イケダハヤト, 2014,『新世代努力論』朝日新聞出版.
「まず理解していただきたいいのは、「努力すれば報われる」という考え方は、根本的に傲慢だということです。ぼくらはそんなにパワフルではありませんし、社会はもっと複雑なのです。」(28)
「ぼくがオススメするのは、誰かが失敗しているのを見たとき、または、自分が失敗してしまったとき、「単に運が悪かっただけだ」と諦めることです。一見無気力な考え方のようですが、これは自分にも他人にもやさしくなれる考え方です。」(100)「あなたがしている努力がもしも我慢や犠牲を伴うものなら、そんな努力からはさっさと手を引くべきです。なぜか。第一に、あなたはその努力をすればするほど、自分に甘くなっていくからです。」(104)「第二に、あなたは努力をすればするほど、他人に厳しくなっていきます。」(105)
「自他を犠牲にしない健全な成功というものは、いつでも「楽しんだ結果」として、いつの間にか成し遂げるものなんだと思います。努力して努力して、すべてを犠牲にしてようやく成功した・・・・・という話を人々は好みますが、そういうやり方だと、成功しなかったときに絶望的になってしまいます。たとえうまくいかなかったとしても「ま、やってて楽しいしそれでいいや」と割り切れるようになるのが、これからの時代の健全な努力なのです。」(120)
携帯電話を石器と交換してみた。
楠木建, 2010, 『ストーリーとしての競争戦略 優れた戦略の条件』東洋経済新報社.
私は教員として「初めて」自分なりに考えた作文指導のやり方がある。
それは「ストーリーを入れること」である。
基本的にこれは進路指導にも当てはめている。
就職の面接も、
進学のための小論文も、
すべて「自分」という人物(=会社にとっては「商品」)を伝えるためのメディアにすぎない。
そのメディアにあらわすメッセージこそ、
「ストーリー」である。
・・・自分なりには「大発見」。
でも、陳腐な内容だろうなあ(大体の発見も、「コロンブスの卵」であると補足したい)。
本書を2800円出して買ったのも、ひとえにこの「自分なりの発見」がもとになっている。
ストーリーこそ、人を動かすし、社会的成功につながる(=会社の反映)。
それを感じているのである。
本書の前半は「ストーリーとしての競争戦略の大事さ」を言うことに終始する。
これは単に「経営にとってストーリーが大切だよね―」というミーハーな内容では、ない。
論理的・具体的な話を盛り込みつつ、競争戦略をきちんと「ストーリー」の形で打ち出すことの大事さを伝えているのである。
よくある失敗としての「目標を戦略としてしまう」ことの問題点も書いている。
「戦略の実行にとって大切なのは、数字よりも筋のよいストーリーです。(・・・)ストーリーという戦略の本質を考えると、筋の良いストーリーをつくり、それを組織に浸透させ、戦略の実行にかかわる人々を鼓舞させる力は、リーダーシップの最重要な条件としてもっと注目されてしかるべきだというのが私の意見です。」(52-53)
企業の経営戦略は、残念ながら末端まであまり浸透しない。
だから戦略を司るストーリーを組織の末端まで「ビジョン」として伝えるのが必要、との議論である。
そのストーリーは自体で他社よりも優位に立てる戦略である必要がある。
その際は顧客価値に気を配るのが大事だ。
「本質的な顧客価値を突き詰めるとは、「誰が、なぜ喜ぶのか」をリアルにイメージするということです。」「戦略ストーリーが動画である以上、その起点にあたる顧客勝ちも動画で構想されなくてはなりません。その言葉を聞いたときに、ターゲット顧客を主人公にした動画のシーンが見えてくるようなコンセプトでなければ、ストーリーの発火点にはならないのです。」(253)
本書は何度も、スタバが「禁煙」「長くいてもOK」と、喫茶店の常識を覆したり、
ガリバーが「中古車買取専門店」を名乗り、自社での小売を重視しなかったりというような、
業界人から見てバカ、と思える戦略が結果的に成功したという点を書いている。
これらに共通するのは「部分の非合理を全体の合理性に転化する」(346)点にある。
スタバは単に「コーヒーを提供する店」という戦略を立ててはいなかった。
忙しい現代人に「第三の居場所」を提供することを重視していた。
ガリバーは単なる街の「買い取って、それを店先で売る」中古車屋ではなかった。
中古の車を速やかに市場に出し、車を売るときに感じるうさんくささを払拭するという戦略を立てていた。
(作者は実際に複数のガリバーに愛車を持って行き、見積もりを取った。すると全く同じ金額になった、という。こういう「一見バカげている」ことを普通にやる研究者、尊敬してます)
私が「ハッ」としたのは次の部分。
「インターネットは技術としては確かに革命的でした。しかし、「IT革命」という言葉が独り歩きしてしまうと、これまでのすべてが非連続的に変わる、変わらなければならないという議論に飛躍しがちです。今も昔もビジネスはしょせん人間が人間に対してやっていることです。人間の本姓はそう簡単には変わりません。何を喜び、面白がり、嫌がり、悲しむかは、江戸時代、いやもっと前からほとんど変わっていないのではないでしょうか。」(286)
最後に書いているストーリーの大事さは、なかなか勉強になった。
「優れた戦略ストーリーを読解していると、必ずといってよいほど、その根底には、自分以外の誰かを喜ばせたい、人々の問題を解決したい、人々の役に立ちたいという切実なものが流れていることに気づかされます。世の中は捨てたものじゃないな、とつくづく思うのです。」(499)
この「ストーリー」の大事さ。
私も「使って」いくことにしよう。
Homeはどこにある?
Homeはどこにある?
帰省のたびに、いろいろ思うことがある。
札幌勤務時代、私の帰省は東京→関西の実家という流れをとっていた。
時間が経つに連れ、東京で会う人・関西で会う人はだんだん絞られていった。
その前の早稲田の学生/院生時代はあまり帰らなかったものの、関西周辺の知り合い→実家の順で「帰省」していた。
帯広異動後の今。
東京→関西の実家→札幌の順で動いた。
それぞれの場所に、それぞれ会う人がいる。
帰省の度に、ふと思う。
自分にとっての「Home」はどこなのだろう、と。
自分の中で「Home」は、中学生までは「兵庫」であった。
高校・大学・大学院ではそれぞれ国分寺であり、新宿・早稲田であった。
札幌勤務時代は「札幌」に化けた。
では今は?
帯広半分、札幌半分。
残念ながら東京は「Home」ではなくなっている。
だいたい、「Suica」をJRに返却してしまった人間にとって、東京は改札の時点で排除されているような気がする。
しかし。
東京では3年連続で「通信制高校」をテーマにしたイベントを開催している。
社会人1年目は「私立通信制高校のリアル」(@ネコワーキング)、
社会人2年目もやはり「私立通信制高校のリアル」(ただし、シンポジウムとして開催。@デジタル・ナレッジ本社・後援:日本通信教育学会)
社会人3年目は「通信制高校が日本の教育を変える!」(@デジタル・ナレッジ本社。後援:日本通信教育学会)
年に1回であったとしてもその場にいると、知り合いが参加し、「コミュニティ」が生まれる。
自分にとっての東京の「居場所」となる。
これを考えると、定期的な「イベント」は、コミュニティに化ける可能性がある、ということである。
離れた場所であっても、それは成立する。
いい例が学術的なイベントの「学会」である。
日本通信教育学会にも、今年の11月に出れば「4年連続参加」となる。
この「居場所」たる「コミュニティ」から、私はいろんなものを得てきている(はず)。
さて、本文章の初めの「しつもん」に戻ろう。
「Homeはどこにある?」。
あちこち/定期的に移動してきた私にとって、
Homeは拡散した概念と成っている。
しかし。
仕事や「イベント」をやるたびに自分のHomeが形成される。
そんな気がする。
単なる「知り合いがいる」レベルで「Home」を感じる人は多い。
いろいろ/あちこち移動してしまった自分にとって、そういうレベルの「Home」には意味があるのだろうか、と思う。
無論、「なつかしさ」や「ここにいたんだなあ」感にひたれる「心のふるさと」的なHomeは必要である。
でも。
それを大事にすると、全く知り合いのいない場所を「Home」に変えていく力を人は失ってしまうのではないか。
私が仕事なりイベントなりで感じた「Home」は、ゼロから作っていったものである。
結論。
「Home」は「すでにある」ものではない。
自分が作り、築き上げていく過程の中に出来上がるものである。
「通信制高校が日本の教育を変える〜通信制高校のユニークな取り組み」、開催!
8月12日(火)、デジタル・ナレッジ本社にて「通信制高校が日本の教育を変える〜通信制高校のユニークな取り組み〜」を実施しました。
(後援:日本通信教育学会)
このイベントは「通信制高校のユニークな取り組み」を、通信制研究者の立場から検討していく、をテーマに開催しています。
会場には私・藤本を含めた4名がシンポジストとして参加。
まずは秋山吉則先生から「広域通信制高校の学習センターと専門コース」をテーマに発表。
つづいて、東京学芸大学大学院の土岐玲奈さんから「公立通信制高校におけるボランティアによる学習支援」をテーマに説明がありました。
学習ボランティアの意義について、検討する場となりました。
私・藤本は勤務校である私立通信制高校での単位修得システムや学習する生徒のエピソードについて発表しています。
最後は名古屋大学大学院の内田康弘さんより「通信制高校サポート校の学習環境」をテーマに発表。
普段表に出ない「サポート校」の学習とその意義を検討しました。
最後は通信制高校について参加者の方々との質疑応答。
アンケートを見ますと、 「普段知る機会のない通信制高校について、よくわかりました」 「こんな面白い学校があることがよくわかった」 ・・・などというありがたいコメントを頂きました。
私にとっても、大きな刺激を受ける機会となりました。
参加者のみなさん、ご参加本当にありがとうございました!!!
「反転」は、果たして可能か?〜『反転授業』読書会を振り返る〜
札幌時代から月1でやってきている、読書会。
「日本の思想」テーマでやってきたはずが、やはりディープに教育べったりでやっています(まあ、私的にはいいんですけど)。
私の自己学習の記録がこちら↓。
URL 「教える」モデルからの「反転」〜反転授業は「学び」を復権させるか?〜
さて、本日7/19はその本番でした。
議論の大きなテーマは、「反転授業によって、これからの学校・授業・教員はどうなるか?どう替わっていくべきか?」。
結果的には「いまの日本の制度でそのまま入れても、あんまりうまく行かないかもしれない」が議論のまとめとなりました。
まあ、当然といえばそうです。
日本の教育は「困ったら学校に◯◯の授業を行わせる」で回してきました。
例1 英語が必要?じゃあ、小学校から英語の時間だ!
例2 これからはシティズンシップ教育の時代だ!
例3 やっぱり大学では「社会人基礎力」をつけさせないと!
例4 体育ではダンスをやらせよう!武芸のなぎなたも!
その結果、そのようなスキルも経験もない教員に無理にやらせることになります。
(ダンス経験のない教員の教えるダンスの授業は、おそらく「悲惨」でしょう。)
困ったことに、日本の教育は全体主義的に「来年から◯◯を学校でやります!」式で来ています。
総合学習もゆとり教育も、そんな流れで来ています。
「100マス計算」「朝の10分間読書」といった「一見すると民間教育運動」的な教育の流れも、いきなりあちこちの学校でやり始めることになります。
おまけに教員は「それほど」人気のある職業ではなく、なんでもできるスーパー人材は起業家になったり、外資系に行ったり、国1を目指したりしています。
こういう流れで反転授業をいれても、ねえ。
・・・ただ、理念的にはとてもいい概念です。
反転授業を応援する旗振り役をやりたいくらいです。
私の勤務先でもやる予定です。
ただ、ここで考えるべきは教育論が「制度的に無理」に流されることの問題点です。
実際、細かい話をすると大体の教育論は「実現不可能」で終わります。
でも、方針や理念型を定めることはすごく意味があることです。
私はよく教育論を読みますが、大部分の教育論の読者と違い、日本という枠での実現可能性は無視しています。
あくまで自分の周囲で実践できるという文脈で読んでいます。
だって、そうじゃないと「暗くなる」からです。
閑話休題。
読者会をしていて気づいたことを何点か。
(1)授業のコモディティ化について
コモディティ化とはそれぞれの個性がなくなり、陳腐化すること。
似たような商品ばかりになり、優位性がなくなり、結果「安売り競争」に巻き込まれること。
これまでの学校の「授業」は、特に工夫もあまりなく、決められたカリキュラムを決められたとおりに進めるモデルでした。
「勝負できる商品」としての授業はあまりなく、「やらなければならない」からやるだけ、でした。
授業のコモディティ化です。
反転授業をすすめることは、コモディティ化した授業に風穴を開けることになります。
つまり、「ネットで流れている授業のほうが面白い」という単純な事実に、生徒たちが気づくことです。
そうなった場合、教員の反応は2つにわかれるでしょう。
A 授業改革に情熱をそそぐ
B 単なる授業でなく、ネットの授業を見た上でこそ成立する、アウトプット中心の授業を行う(ディスカッション、プロジェクト学習など)
私なら迷わずBを選びます。
そして「学び」をコーディネートする人としての教員として仕事をします。
(2)日本型合意形成モデルについて
日本の民主主義的な合意形成の方法。
会社でも大学のサークルでも、町内会の寄り合いでも、
議論の合意形成は大体「全員に意見を聞き、多数決を取る」というスタイルです。
このモデルは戦後の学校教育での「学級会」のやり方から来ています。
つまり、日本的な合意形成モデルは学校での議論のやり方そのままといえるでしょう。
もし学校の授業の中で、KJ法やKPT、マインドマップなどの発想ツールや合意形成フォームを学ぶなら、日本人の合意形成の仕方も変わっていくのではないか。
だからこそ、学校内での議論の仕方・合意形成の仕方の教育を再検討することは大切なのではないか。
・・・・取り留めもなく書いてしまいましたが、今回のように発想が広がるのがいい読書会の条件なのかもしれません。
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「教える」モデルからの「反転」〜反転授業は「学び」を復権させるか?〜
書評:ジョナサン・バーグマン/アーロン・サムズ『反転授業』オデッセイコミュニケーションズ,2014.
最近の流行語、「反転授業」。
反転?
授業の、何を?
本書の表紙に書いてある言葉が一番わかり易い説明となる。
「基本を宿題で学んでから、授業で応用力を身につける」。
反転授業(Flip you’re classroom)。
これは既存の授業・学校のあり方を入れ替える力を持った取り組みである。
カーン・アカデミーの創設者の自伝にも紹介のある取り組み。
予め授業を録画し、それを生徒が自宅で観る。
学校ではその内容を元に演習やディスカッションを行う。
すでに基本を理解しているため、より高度な授業や
個々人の習熟度に応じた学習ができる。
まさに「「反転」が「個別化」を助ける」(29)。
単なる遠隔授業ではないので、直接会って指導すべき内容を優先して授業できる。
「反転モデルはオンラインと対面指導を融合した「ブレンド型」と呼ばれる形式の理想型だと確信している」(60)というのも、そのとおりの話だ。
特徴の1つは、授業や講義を気軽に「一時停止」できること。
PCの動画なら、どんなに止めても・スローにしても、誰にも怒られない。
自分のペースで学習できる。
PCでできるからこそ、発達障がいを持っている生徒も自分のペースで学習できる。
支援ツールも使い放題。
無論、自宅は教室とは違う。
テレビにゲーム、ベッドと誘惑は数多い。
だからはじめのうちに学習のルールづくりを行う。
集中を阻害するものをなくすほか、
ノートの取り方も指導する(コーネル式ノートなど)。
反転授業において、授業の主導権は生徒に移る。
「反転授業は明らかに生徒が主体であり、教師主体ではない」(46)。
「教室における教師の役割は情報を伝達することではなく、生徒を支えることである」(46)。
「教師が学習プロセスの主導権を手放し、生徒がみずから指揮を執る。教育のプロセスが本人の手にゆだねられるのだ」(123-124)。
教員が「説明する人」から、「支援する人」に変化する。
これ、私のような通信制高校の教員からすると当然であるが、
大きな変化であるといえるだろう。
まさにインターネットの発展によって成立した理想の授業。
優秀な教員のビデオさえあれば、単なる情報伝達はその動画に任せればいい。
東進ハイスクール式に、優秀な教員の動画を皆が見ればいい。
その上の応用や補充をやるのが、その学校の教員であってもいい。
こんな分業も可能となる。
私は、あまり既存の「学校」モデルが好きではない。
だから、本書のような「反転」モデルは非常にワクワクする。
反転授業は本来の「学び」を復権させる取り組みである。
教員の自己満足である「教える」を捨て、生徒の「学び」につなげる。
それが目標である。
読書の楽しさを取り戻す!
書評:丸山圭三郎, 1990, 『言葉・狂気・エロス』(講談社現代新書)
高校時代、古本屋の店主になりたいと思った時期がある。
大学時代も、それがあった。
自分の好きな本を飾り、客と知的な会話のできる職業というイメージからの発想である。
イメージの古本屋の主人は大体が頑固であり、無愛想であるが、話の振り方次第では博識ぶりを客に語って伝える存在でもある。
実際はそんな店はほとんどないのであるが、「あこがれ」がある。
この『言葉・狂気・エロス』は、札幌の古本屋でたまたま買った本。
買うときに、「お客さん、掘り出し物を買ったね」と言われた本である。
「この本は古いと思われるかもしれないけど、その当時の歴史を想像し、時代を下っていくように読むとまた違う発見がありますよ」
無愛想な顔が一転し、笑顔で語るその姿。自分がかつてイメージした「古本屋の主人」そのままであった。
さて、本書は「現代思想」の本である。
ちょっと古くなった「現代思想」の本を読むと、大学院時代を思い出す。
本書のハイライトは著者である丸山が子ども時代、「本の虫」といえるほど本に熱中していたにもかかわらず、大学入学後には読書が苦痛となってしまう(205)。
「その理由は、〈読む〉ことが一つには課せられた、強制行為となったためであり、二つには唯一の正解、つまり作者の唯一の意図、作品の唯一の意味を探りあてねばならないという状況に置かれたためだ」(205)
「正解」を求める読書は苦痛である。
しかし、ある時著者はあることに気づく。
その結果、再び読書の「喜び」を実感するのである。
「万人が同じ答えに到達する読みは、パズル解きやクイズ遊びに過ぎない。そうではなく、私たちがテクストと自らの身の相互的運動を通して得られるような快い緊張感と興奮、これが快楽を生む源なのではないだろうか」(207)
そう、読書は意味を読み取るパズルではない。
読書が本(=テクスト)と相互的運動、つまりコミュニケーションするなかで新たな意味を創造する取り組みである。
これこそ、バルトの言う「テクストの快楽」。
「〈読む〉ことも〈書く〉ことも、対象から意味を与えられると同時に意味を付与するという相互作用から成っているのではあるまいか」(206)
シャーロック・ホームズの推理ミスを探すのも、
『坊っちゃん』の「うらなり」の立場から小説を書くのも(『うらなり』)、テキストに自分の意味を付与し、創造する喜びである。
そういった「意味の創造」こそ、今後の読書教育などでやっていくべきなんだろうなあ。
こう考えると、流行りの「ビブリオバトル」も意味の再解釈の場として「解釈」され直すことになるだろう。
読書会の意義
札幌時代にやっていた読書会を、帯広でも継続している。
言ってしまえば札幌での読書会をSkypeで中継してもらい、参加している、という形。
住むには帯広はいいところ。
でも、「情報」や「創造」を得るためには札幌や東京から学ばなければ、時代に取り残されている感じがしてしまう。
そのため、この読書会、自分にとってすごく意味合いが増した気がする。
時代はどんどん変わる。
教育も変わる必要がある。
…札幌時代以上に、「自分で学ぶ」を実践していかないと。
読書会をやると、「もっと学ばないと」感が高まる。
おそらく、それが読書会の一番の良さだろう。