。
そのことが、かえって少数者(ホームレス・貧困etc)の権利を損ねるのではないか?

本書はそれを問いかける。

民主主義というのは面倒くさいものだ。そして疲れるものだ。その事実を直視することから始めよう、というのが本書の提案だ。(4)

 

「強いリーダーシップ」を発揮してくれるヒーローを待ち望む心理は、きわめて面倒くさくて、うんざりして、そのうえ疲れるという民主主義というシステムを、私たちが引き受けきれなくなってきている証ではないかと、私は感じています。(68)

だから、「ヒーローを待っていても世界は変わらない」。
利害調整をしながら少しずつ活動していくか、ない。

その際に必要なのは、「〜〜が悪い!」などと声高に叫ぶのではなく、相手に通じる言葉で話しかけること。

自分の言いたいことを言うだけでは決してこの人たちには通じない。この人にも通じる言葉とはどんな言葉だろうか。自分に、自分と同じ経験、同じ土台を持たないこの人を説得できる言葉はあるだろうか。なければ編み出していかないといけない。そう考えると、その人が目の前にいる現実は、自分にチャレ|ンジを課している、と感じられました。(11-12)

 

U理論同様、「他人の目玉」で物を見る、ということが社会活動の基本。
「他人の目玉」という「外部」を織り込んだ、地道な活動が求められている。

戦後になって、日本では「国民主権」となった。
「国民主権」とは、国のあり方を最終的に決める権限は「国民」にある、ということ。

逆に言うと、「国民」である以上、決定をしなければならないということ。
仕事や介護でヘトヘトな人も、決定を求められる。

そんなとき、余裕の無さから橋下徹大阪市長のようなヒーローを人びとは求める。
代わりに決めてくれる人として。

しかし、真の社会の豊かさは「こんなこともあるよね」「こうもいえるよね」という、工夫や対話を繰り広げるところから生まれていく。

 より多くの人たちが相手との接点を見出すことに注力する社会では、自分たちで調整し、納得し、合意形成に至ることが、何よりも自分たちの力量の表れと認識されるようになります。
意見の異なる人との対話こそを面白く感じ、同じ意見を聞いても物足りなく感じます。同じ意見にうなずきあっていても、それを超える創造性あは発揮されないからです。
難しい課題に突き当たるほど、人びとはその難しさを乗り越える工夫と仕掛けの開発に熱意を燃やし、それを楽しく感じます。創意工夫の開発合戦が起こり、創造性が最大限に発揮される社会です。私たちは「こんな面白いことを誰かに任せるなんて、なんてもったいない」と感じるでしょう。(155)

だからこそ、本書のラストは印象的。

 ヒーローを待っていても、世界は変わらない。誰かを悪者に仕立て上げるだけでは、世界は良くならない。
ヒーローは私たち。なぜなら私たちが主権者だから。
私たちにできることはたくさんあります。それをやりましょう。
その積み重ねだけが、社会を豊かにします。(156)

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追記

本書は、本当に貧しくて、時間を割けなくて、なおかつ生きるのが困難な人に目を向けた上での市民活動でなければ意味が無い、というような視点が強い。
この視点、私には欠けていたものだったので、参考になった。

佐々木常夫, 2010, 『働く君に贈る25の言葉』WAVE出版.①

久しぶりに、心が震えるビジネス書を読んだ。
それが本書『働く君に贈る25の言葉』。

そうか、君は課長になったのか』の著者で、
東レの取締役を務めた佐々木氏の著書。

この人の話、私はDVDで見たことがあるけれど、
それはそれはすごい人。

 

息子さんが自閉症で、奥さんが鬱病+自殺未遂数度。
仕事でも忙しい部署の部長。
しかも、家族が東京にいるのに、大阪勤務
毎週、関東に戻り、家事をやり、月曜には大阪に出勤。
もう、「考えたくない」生活。

 

私の人生にも、苦しい時がありました。
覚悟を揺るがせるような試練が、次々と襲い掛かったのです。
長男の俊輔は自閉症という障害をもって生まれました。自閉症とは先天的なもので、育て方で治るものではありません。私たち夫婦は、ほとんど毎日のように、彼をサポートするために走り回らなければなりませんでした。(・・・)|
さらに、試練は訪れました。
妻の浩子が肝臓病を患い入退院を繰り返すようになったのです。しかも、俊輔にまつわる心労に加え、自分の病気のために家族に負担をかけていることを気に病んだことから、うつ病を併発するに至りました。
この間、会社ではまるで私の力を試すかのように、さまざまな部署への転勤が繰り返され、東京と大阪を6度も移動せざるをえませんでした。
妻のうつ病がひどかった時機には、経営企画室長という重責を担っていました。経営と現場の結節点に位置する要の役職でしたが、何人もの役員を上司とする立場でしたから、極めて大きなストレスを私に強いるものでもありました。
ときに叫び出したいような思いを抱えながらも、私は家族と仕事を両立させるために必死の思いで耐えていました。




しかし、決定的な出来事が起こります。
3度に及ぶ妻の自殺未遂です。
3回目のときは、もしも娘がたまたま発見しなけれな、妻は命を落としていたでしょう。(・・・)|

この直後の私はほとんど限界に来ていました。「何のためにこんなに苦労しているのか」と思い、「これはいったい何なのだ」「私の人生はどうなっているんだ」と、ほとんど自暴自棄の気持ちでした。
それでも、朝は訪れ、夜は来ます。私の気持ちも、少しずつ落ち着きを取り戻していきました。そして妻が、「ごめんな、お父さん、迷惑ばかりかけて」と心底情けなさそうに言うのを聞いて、「いちばん苦しんでいるのは彼女だろう。私ではない」と思い至ったのです。
「何のためにこんな苦労をしているのか」といった「何のため」という問題ではないのだ。要は、自分が出会った人生であり、自分が選んだ人生なのだ。それは運命として引き受けるしかない。恨んでも愚痴を言っても、事態は変わらないのだ−−。
私は、そう自分にいい聞かせて、再び人生に立ち向かう気力を取りも出したのです。(175-177頁)

 

その結果、奥さんから
この人からは、親よりも深い愛情をいただきました」(178頁)と言ってもらえるに至る。
この一言が、どれだけ嬉しかったことか」(178頁)。

 

いつも思い出すのは、「運命は引き受けよう」と言って微笑む母の姿です。26歳で未亡人になって、男4人兄弟を育てるために働きづめに働いた母です。しかし、母は愚痴を言うことなく、どんなときでもニコニコ笑っていました。
母は、いつも私の心の中にいました。そして、こう語りかけてくれたのです。|
運命を引き受けて、その中でがんばろうね。
がんばっても結果が出ないかもしれない。
だけど、頑張らなければ何も生まれないじゃないのー。(178-179頁)

 

不覚にも、涙してしまったところです。
運命を引き受けることこそ、生きるということなのです」(179頁)の名言は、いつまでも覚えていたいと思っています。

特にいいのは、『それでもなお、人を愛しなさい』からの引用部分。
孫引きですが、これは名言です。

1 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しなさい。

2 何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。それでもなお、良いことをしなさい。

3 成功すれば、嘘の友達と本物の敵を得ることになる。それでもなお、成功をしなさい。

4 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。それでもなお、良いことをしなさい。

5 正直で素直なあり方はあなたを無防備にするだろう。それでもなお、正直で素直なあなたでいなさい。

6 最大の考えをもった、もっとも大きな男女は、最小の心をもった、もっとも小さな男女によって打ち落とされるかもしれない。それでもなお、大きな考えをもちなさい。

7 人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていかない。それでもなお、弱者のために戦いなさい。

8 何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。それでもなお、築き上げなさい。

9 人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。それでもなお、人を助けなさい。

10 世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちをうけるかもしれない。それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。(39-40頁)

 

しみじみ、ジーンとくる。

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