読書の楽しさを取り戻す!

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 書評:丸山圭三郎, 1990, 『言葉・狂気・エロス』(講談社現代新書)

高校時代、古本屋の店主になりたいと思った時期がある。
大学時代も、それがあった。

自分の好きな本を飾り、客と知的な会話のできる職業というイメージからの発想である。

イメージの古本屋の主人は大体が頑固であり、無愛想であるが、話の振り方次第では博識ぶりを客に語って伝える存在でもある。

実際はそんな店はほとんどないのであるが、「あこがれ」がある。

この『言葉・狂気・エロス』は、札幌の古本屋でたまたま買った本。
買うときに、「お客さん、掘り出し物を買ったね」と言われた本である。

「この本は古いと思われるかもしれないけど、その当時の歴史を想像し、時代を下っていくように読むとまた違う発見がありますよ」

無愛想な顔が一転し、笑顔で語るその姿。自分がかつてイメージした「古本屋の主人」そのままであった。

さて、本書は「現代思想」の本である。
ちょっと古くなった「現代思想」の本を読むと、大学院時代を思い出す。

本書のハイライトは著者である丸山が子ども時代、「本の虫」といえるほど本に熱中していたにもかかわらず、大学入学後には読書が苦痛となってしまう(205)。

「その理由は、〈読む〉ことが一つには課せられた、強制行為となったためであり、二つには唯一の正解、つまり作者の唯一の意図、作品の唯一の意味を探りあてねばならないという状況に置かれたためだ」(205)

「正解」を求める読書は苦痛である。
しかし、ある時著者はあることに気づく。
その結果、再び読書の「喜び」を実感するのである。

「万人が同じ答えに到達する読みは、パズル解きやクイズ遊びに過ぎない。そうではなく、私たちがテクストと自らの身の相互的運動を通して得られるような快い緊張感と興奮、これが快楽を生む源なのではないだろうか」(207)

そう、読書は意味を読み取るパズルではない。
読書が本(=テクスト)と相互的運動、つまりコミュニケーションするなかで新たな意味を創造する取り組みである。

これこそ、バルトの言う「テクストの快楽」。

「〈読む〉ことも〈書く〉ことも、対象から意味を与えられると同時に意味を付与するという相互作用から成っているのではあるまいか」(206)

シャーロック・ホームズの推理ミスを探すのも、
『坊っちゃん』の「うらなり」の立場から小説を書くのも(『うらなり』)、テキストに自分の意味を付与し、創造する喜びである。

そういった「意味の創造」こそ、今後の読書教育などでやっていくべきなんだろうなあ。

こう考えると、流行りの「ビブリオバトル」も意味の再解釈の場として「解釈」され直すことになるだろう。

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