Homeはどこにある?
帰省のたびに、いろいろ思うことがある。
札幌勤務時代、私の帰省は東京→関西の実家という流れをとっていた。
時間が経つに連れ、東京で会う人・関西で会う人はだんだん絞られていった。
その前の早稲田の学生/院生時代はあまり帰らなかったものの、関西周辺の知り合い→実家の順で「帰省」していた。
帯広異動後の今。
東京→関西の実家→札幌の順で動いた。
それぞれの場所に、それぞれ会う人がいる。
帰省の度に、ふと思う。
自分にとっての「Home」はどこなのだろう、と。
自分の中で「Home」は、中学生までは「兵庫」であった。
高校・大学・大学院ではそれぞれ国分寺であり、新宿・早稲田であった。
札幌勤務時代は「札幌」に化けた。
では今は?
帯広半分、札幌半分。
残念ながら東京は「Home」ではなくなっている。
だいたい、「Suica」をJRに返却してしまった人間にとって、東京は改札の時点で排除されているような気がする。
しかし。
東京では3年連続で「通信制高校」をテーマにしたイベントを開催している。
社会人1年目は「私立通信制高校のリアル」(@ネコワーキング)、
社会人2年目もやはり「私立通信制高校のリアル」(ただし、シンポジウムとして開催。@デジタル・ナレッジ本社・後援:日本通信教育学会)
社会人3年目は「通信制高校が日本の教育を変える!」(@デジタル・ナレッジ本社。後援:日本通信教育学会)
年に1回であったとしてもその場にいると、知り合いが参加し、「コミュニティ」が生まれる。
自分にとっての東京の「居場所」となる。
これを考えると、定期的な「イベント」は、コミュニティに化ける可能性がある、ということである。
離れた場所であっても、それは成立する。
いい例が学術的なイベントの「学会」である。
日本通信教育学会にも、今年の11月に出れば「4年連続参加」となる。
この「居場所」たる「コミュニティ」から、私はいろんなものを得てきている(はず)。
さて、本文章の初めの「しつもん」に戻ろう。
「Homeはどこにある?」。
あちこち/定期的に移動してきた私にとって、
Homeは拡散した概念と成っている。
しかし。
仕事や「イベント」をやるたびに自分のHomeが形成される。
そんな気がする。
単なる「知り合いがいる」レベルで「Home」を感じる人は多い。
いろいろ/あちこち移動してしまった自分にとって、そういうレベルの「Home」には意味があるのだろうか、と思う。
無論、「なつかしさ」や「ここにいたんだなあ」感にひたれる「心のふるさと」的なHomeは必要である。
でも。
それを大事にすると、全く知り合いのいない場所を「Home」に変えていく力を人は失ってしまうのではないか。
私が仕事なりイベントなりで感じた「Home」は、ゼロから作っていったものである。
結論。
「Home」は「すでにある」ものではない。
自分が作り、築き上げていく過程の中に出来上がるものである。