『現代思想』2014年10月号特集「大学崩壊」に思うこと。

本日11/8(土)、毎月やっている読書会で『現代思想』という雑誌の「大学崩壊」特集号を元に議論を行います。

それにあたってのメモを。

・・・・・・・・・・・・・

・いろんな議論が出ているが、主になっているのは次の3つ。

①「国立大学法人化と、学長のトップダウン強化によって大学が自主性を失い、文部科学省ないし政府の意向をただ伝えるだけの組織になっている」

②「グローバル化が叫ばれ、新たな部局を作成する大学増えているが、その中身は「外国人教員を~~人雇う」レベルの対応となっており、それで問題が解決するのか。またそもそもその対応で正しいのか」

③「非常勤講師の雇い止めなど、非常勤講師をめぐる勤務状況は厳しくなっている。専任の教員との間の待遇差が広がっている」

これら①~③から考えて、「改めて、本来、大学はどうあるべきか」の問い直しの必要性を本書は訴えている。

まず考えるべきことは、大学のあり方は進学率など社会状況によって変わる、という点である。

マーチン・トロウは大学をエリート段階・マス段階・ユニバーサル段階の3段階に立てわける(『高学歴社会の大学』)。

進学率15%までのエリート段階、50%までのマス段階、それ以上のユニバーサル段階だ。

日本は現在「ユニバーサル段階」に到達している。

いわゆる、「大衆教育社会」(苅谷剛彦)だ。

それぞれの段階に応じて、大学に求められるものは変わっていく。

人類はエリート段階での大学にだいぶ慣れ親しんできた。
それが戦後しばらくでマス段階(大学紛争の際言われた「マスプロ教育」とは、この段階のときのことである)に達する。

60年代の大学紛争。
安田講堂に立てこもったのはimgres-1現代史の教科書に載っている出来事だ。

 

その当事者たちが感じていた思い。

「大学に入るともっと学問の自由を謳歌できると思ったのに、数百人一度に教えるマスプロ教育と、卒業後すぐに「企業戦士」となる未来しか描けない」

「けっきょくは日本という社会の中の歯車にしか過ぎない自分自身」

このような彼らの満たされない思いが、マルクスの洗礼で火炎瓶なり、歩道の敷板を剥がしての戦いなり、大学封鎖なりにつながっていった。

彼らの不幸は、大学がすでにマス段階に達しているのにもかかわらず、彼ら自身の思いが「エリート段階」の大学が担っていたものであったことがそもそもの原因である

一対一で教授と学生が共に学問をし、
世情のことを無視して象牙の塔にこもってひたすら思索できた時代。

そんなものは幻想なのだが、「エリート段階」の大学の理想はそこにあった。

日露戦争勃発を知らなかった帝国大学教授がいた、という話など、まさに古き良き象牙の塔の時代の話である。

マス段階の大学に進学した、大学紛争当事者たちは、大学に「エリート段階」の幻影を求めていたのである。

そんなものはすでに時代遅れになっているにもかかわらず。

さて。

大学の役割は「マス段階」から、進学率50%突破の「ユニバーサル段階」に達した。

大学だけで見れば、それは2002年ごろ。
割と最近、日本の大学は「ユニバーサル段階」に達している。

いまの日本の大学を巡る状況は、大学関係者以外はいまだマス段階の発想でもある。
大学紛争当事者の悩み同様、そこが今の日本の大学の不幸をもたらしている。

例えば。
(1)「大学入学は厳しいから、もっと個人を評価するシステムにすべきだ」という言説。

いまや日本の大学はAO入試や推薦入試で6割もの学生が合格する。
筆記試験で合格を果たす学生は少数派になりつつある。

これもマス段階の発想である。

(2)「大学院に入り、脇目もふらずに研究に励めばそのうち専任講師や助教授・教授になれる」という言説。

これもマス段階の発想である。
10年前に比べ、大学院修士課程に進学する学生数は2倍になった。
しかし、大学での勤め先の数はほとんど変わっていない。
非常勤講師の待遇も悪くなったほか、大学院生が「つなぎで仕事する」場所の定番だった専門学校や予備校も、少子化のため減少している(東進ハイスクールのように、DVD授業をする予備校も増えているし)。

だから脇目もふらずに研究に励んでも、「よっぽど」でなければ、専任講師にも助教授にもなれないという時代が来ている。
なれたとしても、それは研究職を期待されてのポストではなく、「生徒の就職指導ができる」「教育実習のための指導・援助ができる」「学生支援ができる」、挙句の果ては「バスが運転できる」ということだけを期待されての仕事口であったりもする。

私が博士課程進学を断念し、通信制高校教諭の道を選んだのも、「こんな」理由がある。
ただ、教職という進路は職にあぶれた大学院卒業生たちの流れる「社会的受け皿」でもある。
教育的熱意を持たない大学院生がデモシカ教員になっていないかが不安な限りである。

このように、大学に関するすべての不幸の始まりはマス段階・ユニバーサル段階であることを無視して議論をするところから起きているのだというのが私の仮説である

一度、その発想からいまの大学に関する言説を洗いなおし、「現象学」的まなざしで検討を重ねることが必要であろう。

クルマを乗り換えた〜「慣れ親しみ」論について〜

半年間だけだったが、乗っていたクルマを手放し、新しいクルマに乗り換えた。

運転に慣れていた分、ぎこちない操作性である。

馴染んでいたものから新しいものに変わる時、人は少し戸惑う。
それは「慣れ親しみ」という状態がリセットされるところにある。

いつも会う人達。
コミュニケーションの仕方に「慣れ親しみ」が生じる。

違う場所に移ると、改めてその「慣れ親しみ」に気づく。
職場の異動、引っ越しなど、別の場所・別の集団に行くことで初めて気づく。

「慣れ親しみ」は、失って初めて分かるものである。

身近な人も、実はそんなもの。
だからこそ、普段の何気ない日常を大事にしていきたい。

新しい人と出会う、ということ。または「ばあちゃんコピー」の思い出。

忘れていても、ふとした瞬間に思い出す人がいる。

大学時代の「ばあちゃんコピー」のお婆さんは、まさにそんな人。

私のいた大学の教育学部そばに、「ばあちゃんコピー」という通称のコピー屋があった。

お婆さんが店員だから、ばあちゃんコピー。
ただそれだけの文房具屋兼コピー屋だ。

界隈の中では最安に近い店であった。(当時出来た「タダコピ」は除く)

だいたい、大学街のそばには、「6円コピー」という格安コピー屋があるものなのだ。

学部の1年生の時から大学院2年の修了時まで、何度となくその店を利用した。

他人のノートをコピーするためではない。自分の発表レジュメを印刷するためである。

たしか学部の1〜2年生の時、そのお婆さんに会ったのだが、会計時に話すようなこと以外、話すことはなかった。

そこからしばらく会わない時期があった。

本格的に話すようになったのは大学院のときからだ。
単なる顔なじみ段階から親しげに話す関係になるには、きっかけのひと言が必要だ。

大学院の時、「よく勉強してますね」と言われたことを思い出す。
だれだってそうだが、努力を認められるとなんとなく嬉しい。

なんだかんだ、その「ばあちゃんコピー」に行ってコピーを取り、話すようになっていった。

就職が決まり、札幌での勤務が決まった際も、「ばあちゃんコピー」に報告に行った。

教員になることを喜んでくださったことを思い出す。

いろいろ話したはずだが、覚えているのはそのお婆さんの笑顔だけである。

さて、この「ばあちゃんコピー」のお婆さん、札幌で仕事を初めて以来2年半、全く思い出すことがなかった。

たまたま温泉宿のおかみさんと話していて、どことなくしゃべり方が似ているような気がして思い出したのである。

潜在意識に、何かひっかかるものがあったのだろう。

私のここまでの人生の中で、私はおそらく「ばあちゃんコピー」のお婆さんのような人に数限りなく出会ってきた。

出会ってきたものの、大半の人達はすでに出会ったことすら忘却してしまっている。

しかし、なんらかのきっかけがあると、彼らと出会った経験が「走馬灯のように」よみがえる。

人間が旅に出たがるのも、新しい人に会いたい気持ちになるのも、ひょっとすると「新しい人に出会う」行為が、かつて出会った「忘れ去った人たち」を思い出すことにつながるからではないか。

つまり、新しい「誰か」と会うという行為よりも、過去に出会った「誰か」に出会うことを予期し、期待しているのではないか

そう考えると納得できることがある。
新しい人と会っているのに、どことなく懐かしさを覚えるその理由を。

紙の「本」は廃れるか?〜電子書籍時代に思うこと〜

iPadやなんかで本を読んでいると、必ず聞かれる質問がある。

「紙の本って、やっぱり電子書籍がはやると廃れるんでしょうかね?」

また、

「電子書籍の時代こそ、紙の本の良さがみなおされるようになりますよね」。

「電子書籍なんて、いっときのブームですよね」までいれると、電子書籍に関して語られるほぼ全ての一般の意見になるだろう。

「電子書籍になってほしい!」という人は、(私のまわりには)あまりいないように感じる。

私は、ぶっちゃけていえば紙の本は廃れる運命だと思う。

重いし、かさばるし、検索に不便。

ある程度の部分までは電子書籍に置き換えられると思うし、そうなってほしいと思う。

その理由を説明したい。

私は、本については情報伝達の一形態だと考えている。

テレビ、ウェブ、ラジオ、新聞なども入れた情報伝達の内の、一つの形態にすぎない。

しかし、その一形態にすぎない本には、人類の知恵が入っている。

私が卒論&修論で取り組んだ思想家イバン・イリイチは、〈本には1ダースもの工夫が2世紀にわたって盛り込まれることで今の形になった〉という。

昔、アルファベットの文章には「スペース」がなかった。つまり、「私は図書館に行きたい」を、「Iwanttogotothelibrary」(I want to go to the library.)としか表現できなかった。

この場合、よっぽど言語力がない限り、なにを言っているか分からない、という状態だった。

「スペース」という「発明」は、本の情報伝達に革命をもたらした。

ページ番号を振る、というのも発明の一つだ。

目次や索引というのも、すごい発明なのである。

人類が本に対し何世紀もかけて取り組んできた成果。それがいまの人類の情報伝達の基盤に成っている。

日本語を見てみても、むかしの日本語にはひらがなの「あ」の表記にも、何通りもの書き方があった。

統一されるのは近代化のあとである。

それまでは無数の「あ」の書き方があったのだ。

「、」や「。」も、古文にはなかった書き方だ。

それまで、「どこで文が終わりか」は、学のある人にしかわからなかった。

明治以降にようやく普及するのがこの「、」や「。」で文を切るやり方である。

それまでは徒弟制度の元、師匠から学ぶしかほかなかった。

もっといえば、お経というものも「ふりがな」した本が当たり前のようにあるのはここ最近のことであろう。

「この文言をどう読むか」というレベルすら、師匠に習う必要があった。

ことふりがなに関してだけでも、人類の発見の歴史が刻まれている。

さて。

本を相手に考えられたこれらの工夫が、ネット時代の今にも役立てられている。

この文章だけでも、「、」も「。」も使っている。

古文になかった「 」(かぎかっこ)や( )すら使っている(古文が難しいのは、「 」が付いていないからでもある)。

人類の情報伝達にかける情熱が、本のさまざまな工夫につながっている。

であれば、本の文化というものは廃れることは永久にない。

電子書籍であれ、ブログの文章であれ、「本」に使われた情報伝達の「知恵」が完全に生かされているのだから・・・。

私はこういう意味で、本はなくならない、と思う。

紙の本に使われた知恵が、電子書籍に活用される。
そういう形での文化の「生き残り」は成立するはずだ。

「眠る」ということ。

23:45。

この辺の時間になると、人は(少なくとも私は)眠くなる。人は寝ることを欲する。
しかし、なぜ人間を始めとした生物一般が睡眠をとるのか、理由はよくわかっていない、という。

細胞の活性化などが理由のようだが、いまいちわかっていない。
記憶の定着も理由のようだが、別に「寝る」必要性もないようだ。

養老孟司は「いまの文明は意識文明。寝ないで意識のある状態にのみ、価値をおいている」という。

私は寝ることが割と好きだ。
寝るのは「もう一つ」の世界への入り口である。
眠りによって、意識がなくなることで、日常という悪夢を消し去ることができる。

しかも1日の1/3をこれに充てることができる。

まどろみの中で人間は生まれ、
「意識活動」についたあとも1/3はまどろんでいて、
最終的にまた「まどろみ」の中で痴呆が進み、
完全な「まどろみ」を経験する。

そう考えれば、眠ることは「死ぬことのレッスン」でもある。
あるいは、意識と無意識が未分化だった赤ちゃん時代への憧れだ。

寝ることは人間の中での動物的側面の一つである。
三大欲求の一つ、でもある。

この「寝る」という行為とその哲学的意味。
もう少し考えてみたい。

文章を綴るということ。

かつて私は、演奏会に行くと、
というか、演劇・お笑いなど、何らかの表現を観に行くと、
私はいつもどうしようもなく「暗く」なった。

演奏する「あちら」側に、絶対に行けないという思い。
「あちら」側に行って騒ぎたいが、それが出来ない自分。

そんなことを感じていた。

今日ジャズライブに行き、気づいたことがある。
それは自分にとって、「アツくなったものは何か」という問いと、それへの答えだ。

大学生時代、私は何にアツくなったか。
それは書くことであり、講演会の企画であり、ブログの更新である。

小林秀雄は演奏をしなかったが、モーツアルト論を書いた。
いまだに古典となっている。
私は演奏も、スポーツも、映画を撮ることもできないまま育ってきたが、
唯一ブログを書くことぐらいはできる。

言語表現については、「それなり」にできるはずだ。

だからジャズを演奏するように、
映画を監督するように、
スポーツで結果を出すように、
研究者が試験管を振るように、
文章を書く。

大学院時代、耐えられないほどの悩みや苦しみを癒してくれたのは、
「文章を書く」という行為それ自体であった。

ある意味、文章に救われたのである。

研究に行き詰まり、
西焼津のビジネスホテルの屋上から真下を見下ろした時の思いは未だに残っている。

どういう経緯で立ち入り禁止のホテル屋上に上がり、
塀を乗り越えるところまで進んだのかはもう覚えていない。

覚えているのは、西焼津のビジネスホテルの下から吹き上げる潮風と、
ただ真っ暗な地上、なんとなく見えた水平線の輝きである。

「あと一息」のところで、飛び降りそこねている。

そんな時も、ホテルの部屋でPCに文章を綴っていた。
文章を書くという行為が、私を救ってくれたのだ。

まあ、個人的感慨を言ってもキリがない。
研究者の道をさしあたり断念したときも、帰ってからPCに文章を綴っていた。

文章を書くこと。
それは私にとって生きるための道具(Tools for conviviality)であった。

知らない間にブログ文体になったのも、そのせいである。
(心の揺れを描くのに、ブログ文体はいい間を生じさせることができる)

・・・まあ、ひと様によんで頂ける文章を書く力を、もっと付けないといけないんだけどね。

映画『LUCY ルーシー』

最近、「脳」系映画が多い。ジョニー・デップのアレ(『トランセンデンス』)しかり、本作しかり。

みんな、「脳」が怖いし、「脳」が万能だ、と思いたいのだろう。

脳が40%活用されると他者を意のままに操れるなど、「脳」の可能性を言う映画としては面白い。

しかし、ねえ。

「脳の可能性」をいうわりに、ストーリーは陳腐。

これならNHKでやりそうな「茂木健一郎と一緒に、脳の可能性を観る90分のドキュメンタリー」の方が、きっと面白い。

ただ。

「脳」の可能性をいうことは、結果的に「人間」ないし「自分」「あなた」の可能性をいうことにつながる。

脳には可能性がある。

これは今はダメな自分でも、学習によって可能性を開ける、ということにつながる。

本作はその点、「脳のスゴさ」を観るのには役立つ。

・・・スリルを感じたいなら、別のドラマのほうがいい。

url

ソーシャルか、パブリックか。〜横尾俊成『「社会をかえる」のはじめかた』産学社〜

本書の筆者は「ソーシャル」議員。
本書に出てくる対談者は「ソーシャルデザイン」の専門家、
ソーシャルビジネスの実践者、
「社会」的起業家。

どこもかしこも、「ソーシャル」・「ソーシャル」、「社会」・「社会」ばかり。

「ソーシャル」ということが重視される世の中になった。
かく言う私も、こういう言葉、大好きである。

しかし。
山本哲士の言葉を今こそ思い出したい。

〈日本は社会主義ではなく、社会イズム、つまりSOCIALismに毒されている〉と。

山本哲士の主張である。

「世間が許さないぞ」というときの「世間」。
その世間の代表が「ソーシャル」である。

通常、英語や何かで言う「ソーシャル」(社会)という言葉は、その背後に「近代的市民」が成立している「市民社会」のことを言う。

日本の場合、未だに「市民社会」が成立していない、という言い方を、多くの知識人が数えきれないほど多く行ってきた。

「市民社会」を前提としない「ソーシャル」。
それが日本社会である。
だから「みんな」が大学に行こうとすると「わたし」も大学を目指す。
「みんな」が就活をすると「わたし」も就活をする。

「みんな」「世間」を気にし、それに適合しない他者を排斥する社会。

登校するのがあたりまえで、「不登校」が排斥される。
健常者があたりまえで、「障がい者」が排斥される。

それが日本社会となっている。

社会に出て「何か」をしようとすると、必ず反発がある。
「世間」が許さない。
日本ではこの「世間」を「社会」という。

みんながみんな「社会」「人様」「世間」を気にして、やるべきことをやらない(やれない)。
気にするからこそ、「何もしない」。

そして日本は何も変わらない。

日本はいま「社会」が個人を抑圧する「社会イズム」に陥っている。

さて。
日本社会が「社会イズム」に毒されている以上、その社会において「ソーシャルの重要性」を謳うことに、われわれはもっと疑問を持つべきではないだろうか。

日本において、本当に「ソーシャルの重要性」を見るべきなのか、と。

むしろ。
山本哲士のいう、「パブリック」の復権こそ、われわれの取るべき道なのかもしれない。

「市民社会」を前提とした「社会」は見知らぬ他者への寛容さから成立する。
日本社会において、この他社への寛容を見出すことは難しい側面がある。

であれば、「顔の見える他者」とつくり上げる公共性としてのパブリックに価値が高まっている。

ダラダラ書いてきた。
結論を言おう。

『「社会をかえる」のはじめかた』でいう社会は、近代的市民による社会ではない。
「顔の見える他者」たちの連続体としてのパブリックの再興を目指しているのである。

日本社会において、顔の見えない見知らぬ他者へ主義主張を叫ぶことは徒労をもたらす。
「何言ってんだ」と排斥されてオシマイ。

本書が言っているのは、あくまで「若者」や「社会を変えたい人」の集まりとしてのパブリックなのである。

戦略論として間違ってはいけない点がここにある。
やみくもに「みんな」「市民たち」「社会」に対し訴えていく方法論は日本では有効性が低い。
あくまで顔の見える他者を糾合し、彼ら/彼女らとコミュニケートする中で、彼ら/彼女らたちを巻き込むパブリックを構築すべきなのだ。

ある意味、私が社会人となって学んだことでもある。

「社会をかえる」方法論は、「みんな」や「社会」を見ているよりも、
「変えたい」人たちの集合体として見ていくべきなのだろう。

 

真の教育的関係とは?

映画評:『Stand by me ドラえもん

寺山修司。
彼はいまや高校教科書にも登場する人物である。
(本人が生きていたら、おそらく辞退しただろうが)

彼の主義。それは心理的サヨナラ主義。

「花に嵐の喩えもあるさ
サヨナラだけが人生だ」(井伏鱒二)

教育は、ハッキリ言って虚しい側面を持つ。
それは教育の目的が、教育者への「サヨナラ」とつながりあっているからだ。

映画『Stand by me ドラえもん』は感動作である。
なぜ感動作なのか。
それはドラえもんの活躍自体が「サヨナラ」とつながりあっているためである。

 

これまでのドラえもんの全作品の総集編的意味を持つ本作。
ドラえもんの役割が「のび太の不幸な未来を変更するためのコーチ」として描かれる。

 

ドラえもんはのび太の未来を変更しない限り、未来に帰ることは出来ない。
原作にはなかった設定である。

この設定のために、ドラえもんは原作以上にのび太の成長およびのび太の未来の変更に必死になる。

のび太自身の「未来を何とか変えないといけない」という願望と、
コーチであるドラえもんの「のび太の未来を変えないと、自分が未来に帰れない」という要望とが一致する。

コーチの動機も、クライアントたるのび太の動機と一致するのである。

それゆえ、原作ではものすごく時間がかかったドラえもんとのび太との「出会いと別れ」が、本作では恐ろしいほど早く実現されるのである。

 

さて。
一度ブログで書いたこともあるが、ドラえもんの虚しさは「自分が不要になるように、のび太を成長させる」という矛盾した存在であるところにある。

「あんなこといいな/できたらいいな」を実現する主体たるドラえもんは、
全知全能の神にも近い存在だ。

そんな存在がいると、のび太がますます駄目になる可能性がある。
そのなかでドラえもんは、自己が不要になるように少しずつのび太を成長させていく。
そしてコーチたる自分がいなくても大丈夫なようにしていく。

内田樹ではないが、人は「自己が不要になるように努力する」人に対し感動を覚える。
「夜回り先生」も、自分がいらない社会を目指すがゆえに、人に感動を与えている。

 

「未来を変えるプロジェクト」としてのドラえもんのストーリーなのである。
のび太の成長を支えるのが「ひみつ道具」である。

「どうせ」といって諦めていたらいつまでたっても今のまま。
だから「未来変更プロジェクト」が必要になってくる。

 

教育は教育を受ける側が「コーチがいなくても、自分で何とかする力」を学ぶことにゴールがある。

そこにの虚しさがある。
みずからの主体になる努力。
ものを考え、自分で何とかする力。

それを学び、一度コーチと「サヨナラ」するからこそ、
本作はラストでコーチとの友情関係を成立させることができる。

 

 

真の教育。
それは単なる教育者-被教育者関係を超えてこそ成立する「友情」のことを言うのかもしれない。

 

Z-1☆こちらからお求め頂けます。

就職は恋愛と同じ!

書評:鈴木健介, 2011, 『就活は子どもに任せるな』中公新書ラクレ.

高校教員をしていると、就職活動のための面接練習を多く行うこととなる。
そんなわけで、私は最近、面接者役として高校生相手に面接練習をけっこう行っている。

「あなたの志望理由を聞かせてください」
「学校生活で一番頑張ったことは何ですか」

これまで私は、自分がいまの学校に「内定」を受けた時と同じ面接戦略で面接練習を行ってきた。

ただ、
自分一人だけの面接経験で練習をして、本当にいいのかな」とも思っている。

そんなわけで、『就活は子どもに任せるな』というタイトルに惹かれ、本書を手にとったわけである。

結論から言うと、【就職は恋愛と同じ】という本。
このメッセージの重要性を常に感じる本である。

「就職は結婚と同じだと理解してください。そうすると行動の仕方、アプローチの仕方が自ずから変わってくるでしょう。
「モテる人」というのは顔かたちが秀でているのではありません。「マメ」なのです。何に対してマメなのかといえば、それはもちろん恋した相手に対してです」(84)

「就職活動の下手な人は、募集をかけている会社が求めている要件を無視して、自分のメリットばかりを売り込もうとする人です」(87)

自分の好きな人に、一方的に自分の思いを伝えるだけでは相手は振り向いてはくれない。
そのためには相手について、まず知る必要がある。

(ものの恋愛本では、「彼女にしたい人の友だちを5人以上知っているか?」というチェックリストがある。入りたい会社と関わりの深い会社は一体どこか?)

その上で、相手にとって自分が魅力的(=戦力となる、貢献できる)なのはどこかを適切に、ウソなく、誠実に伝えていくことが必要だ。

誰も、自分以外に浮気をしている人と付き合いたいとは思わない。
首尾一貫して相手と付き合いたい思いを、適切に相手に伝えることが必要となる。

そのためには服装もふさわしいものとし、
言葉遣いもふさわしいものとする。

大事なのは相手への「一貫性」である。

一貫性を見る、とは、要するに、会社が求める「5つの質問」(182-185)への答えが適切かつ首尾一貫しているかということである。

①「なぜあなたは応募したのか」

②「何を訴えたいのか」

③「躍進するためには何が必要か」

④「そのためにはどうすればよいか」

⑤「あなたの話を信用してよいのか」

・・・これらに対し、きちんと答えられているだろうか。

恋愛と同じく、面接相手とのコミュニケーションのなかで、相手の求めることを察知していくのがセンラy区となる。

「面接官と話すときには、|
①応募目的がはっきりと表現されているか
②どんな人を採用したいと願っているか、企業側の目的をつかんでいるか
③採用対象者として自分が条件を満たしていることを的確に伝えているか
④面接官は、あなたが伝えようとしている「話の内容」を理解しながら聞いているか
などを、面接官の態度や返事から確認しながら続けることです」(185-186)

その上で、恋愛や結婚同様、結婚後(=入社後)の自分のビジョンが明確であることも見られている。

「基本は将来目標を明確にして就職活動に取り組んでいるかどうかになるでしょう」(186)

就活は恋愛と同じ。
幾多の恋愛本は「相手にとって受け入れやすい自分になる」ことを奨めている。
一方的に「私はあなたを好きだ!」といっても、相手が受け容れないならば、それはストーカーへの入り口となる。